リリスティアの夢と現実の境
暗闇の中から、ゆっくりと意識が浮上する。
瞼越しに伝わる光が眩しくて目を開くと、緑色が見えた。
回らない頭でボンヤリとしていた私は、緑色がサラリと揺れたこと。またその奥から覗く、薄い緑色の双眼と目があったことで、手前の緑が誰かの前髪だと気づく。
「おはよう、リリスティア。気分はどう?」
私と目を合わせた後、双眼は安堵の色を浮かべながら私の名を呼んだ。
柔らかくて静かで、とても安心する声だ。
この声も、最初に目に入った綺麗な緑色の髪も、湖畔の水面のように透き通った淡い緑色の双眼も、これらを持つ人物が誰なのか、私はよく知っている。
「……リスペリント」
私の声を聞いたリスペリントは、大きく息を吐きだし、
「君が、無事で良かった。このまま目覚めなかったらと思うと、心配で堪らなかったんだ」
そう言いながら、前屈みだった姿勢を戻し、椅子へ座り直した。
近距離にあった彼の顔が引き、視界が開ける。
天井、よく晴れた空と同じ色の壁。アエラスティウスを模した燭台と家具。
見慣れた光景が見えたことで、私は自室のベッドに寝かされていると気づいた。
ーーあれ? でも、どうして私はここにいるんだろう? 確か、訓練場で魔法射撃をしていたはず。それで……そうだ、また失敗をしてしまって、それから、それから、お父様が……?
“出来の悪い屑くずには折檻をせねばならん”
頭の中に、低く不機嫌なお父様の声が響いた。
瞬間、訓練場での記憶が蘇る。
激しい旋風が、私を取り囲み壁となっていた。
身動きができない。風の刃は空気を切り裂く恐ろしい音を絶え間なく響かせながら、そのスピードと殺傷力で、私の体に突き刺さり、皮膚ごと肉を抉っていく。
悍ましい記憶を思い出し、背中にドッと冷や汗が流れた。
うまく呼吸ができず、近くにあったシーツを掴み、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返し喘いでいると、ズキリと右腕に痛みを感じた。
驚いて顔を向ければ、破れた服の隙間から覗く上腕に、一本の線が引かれていた。
その線に沿って皮膚と、皮膚の下の肉が裂ける。
パカリと口を開くようにできた傷口の表面から、ジュクジュクと真っ赤な血が滲み出したかと思うと、それは一気に量を増やし、気づけば右腕から大量の血が溢れ出していた。
傷口が開いてしまったんだ! パニックになり、悲鳴をあげるも
「(ーーーーッ!?)」
声は出なかった。
どうして!? そ、そうだ、お父様に無音魔法をかけられているんだ。今の私は、声が出せない。
ズキリと。今度は左腕に痛みが走った。
見ると左腕にも次々と亀裂が走り、皮膚が裂け、新たな傷口が生まれていく。
こっちの傷口も開いてしまった! どうすればと動揺する間にも、血が溢れ出し腕を赤く染める。
その時、皮膚を伝う血の感触に違和感をおぼえた。体は寒くて寒くて堪らないのに、やけに生温くて気持ちが悪い。……寒い? 部屋の中にいるのにどうして寒いの? そんなわけがーー
“このようなことすら出来んのか、リリスティア。其方はやはり、フレニアス家の恥だな”
再びお父様の声が響く。
体が強張り、反射的に目を瞑る。
瞼を開くと、目の前には訓練場が広がっていた。そうだ、私は今、訓練場にいるんだった。お父様との稽古で、的を外してしまったから、その罰を受けている。
両腕の傷口からは、ドロドロと血が流れ続けていた。
血は重力に従って下へ下へと流れ、訓練場の冷たい地面へ落ちて血溜まりを作る。
この血液は、本来は体に巡るべき体温なのだと。
足元に広がる真っ赤な血溜まり。この分だけ私は確実に、命そのものを失っているのだと気づき、ゾッとした。
寒い、とても寒い。さっきよりもずっと寒く感じる。堪らず右手で左腕の傷口を抑えるとーー
「それはなんのつもりだ?」
頭上から声がした。
見上げればお父様が、汚い虫を見るかのような酷く不快そうな表情で私を睨み、立っている。
ズキリと、右手の甲に痛みと亀裂が走る。
亀裂に沿ってパカリと皮膚が裂け、薄い皮膚の下にある白い骨が一瞬だけ見えたが、それも滲んできた赤い血に埋め尽くされ、すぐに見えなくなった。
腕だけじゃない、手だけじゃない。体中が痛かった。足も顔も体も、気づけば全身から血が流れている。
血はとめどなく地面へ落ち続け、体積を増やした血溜まりが、私を中心とした歪な円を形成しながら、ジワジワと周囲へ広がっていく。
視界に赤の範囲が増えていく。茶色だった訓練場の地面は、ついに赤い血の色で埋め尽くされた。
見渡す限りの赤、赤、赤。
なのに体から流れる血は、一向に止まる様子を見せない。
寒い、血が止まらない、一体いつまで血が流れるのだろうか。
耐え切れなくなった私は、その場にぐしゃりと崩れ落ちた。
そんな私を、腕を組んだお父様が無言で見下ろしている。
血が止まらない、寒い、寒い、とても寒い、寒くて寒くて、耐えられない。
もう地面に赤じゃないところなんかないのに、それでも血は私から流れ続け、ドロドロと地面に落ち、赤い血の色を一層赤く濃く染めていく。
「お前さえいなければ、彼女はーー」
頭上から響くお父様の低い声。見上げると、ーーあれ? どうしてだろう、私を睨むお父様の姿が赤い。それに、ちゃんと当てられなかった的の残骸も赤かった。
遠くに見えるフレニアス家の屋敷も、その背景である雲のかかった空も、視界に入る光景の全てが赤い、そっか、赤くていいのか、赤いからいいんだ赤く全部が赤く染まって赤い血が流れて赤い血が赤く続く赤い血が赤い流れて赤い赤へ血が赤い赤が赤い赤い赤い赤赤赤赤赤あかあかあかあかあかあかぁかあかぁかぁああかぁああかあぁあぁあああぁぁあかあかぁあぁあぁあぁあああぁぁかあぁああぁあぁあぁあぁあああぁぁあかあかぁあぁあぁあぁあああぁぁかあぁああぁあぁあぁあぁあああぁぁあかあかぁあぁあぁあぁあああぁぁかあぁああぁあぁーーーー
「ーーリリスティア、リリスティア! 僕の声が聞こえる!?」
バチンと視界が切り替わる。
あれ? 目の前に、誰かがいる……誰? ボヤけていて、よく分からない。
頭がクラクラしていた。それよりもぁかあかあかは? あかがない、あかはどこ?
「目があったッ! リリスティア良かった! 意識が戻ったんだね!?」
何かを、喋っている? 切羽詰まった誰かの声が、頭の中を滑っていく。
どうしたんだろう? 何を焦っているの?
でもそんなことはどうだっていい、あかが、あかは、あか、赤、赤を探さなければーー
「ああぁああか、ぁか……あかは?」
「あぁっ、ダメだよリリスティア、僕から目を離さないでっ! こっちを見て! このまま僕を見続けるんだ!」
「でもあか、赤、赤がーー」
「こっちを! 僕の目を見てリリスティア! 君は君を心配する僕よりも、その“赤”とやらが気になるの!?」
「……? だれ? だれが、心配? 赤、よりも気になる、誰が?」
「僕が誰なのか分からない? エーダフィオンの蔓を共に離れた蕾の名を、君は忘れてしまったの?」
「エーダフィオンの、蔓を? 共に、離れた蕾を、忘れ? ……あっ! ち、ちがうっ!」
気づけば、そう叫んでいた。
頭の中にかかっていたモヤが、スゥッと晴れる。
ボヤけた視界がクリアになると、目の前にはリスペリントの顔があった。
「“ちがう”なら、忘れてないのなら、僕の名を呼べるよね? 今どこにいるのか答えて?」
変な質問に、つい眉を顰める。
リスペリントはリスペリントだし、“ここが何処か”だなんて、訓練場に決まってるのに。
そう思いながらリスペリントを見ると、彼越しに、壁とその壁についた燭台が見えた。
……あれ? どうして訓練場に壁があるんだろう。
それにあの燭台も変だ。
なんだか屋内用の設備みたいに凝ったデザインをしているし、妙に見覚えがある。
まるで私の部屋の燭台のみたいな……私の、部屋? ーーあ、そうだ。ここは訓練場じゃない。私は今、私の部屋に、ベッドの上にいるんだった。
リスペリントへ視線を戻すと、彼は私の返事を待ちながら、まじまじとこちらを見つめていた。
同じ緑色の瞳でも、私の黒みがかった瞳とは似ても似つかない。
リスペリントの淡く透き通った瞳は、例えるのならば純度の高い魔力結晶石のようだ。
吸い込まれそうなほど綺麗で、ずっと見ていたいと思える瞳。
でも今は、彼の瞳から送られる視線に、なんとも言えない居心地の悪さを感じる。
理由は不明だが、こちらを観察する様子を、隠そうともしていないのだ。
耐えきれず目を逸らすと、リスペリントの手が視界に入った。手は私の両肩に乗っている。
視線を上げると、リスペリントが腕を突っ張っぱりながら、私に覆い被さっていることに気づく。
自身の体重で、私をベッドに押さえつけるような彼の体勢を見て、察しの悪い私もようやく何が起こったのかを理解した。
(はぁ、……また、やってしまったんだ)
大きくため息をついた。
愚図で出来損ないの蕾で、どうしようもない私は頭も欠陥品らしく時々、正気を失ってしまう。
現実と夢の境が分からなくなり、起きながらに夢、大概は悪夢を見てしまうのだが、問題はその間の体の方だった。
想像するだけで恐ろしいが、なんと体は私の意識がないままに、発狂したり暴れ回ったりと、相当な迷惑行為をしているらしい。
今回だって、放っておけば私は部屋から飛び出し屋敷中で暴れ回っていただろう。
それをリスペリントが、錯乱し暴れる私をベッドへ抑えつけることで、文字通り体を張って守ってくれた。
そのお陰で、お父様や側近の前で奇行を晒すという失態を犯さずに済んだのだ。
「リリスティア、僕の名とこの場所がどこか、分かるかい?」
状況を整理していると、リスペリントが同じ問いを繰り返す。
私の意識が戻って来たかを、確認したいんだろう。
「貴方はリスペリントで、ここは私の部屋。その、もう大丈夫……だと思う」
そう答えると、リスペリントは数秒の沈黙の後、体に込めていた力をフッと抜いた。
私の肩から手を離し、体を起こす。ベッドの端に座り直した。
「おはよう、リリスティア。気分はどう?」
正直に言えば、体が重くて吐き気がある。
でもそれよりも、リスペリントに掴まれていた肩が、ジンジンと痛んでいた。
これは暴走する私を、このベッドへ留めて置くために必要だった力の大きさだ。
肩の酷い痛みから、自分がどれほど激しく暴れていたのかを知り、申し訳なさで押し潰されそうになる。
とにかく謝らなければ。そう思い、ゆっくりと上体を起こす。視線がリスペリントと同じ高さになった。
「……いつも、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」
「迷惑だなんて、少しも思っていないよ」
ボソボソと消え入りそうな声で謝ると、リスペリントは小さく笑う。
その表情にも声にも、煩わしさや忌避感は微塵もなかった。
しかし額には薄らと汗が滲み、頬は赤く蒸気している。
おそらく私はこのベットの上で、意識を取り戻したり錯乱したりを何度も繰り返し、その度にリスペリントは私を抑え、必死で呼びかけ続けてくれたんだろう。
「……リスペリントがそう思っていなくても、私が貴方に迷惑をかけたことは事実だから」
「うん、そうだね。じゃぁ、僕が迷惑だと思っていないことも事実だよ。だから気にしないで、ね?」
リスペリントは手を伸ばし私の頭に置くと、そこから頬へかけて、髪をスルリと撫でた。
「君の意識が戻ってきてくれて嬉しい。僕は心から、そう思っているよ」
優しくて暖かい手の感触と、安心と少しの心配が入り混じった彼の表情に、私は胸をギュッと押しつぶされたような感覚を覚えた。
この痛み、表面が痒いようなでも嫌ではない苦しさは、いったいなんなのか。
分からない私は、気まずい思いのまま視線を宙に彷徨わせたのだった。




