風の講師と副領主
「……あっ! は、はい、大丈夫ですっ! リスペリント先生こそお怪我はありませんか!?」
ハクハクと金魚のように開け閉めしていた口からやっと言葉が出た。
フリーズしていた脳も再起動する。動き出した脳は、防御のためとはいえ異性と密着していることを認識し、今度は軽いパニック状態に陥った。
私いま、抱きしめられてる!? いやいや、そういうんじゃないから! 講師として、庇ってくれただけだからっ!
失礼とは分かっているが、グイッと腕を突っ張ってリスペリント先生と距離を取る。
すると先生との間にできた距離の分だけ、僅かに心にゆとりが訪れた。胸をおさえ、ふぅふぅと呼吸を整えて落ち着く努力をする。
そんな私の様子をジッと見下ろしていたリスペリント先生が口を開いた。
「怪我が無くて何よりです。私も問題はありません」
「そ、そうですか! それは良かったです!?」
謎の返事をしてしまった。良かったですって良くはないでしょ!? ん? いや、負傷しなくて良かったのか?
そうだよ。あんなすごい攻撃を背中に受けたのに、問題がなくて良かったんだ。
あ、そういえばさっきキィンって音が響いたのも、防御魔法か何かで斬撃を防いだのかもしれない。
妙に意識してしまう自分の心を隠すように、頭の中が騒がしい。
わちゃわちゃとワザと余計なことを考えていると、再びリスペリント先生の声が聞こえた。
「ですが、随分と体調が悪く見えます。呼吸も乱れているようですね。隠す必要はありませんよ。本当はどこか痛むのではないですか?」
心配そうな瞳を向ける先生に、なんて答えればいいのか。
男性免疫がないだけです。だなんて口が裂けても言えない。
……落ち着け、落ち着け、私。ほら、前に魔との戦闘の時にだって、ロンルカストに抱きついたことがあったじゃん。
冒険者のみんなやサルト先輩とだって、何度かハグしてるし。あれと同じ。こんなの全然意識することじゃないよ。
無理矢理自分に言い聞かせ、深呼吸する。
先生に気を使わせてしまった申し訳なさから、まだ残っている動揺を奥へ奥へと押し込めた。平静と笑顔を取り繕った顔を返事を待つ先生に向け、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「あ、いえ、これはその、何でもなくてですね。本当に大丈夫ですので、あの、お気になさらないでください」
「……そうですか。女性にこのような行為は失礼と承知ですが、どうかご容赦ください」
しかし私の顔を見たリスペリント先生は、そう言うや否やサッと一歩を踏み出し距離を詰めた。
腕を伸ばし、その手を私の両頬にソッと添えて向きを固定する。身長差を埋めるため、少し屈むことで自身の顔を寄せた。
まさにゼロ距離。長い前髪で隠れているのにも関わらず、その距離の近さから薄い緑色の瞳とバチリと視線が交差する。
リスペリント先生との距離と、自身の心のゆとりを推し量る私のバロメーターがプスンと間抜けな音を立てて壊れた。
そして不意の急接近に対処しきれない私の脳は、現実逃避を選択する。
わぁ、リスペリント先生って、お肌綺麗だなぁ。それに美形だよね。あ、睫毛も緑色なんだ。うわぁー、異世界って感じって、これなに!? かかか、顔が近いぃっ!?
手放した意識は一瞬で戻ってきたが、体の自由は戻らなかった。
目を見開いたまま硬直しているのを気にすることもなく、リスペリント先生は私の顔をマジマジと見る。軽く頷くと頬から手を離し、次に首を触った。
その後は腕をとる。袖を少しだけ捲って両手首の脈を診た。優しく腕を下ろし、服にも傷がないか確認するために全身を見る。
いくら講師といえども、異性の生徒にペタペタと接触する行為はセクハラと呼ばれてもおかしくはないが、少し眉を顰めながら真面目な顔をしているリスペリント先生の様子はやましさとは無縁。
これはただの体調確認であり、生徒のメディカルチェックを行っていることは明らかだ。
だが先生の真摯な心配とは裏腹に、体に触れられたことで勝手ながら羞恥心を感じてしまう。
素肌に感じたリスペリント先生のひんやりとした体温。
されるがままに触れられた部分の体表温度は、肌に残った冷たさを飲み込んで勝手に急上昇していく。とどまりきれない熱は、あっという間に体中に広がっていった。
体の熱さを自覚し、その自分の不謹慎さがまた心の動揺を煽る。
乱された内心と羞恥心が許容範囲を超え、頭の中が真っ白になった。ドクドクと、早まった鼓動の音がやけに大きく聞こえる。意識はハッキリとしているのに何故だか気持ちはフワフワしていた。
本日3度目のフリーズ。だがそれは蒸気した顔を見られたくないという、なけなしの乙女心により即時解除された。
無意識にリスペリント先生からザザッと後退りをして離れる。私自身も乙女心なんて大層なものを自分が持っていたとは知らなかったが、グッジョブだ。
再び距離を取った私は、下を向きながら、早口で弁明した。
「だだだ、大丈夫です! どこも何も悪くありませんっ!?」
心臓は依然としてバクバクと音を立てている。体が燃えるように熱い。
見なくても分かる。今の私はきっと真っ赤だ。
その意味ではきっとかなりの重症。何が大丈夫なのか。どう大丈夫なのか。逆に教えて欲しい。
浅くなった呼吸と恥ずかしさで満たされた頭の中を深呼吸で無理やり調整していると、ふいに冷たい声が響いた。
「何やら騒がしいな。説明を求める」
周囲から温度が消える。
限界まで上昇していた私の体温も、一気に冷え切った。茹っていた頭の中は否応も無く冷静さを取り戻し、緊急事態警報を鳴らしながら声の主が誰かを告げている。
うっ、この声は……全く確かめたくない。だがそんな無礼が許される相手じゃないことは、見るまでも無く確定していた。
恐る恐る顔を上げる。リスペリント先生の肩越しに見えた光景には、不機嫌さを隠すことなくむしろ全身で表したレオ様が立っていた。
分かっていたにも関わらず、その射抜くような眼差しとの突然の近距離での対峙に心臓がビクリと跳ね上がる。
「ひぃっきゅぅ!?」
喉からは首を締められた鳥のような声が漏れた。会うのは七冠くぐりの儀式の月の輪以来なので数ヶ月ぶり。久しぶりのレオ様に、すっかり耐性が無くなっていた。
極度の緊張から周りの景色が遠ざかる。副領主もしくは騎士団長の登場による生徒たちのざわめきが、やけに遠くから聞こえた。
そんな私を見たレオ様は、顰めていた顔をさらに歪め腕を組む。
溢れ出る威圧感と嫌悪感は、立っているだけなのに周囲にピリピリとした嫌な緊張感を撒き散らしていた。レオ様が再び口を開く。
「説明を求めると言ったのだが私の声が聞こえぬのか。一度では言葉の意味も理解できぬ愚人であることは重々理解できた故、これ以上の無駄な手間を取らすな」
感情のない平坦で低い声が胸に突き刺さる。
まるで心臓におもしが乗ったような心地になった。圧迫されて声が出ない。
騎士団の訓練用に身につけている完全武装した姿も場の雰囲気に拍車をかけていた。
腰につけた剣の刀身は細身だが、もしレオ様がその柄に手をかけてサッと横に振り抜けば、私の頭と体くらい簡単にさよならしてしまうだろう。
そして平民の血で剣と演習場が汚れたと、眉を顰めるのだろうか。
脳裏によぎった最悪の想像に、息を呑むばかりで何もいえない。そんな私の前に立っていたリスペリント先生がゆっくりと振り返る。レオ様と対面した彼は、スッと頭を下げた。
「失礼致します。風の講義内にて発生した不測の事態に見舞われ、その対処をしておりました。既に事態は問題なく終息いたしましたことをご報告するとともに、騎士団の訓練を妨げお騒がせ致しましたこと、責任者である講師として深くお詫び申し上げます」
そう謝罪した彼越しに、チラリと私を見たレオ様が口を開く。
「ふむ。原因はそれか。不承であるが、それはうちの管理下にあるものだ。これ以上問題を起こさぬようこちらが引き取ろう。……ミアーレア、来い」
ひぃっ!? 嫌だっ! 引き取るってどこに連行されるのっ!?
心の中では弁明の嵐だ。
この騒ぎは私のせいじゃありません! どっかの誰かが、ありえない方向に魔法を打ち出したんです! 私は巻き込まれただけの、ただの被害者なんです!
だが嫌だ嫌だと叫ぶ心とは対照的に、頭ではその機会が訪れないことを悟っていた。
汚物でも見るかのような眼差しで私を見下ろすレオ様の様子は、釈明の余地がないことを雄弁に物語っている。
拒否する選択肢など、はじめからない。一つしかない答えを述べるために、震える声で返事をした。
「はい、申し訳ございません……」
違うのに、私じゃないのに……
込み上がる思いとレオ様の元へ行かなければいけない恐れから来る体の震えを、両掌を体の横でグッと握りしめることで耐える。
自分の不運を呪う事しかできないままに全てを諦め死地へ向かおうと重い足をあげた。
しかし前へ向かって足を踏み出した私の肩に、横から伸びたリスペリント先生の手がかかる。グイと後ろに引き戻された。
急に後ろ方向へかかった力を片足で支えきれなかった私は、よろめいて元いた場所よりも少し後ろの位置で停止する。
そんな私を背中で隠すように、やや横にズレたリスペリント先生の声が聞こえた。
「いいえ、これは私の講義での不始末です。こちらで適正に対処致しますので、レオルフェスティーノ様のお手を煩わせるには及びません」
「リスペリント、久しぶりの故郷に自分の立つ場所も分からぬようだな。教えてやろう。ここは演習場であり、私の管理下だ。部外者が余計な口を出すな」
「僭越ながら申し上げます。この場の一時的な使用許可は事前にいただいているはずです」
「なるほど。それが其方の言い分であるか。だがその許可を出したのは私だ。むろん取り消すのも私だ」
「では恐縮ですが、所定の手続きをお踏みください」
先生は私を庇ってくれているんだ。
そう気がつく。信じられない気持ちで、一生徒のためにレオ様と敵対する細い背中を見上げた。
こんなことをして立場的に大丈夫なのか。混乱と隠しきれない嬉しさ、そして巻き込んでしまった申し訳なさでぐちゃぐちゃの気持ちがせり上がり、私は震える指先を胸の前で握り締めたのだった。




