陰の講義
“” トンネルを抜けると雪国であった”
かの有名な小説家は、言っていた。
真っ暗だったトンネルがやっと終わる。
視界がひらけた先に広がっていた、一面の雪景色。
思いがけない光景に、息を呑む。強烈な印象が彼の脳に刻まれただろう。
しかし完全記憶を持ち合わせていない私たちは、どんな思い出さえも、ずっと握りしめていることはできない。
必然的に時間とともに薄れていく。
その記憶が完全に失われる前に彼は、脳内の映像を消化し、冒頭の一節として小説に落とし込んだのではないだろうか。
物書きらしい、保存方法だ。
なぜ今、その一節を思い出したのか。
それは扉を抜けた先が、思いがけない光景であったからだ。
机に並ぶ、よくわからない実験器具の数々。
その隙間を埋めるように、開きっぱなしの本が、そこかしこに積み上げられている。
今にも崩れ落ちそうな本棚は、机に乗り切らない本たちを、とりあえず適当に詰め込みましたと物語り、床には書き散らかされたメモが所狭しとばら撒かれていた。文字通り、足の踏み場もない。
……ここ、本当にお城の中の一部屋だよね?
重厚な城の雰囲気に似つかわしくない、部屋の有様にお口あんぐり。
今まで見てきたどの部屋とも違う。
雑多に謎の器具が入り混じる様は、理科の実験室のようだ。
おそらく元々は、普通の執務室だったんだろう。
よく見れば、棚はシンプルだけど質が良く、椅子や机などの調度品も高そうだ。
しかしそれだけに、ラボみたいな部屋の使われ方との違和感が半端ない。
「何をしている。早く入りなさい」
扉の前で、唖然としていると中に入るように急かされる。
「あっ、すみませんっ!」
いや、でもこれ、どうやって進めばいいの?
つい返事はしたものの、床には大量のメモが散乱している。
んー、行くしかないっ!
震えのおさまった足で、クイっと爪先立ちをする。
ミミズのような文字が書かれたメモたちを踏まないように、ギリ見えている床を目掛け、ヒョコヒョコと進む。
……ふぅ、なんとか部屋の中へ入ることができた。
「ザラクスだ」
突然のアスレチックを乗り越え、奮闘を終えた足元を見ながらホッとしていると、急に何かを言われた。
「はい?」
反射的に、聞き返してしまう。
「陰の講師、ザラクスだ」
そう言われて、顔を上げる。
沢山の器具の隙間から、陰の輪くぐりの儀式で会った、ひょろりとした男性講師が見えた。
私の方を見ることもせず、フラスコにテキテキと怪しげな液体を垂らしては顔を顰めている。
おぉ……。記憶通り、今日も不気味だ。
世界征服を企む悪い科学者が、ウイルス兵器を開発しているようにしか見えない。
「あ、はいっ! 宜しくお願い致します! 私はミアーレア・フィエスリントと申しまーー」
「よい、知っている。其方はそこの机を使うように」
慌てて挨拶をしようとした私を、ハスキーな声で遮ったザラクス先生は、緑色のドロドロが入ったフラスコを見つめたまま、細い指先だけをツゥっと動かす。
部屋の左側を示した。その先には、物でごっちゃごちゃの机がある。
あれを、どうしろと?
あまりの汚さに顔を顰めそうになると、さっき扉を開けてくれた側近が、サッと机に向かった。
真っ直ぐに背中を伸ばした、綺麗な姿勢の早歩き。だが床のメモは見事に避け、全く踏んでいない。
すごい、スペック。きっとここでしか使うことはないだろうけど。
深緑服の高スペック側近は、机に着くとごちゃごちゃの机の上のものをザッと端に寄せる。
一塊になった器具やら本を、一気に持ち上げる。ドサリと隣の机の上に置いた。
「こちらへどうぞ」
にこりと笑った側近の力技により、あっという間に出来上がった綺麗な机へ移動する。
「あっ、はい、ありがとう存じます」
尊い犠牲となった隣の机では、カオスの上に新たなカオスが発生することとなったが、敢えて見ないようにした。
「…………。」
え? それで、私はどうすればいいの?
スッと下がった側近は違う仕事を始め、ザラクス先生は、フラスコテキテキを続行している。
まさかの放置プレイ。はて、ここに突っ立って私は、いったい何をすればいいのか。
というか、他の生徒たちはどこにいるんだろう。
同じ講義を受ける同級生が、誰一人来ていない。急に、心配になった。
ロンルカストは、陰の講義を受けるものは多くないと言っていた。
南塔前にも馬車は止まっていなかったし、私よりもだいぶ前にきて、先に側近と馬車を帰らせた同級生がいるはずだ。
何人いるのか分からないけれど、まだこの部屋に着いていないということは、不味いのでは?
私みたいに幽霊に驚いて、今も塔内を逃げ回っているのかな。
もしくは伝令を受け取れず、今もポツンと講義室で待っているのかもしれない。悲しすぎるでしょ。音楽室の悪夢が蘇る。
体に悪そうな色の液体が入ったフラスコに全集中している科学者に、おずおずと声をかけた。
「……あの、ザラクス先生?」
「なんだ?」
「私以外の生徒が、まだ来ていないようです。迷っているか、伝令を受け取れていないのではないでしょうか?」
「問題ない」
「へ? それはどういうーー」
「当然だ。今年の蕾の中で輪に反応したのは、其方一人なのだからな。他のものに、ここへ来る権利はない。だから、問題ない」
ザラクス先生はそう言って、テキテキを終えたフラスコを傾ける。
フラスコの下には、一回り大きい三角フラスコがあり、その中にはガラス棒が入れられていた。
緑のドロドロがガラス棒を伝って、三角フラスコの中へと落ちていく。
三角フラスコの底には、赤黒い何かが溜まっていた。
赤黒い何かは、不気味にうぞうぞと蠢き、フラスコを這いあがろうと足掻いては、ツルッとしたガラスの質感に阻まれている。
ひぃっ! なな、なにあれっ!?
赤黒い何かは、ガラス棒を伝い落ちてきた緑のドロドロに気づくと、逃げるようにフラスコの壁へベシャリと張り付く。
上へと這いあがろうと必死だが、叶わない。
その間に狭い試験管の中で量を増やした緑のドロドロが底を埋め尽くし、行き場を無くした赤黒い何かの先端にあたる。
ジュッと焦げるような音が聞こえた。
緑のドロドロを三角フラスコへ入れ替え終わったザラクス先生は、ガラス棒を外す。
三角フラスコを手に取り、手首のスナップを効かせてふり混ぜた。
なす術もなくフラスコ内で緑のドロドロに覆い尽くされた赤黒い何かは、比重が軽いのか浮き上がる。
うぞうぞと足掻き、上へ上へと触手を伸ばすが、ほんの僅かな時間稼ぎしか出来なかった。
緑のドロドロと接着している面からジュジュッと焦げ腐る音を立て、その部分が黒ずんでいく。
やがて真っ黒になり、ドロドロの中へ沈んでいった。強烈な腐敗臭が漂う。バッと鼻を押さえた。
三角フラスコ内のグロテスクな実験結果を、満足そうに見届けたザラクス先生は、口の端を上げた。
黒に近いグレーヘアーを、枯れ木のような手でわしゃわしゃっとかきあげる。
……おっそろしい所にきてしまった。何あの、不気味な実験? まだ背中がゾワゾワしている。
さっき、私だけが講義を受ける権利があると言われた。でも、そんなの貰っても、全っ然嬉しくない。むしろ罰ゲームなのでは。
ここでいったい、なにをさせられるんだろう。悪い研究の助手? 正義の味方に見つかって、捕まったりしないよね?
思い切って聞いてみる。
「……あの、ザラクス先生? お忙しいところ申し訳ありません。本日の講義は、どのようなものですか?」
私の質問を受けたザラクス先生は、目を丸くしてやっと私を見た。
「講義?」
そう言いながら、初めて聞く単語のような顔をしている。いや、どういうこと?
「はい、あのぉ、私はここへ陰の講義を学びに来たのです。ザラクス先生は、講義をしてくれるのですよね?」
「……あぁ、そうか、講義か。生徒を持つのが久しぶりであったから、忘れていた」
側近からお茶を受け取り、壁に寄りかかりながら休憩タイムをはじめたザラクス先生は、懐かしそうに目を細める。
貴族にあるまじき、行儀の悪さだ。羨ましい。
私がやったら、ロンルカストにぶっとばされそう。
「陰の輪に反応するものは、そんなに少ないのですか?」
「非常に珍しい。前にきたのは…… あれはいつだったか? ふむ、思い出せんな。10年は経っていないと思うが?」
「はぁ、そんなに前なのですか。その時はどのような講義をなさったのか、覚えていらっしゃいますか?」
「あぁ、よく覚えている」
「教えていただいても、宜しいですか?」
「構わん。私は特に何もしなかったからな」
「はい?」
「私は何もしなかった。あやつは勝手にこの部屋の本を読み、勝手にこの部屋の器具を使い、勝手に学んでいたのだ」
なにそいつ。トリッキーな生徒すぎるでしょ。
講師も講師だが、生徒もぶっ飛んでいた。
私には、この怪しげな器具たちを勝手にいじる度胸なんてないよ。
「えぇっと、私はここで、何を学べば良いのでしょうか?」
「ふむ。そうだな、では課題を与えよう。この瓶の中のものを消しなさい」
ザラクス先生のアイコンタクトを受けて、側近が運んできた瓶を受け取る。
「これは、何ですか?」
中を覗く。一本のタコ足が入っていた。
ん? なにこれ? なんでタコの足が一本だけ入ってるの?
不思議に思い、受け取った瓶を傾ける。
タコ足に無数についている吸盤が、ギョロリと目を開いた。目玉を動かす。一斉に私を見た。
「ひゃいぃっ!?」
恐怖で体が動かない。そんな私を尻目に、タコ足は足の先端をトグロのように巻くと、ググッと縮む。バネのように体をしならせ、一気に私に向かって跳ね上がった。
やられるっ! 恐ろしい速度で近づいてくるタコ足を見つめることしかできない私は、瞬間的にそう思った。
しかし、その時は来なかった。タコ足は、ビタンと瓶のガラスにぶつかる。鈍い衝撃が、瓶を持つ手に伝わった。ズルズルとそのまま瓶底へ落ちる。
はぁっ、はぁっ……。心臓止まるかと思った。
今になって心臓は、バクバクと高速で音を立てている。
衝撃で潰れたいくつかの目玉からでた、紫色の汁が瓶の側面を汚している。
うわぁ、気持ち悪い。瓶を触るのすら悍ましい。
「くくっ、それは魔だ」
ザラクス先生はそんな私を見ながら、楽しそうにお茶をすする。
……今の、絶対わざとだ。
ティータイムの余興にされたことに気がついた私は、設置面を少なくするため、なるべく指先だけで瓶を机の端に遠ざけ、更に机からも最大限の距離をとりながら、ザラクス先生をキッと睨みつけたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。




