竜と仔
黒竜王の最期を見届けた後。
俺たちはそのままその日はそこで過ごすことにした。
黒竜王が屋根をふっ飛ばしてしまったせいで、洞窟に戻れない、というのももちろんある。だがそれ以上に、エレニの眼差しに気づいてしまったというのが理由としては一番大きかった。
エレニは、ぼんやりとそこからの景色を眺めていた。
すでに夜の藍に染まった世界の、地平線を彩るようにわずかに明かりが見える。
その明かりこそが、黒竜王が守ろうとした人の営みであり、これまで長い年月にもわたって黒竜王が見守り続けてきたもの、なのだろう。
そして、黒竜王が最期に見た景色でもある。
黒竜王との戦闘は、避けようがなかった。
黒竜王の死は、避けられなかった。
だから、そのことで自分自身を責める、というような気持はない。
俺たちは、やれることをやった。
あの戦いの後に残ったのは憎しみでも、恨みでもなく、柔らかな悼みだ。
ただ――…そう頭ではわかっていても、気持ちを切り替えるのに少しだけ時間が欲しかった。
きっとイサトさんも同じように感じていたのだろう。
「今日はここで野営にしようか」
「そうだな、そうしよう。エレニ、お前もそれでいいだろ?」
エレニが俺を見る。
「君たちは……」
何か言いかけたものの、エレニは結局その続きを口にはしなかった。
屋根を吹き飛ばしてしまった洞窟にしろ、俺たちが力を合わせれば一晩を過ごせる程度には場を整えることもできることはエレニだってわかっているはずだ。
だからエレニは、言葉を続ける代わりにどこか気恥ずかしそうな、柔らかな苦味を帯びた笑みを浮かべて頷いたのだった。
俺とエレニが野営の準備を整えていく中、イサトさんは張り切って鍋の支度を始める。
簡易的な竈を作ったのはエレニだ。
残念ながら俺にはそこまでちゃんとした野営の知識はない。
その辺の石を組み合わせて器用なものだ。
見て覚えれば元の世界に戻ってもキャンプなどで使えるかもしれない、と興味津々で眺めていればエレニがいろいろとコツを教えてくれた。意外だ。
鍋や調理道具、調味料の類は『家』の中から調達する。
何もないはずの虚空に浮かんだ扉の向こうに整えられた居住空間がちらりと覗けたのか、エレニが面白がるように笑った。
「……本当、君らはお人よしだよね」
「うるさい」
「今日はキャンプな気分だったんだ」
「こんな極寒の地で?」
「滅多にない経験だからな」
開き直った俺たちの言葉に、くくく、と喉を鳴らして笑う。
一方で、そんなエレニにしろ『家』の方に入れろとは言わなかったのだから同罪だ。
イサトさんは、鍋ではぐつぐつと湯を沸かしつつ、その上にまな板を置いて鍋の材料となる食材を切り揃えている。
食材となるのは、『家』の庭でイサトさんが栽培していた野菜や、そのうち使うかもしれないとインベントリに突っ込んだままになっていた魚や肉だ。惜しげもなく提供される食材が、若干闇鍋めいた気配を発し始めていたのはおそらく俺の気のせいだろう。気のせいだと、思いたい。
「……イサトさん、それ、食べられるっけか」
イサトさんの手には、どことなく怪しげなキノコ。
「……………………」
何故そこで首を傾げる。
「…………使用することで一定期間無敵タイムに突入する」
「…………使用」
「使用」
思わず復唱した俺に向かって、イサトさんが重々しく頷く。
調理アイテムではなく、使用アイテムであるあたりがミソだと思う。
俺はそっとイサトさんのキノコを握る手を下ろさせた。
何故か少しだけ残念そうな顔をしつつ、イサトさんがキノコをインベントリへとしまう。
こんなところで無敵タイムに突入してどうしろというのか。
ゲーム時代と違って、アイテムの説明を見ることができないのが怖いところだ。RFCにおいて、調理用のアイテム(食材)だと思っていたら、錬金術用アイテム(素材)だった、というのはあるあるネタの一つだ。調合で作れそうな料理は錬金術扱い、というフィーリングで分類されているが故のミスだ。
確実に食材だと判明しているものだけを吟味して、イサトさんは下ごしらえを済ましていく。その手つきは意外なことに危うげなく、料理をし慣れていることが伺い知れる。
「…………」
俺がじっと見ていることに気付いたのか、イサトさんが首を傾げた。
「どうかしたか?」
「や、上手いものだなーって」
「……む。これまでにも何度か作ってあげているじゃないか」
「や、それはそうなんだけど。実際に作ってるところを見るのは初めてだから」
「そういえばそうか」
ひょいと肩を竦めて、イサトさんがざらりと鍋へと具材を投入していく。
そんな慣れた仕草を眺めながら、ふと俺はまだまだイサトさんについて知らないことばかりなのだということに改めて気づかされる。
ゲームの中で知り合って、こうして二人して異世界に飛ばされて。
イサトさんがどういう人なのか、ということについてはある程度知ることが出来たと思っている。
どんな人なのか、どういう考え方をする人なのか。
けれど、俺が知っているのはそれだけだ。
俺は元の世界でのイサトさんのことを、何も知らない。
唯一知っているのは、イサトさんの本名と、仕事のことだけだ。
家族のことも知らなければ、元の世界におけるイサトさんの人間関係も知らない。
例えば、好きな人がいるだとか、いないだとか。
「…………」
「秋良?」
「……や、俺、イサトさんのこと何も知らないな、って思って」
「へ?」
「や、ごめん、何でもない」
俺は慌ててぱたぱたと手を振ってイサトさんを誤魔化した。
イサトさんはそうやって、女性であることを理由にリアルへと干渉されることを嫌ってゲーム内で男を騙っていたのだ。そんなイサトさんに対して、本人が望まない形でリアルを聞き出そうとするのはなんというか……酷い裏切りであるような気がしてしまったのだ。
「秋良青年、」
「ねえ、これも鍋に使える?」
イサトさんが口を開いたのと、エレニが声をかけてきたのはほぼ同時だった。
振り返った先で、エレニが手にぶら下げた肉を俺たちに向かって掲げて見せる。
洞窟の中にも食料がいくらかあるからと言って、エレニはそちらの様子を見に行っていたのだ。どうやら何か鍋に使えそうな食材を見つけてきたらしい。話を変える意味でも、俺はいかにも興味津々といった顔でエレニの手元をのぞき込む。
「これは?」
「アズァリスの肉だよ。二、三日前に狩ったやつだから、ちょうど熟成が進んで食べ頃だと思う」
「へえ」
アザァリスというのは、ヅァールイ山脈に住むリスとアザラシを足して2で割ったような姿をしたモンスターだ。通称山アザラシ。ノンアクティブである上に数がそう多くなく、群れで湧かないことからあまり気に留めたことはなかった。効率の良いレベル上げを前提に考えた場合、狩りの対象はドロップが美味しく、群れで湧きがちなモンスターになりがちだ。そうか。喰えたのか、アザァリス。
「そういえば、アズァリスの肉は美味しいという話を聞いたことがあるな」
「そうなのか?」
「高レベルの料理クエでアズァリスのステーキを作れ、みたいなのがあったんだ。アザァリスを狩るのは難しくないけれど、まず見つけるのが大変だし、探している間もアクティブモンスターには絡まれるし、肉のドロップ率も低いしで本当面倒くさくてなー」
「なるほど」
料理スキルを持たない俺が知らないわけだ。
って。
さらっと聞き流したけれども。
ぎぎい、と軋むような動きでイサトさんを見る。
イサトさんは「何か?」というような顔をしていたものの、俺の向ける冷たいジト目にようやく己が自爆したことに気付いたらしく「!」と肩を揺らした。
「……ほほう。高レベルの料理クエ、ねえ」
「…………」
イサトさんがそっと目をそらす。
通常であれば、モンスターから料理アイテムのドロップ率の高いRFCにおいて、料理スキルというのはそれほど重要視されるスキルではない。そもそも重さを理由に、いくら回復効果があろうとも料理は大量に持ち運ぶ回復アイテムとしてはあまり有効ではないからだ。
そうなると、料理スキルを手に入れる理由としては金策か補助効果狙いぐらいだろう。料理は基本的にその材料を材料のままで売る価格よりも割高で売れる。その中でも、食べた人間に取得経験値上昇や防御力アップというようなバフが発生するものはより高く売れる。
なので、どうしても必要とまでは言わないけれど、あればあったで使いみちがないこともない、というのがRFCにおける料理スキルなのだ。
それを、イサトさんは持っているという。
まあ、持っているだろうな、とは思っていた。
思っていたが。
まさか高難易度クエにも挑戦済みだとは。
「…………」
リアルどころか、わりとゲーム内においても俺の知らないことをたんまり隠し持ってやがりそうだな、この人。
「やあアズァリスの肉楽しみだなあ!」
はっはっはー、と空笑いをあげつつ、イサトさんがエレニからアズァリスの肉を受け取った。明らかに誤魔化す気満々だ。
エレニがある程度捌いて肉として保存しておいてくれたおかげで、処理に悩むことなくイサトさんはアズァリスの肉も食べやすい一口サイズに切り分けていく。そのまま鍋に入れてしまうのではなく、下味をつけているのは肉の臭みを抜くためだろう。
そんな光景を眺めながら、ふとエレニが口を開いた。
「そういえば――…竜ってさ」
「ぅん?」
「ほとんど食事をとらないんだよね」
「そうなのか」
「うん」
「へえ」
確かに、あれだけでかいドラゴンが、物理的な食事であの巨体を維持しようとしたならば、すごい量の食料が必要になりそうだ。いくらレベル上げのメッカ、モンスターが豊富なヅァールイ山脈と言っても、何匹もの竜を含んだ生態系を保てるほどではないだろう。
「だから、陛下も俺を引き取るまでは食事、て概念があんまりなかったみたいで」
懐かしそうに語っていたエレニが、わざとらしく沈鬱な表情を作って見せる。
「毎日一日三食ひたすらただ焼いた肉を食べさせられるのは辛かった」
「うわあ」
「うわあ」
俺とイサトさんの悲鳴がハモった。
エレニが黒竜王の元に匿われていた結果、エルフやダークエルフを襲った悲劇から逃れた、という話は前にも聞いていたのだが……。
「引き取られたって、それ、幾つぐらいのときだったんだ?」
「俺が、3、4歳ぐらいのときだったと思う」
「……3、4歳児にひたすら焼いた肉……」
俺たちの世界だったなら、十分虐待で騒ぎになるレベルだ。
栄養的にもかなり問題があるだろうし、そもそも|ただ≪ただ≫焼いた肉、ということはおそらく味付けも何もなく、素材のママの味を活かしました、という状態だろう。それを何日もひたすら食事として与えられ続ける……。
苦行である。
アズァリスの肉に下味をつけるイサトさんの手つきが、心なしか念入りになったようだった。
「それ、どれぐらい続いたんだ?」
「…………2、3か月ぐらいかな」
エレニの視線が当時を思い出したのか、ふッと果てしなく遠くを彷徨った。
俺とイサトさんは言葉を失う。
せめて、ヅァールイ山脈が険しい雪山でなければ、黒竜王ももう少し果物だとか木の実だとかまだ子供が喜びそうな食材の存在にも思い至っただろう。が、残念だからヅァールイ山脈において人の子が食べられそうなのは肉、ぐらいしかなかったわけで。
「まあ、異種族だものなあ」
眉尻を下げて呟いたイサトさんの言葉に、エレニはくくく、と当時を思い出したかのように喉を鳴らして笑った。
「俺に服を着せようとして、ぐずぐずの襤褸切れを量産したこともあった」
「ぶは」
竜の鋭い爪では、人間の子供に服を着せてやるなんてさぞ難しかったことだろう。可愛らしい小さな子どもと、その世話を焼こうと四苦八苦する竜の厳めしい巨体を想像するとなんだか微笑ましくて、口端に笑みが乗る。
だが、それもエレニが家族を失い、同族を失ったからこその状況なのだと思えば、素直に笑ってばかりもいられない。
そっとエレニの表情を窺えば、エレニ自身がそんな俺たちの気遣いを散らすように柔らかな笑みを口元に浮かべた。
「もう、昔の話だ」
ぱちり、とエレニは火の中に薪を差し入れる。
「鍋が煮えるまで、俺と陛下の昔話でもしようか」
そう語るエレニの横顔は優しく、穏やかで。
俺とイサトさんは、ぐつぐつと煮える鍋の音をBGMに、静かにその声音へと耳を傾けた。
エレニが、初めて黒竜王に引き合わされたのは、両親が死んでしばらくしてからのことだった。
山での事故で両親を失ったエレニは、引き取られた先の水晶宮にて、女王によって神官としての素質を見出された。
このまま水晶宮で孤児として暮らすのと、神官見習いとして山で暮らすのと、どちらが良いかと聞かれたとき、エレニは山に向かうことを決めた。
別に、神官に対して何か憧れがあったわけでも、水晶宮で暮らすことが嫌だったわけでもない。ただ、同じく神官の見習いとして候補に挙がっていた少年には、家族がいた。エレニよりもう少し年上のその子どもは、神官見習いとして家族のもとを離れ、竜の住まう山に向かわされることを酷く恐れていたのだ。
神官としての素質を見出されることは、エルフにとっての誉れだ。
けれど、そんなことは子どもにはわからない。
何かよくわからないものに選ばれ、家族と引き離されて竜の住むという山へと連れていかれる。
意地悪な年長の子供たちは、大人たちの見えないところで山に連れていかれた子どもは竜に食べられてしまうのだとおどろおどろしく語った。
エレニもそんな話を聞かなかったわけではない。
むしろだからこそ、エレニは神官見習いになることを決めたのだ。
エレニには、家族がいなかったから。
両親を事故で失い、引き取ってくれるような親族を持たなかったエレニは孤独だった。
そして、自分が孤独だということをその頃のエレニはすでに理解していた。
家族と離れる不安は、ない。もし本当に山に連れていかれた子供が竜に食べられてしまうのだとしても、エレニならば誰も悲しまない。
家族を失う悲しみを知っているエレニだからこその、選択だった。
竜神官に手を引かれ、険しい山道を超え、ダンジョンを経て竜の間へとたどりついて。
エレニはそこで初めて、竜、という生き物を見た。
竜は、偉大だった。
黒く艶やかな鱗を氷雪の煌きに包み、エレニを見据える陽の色を閉じ込めたような金の眼には年月を超えた叡智が宿っているかのようだった。
強くて、たくましく、賢く、美しい完璧ないきもの。
かみさまを見た、と幼いエレニは思った。
『だいすきよ、エレニ。ずっと一緒』
優しい言葉を思い出す。
暗闇が怖くて泣いたエレニを抱きしめて、そう囁いたのは母親だ。
『父さんがついてるからな。父さんが守ってやる』
びょうびょうと吹きすさぶ雪風が怖いと泣いたエレニを、そう言って力強く抱きしめてくれたのは父親だ。
だけど、二人ともエレニをおいて逝ってしまった。
エレニはずっと、両親の言葉を信じていた。
エレニは両親のことが好きで、両親もエレニのことが好きだった。
だから、ずっと一緒にいるのだと当たり前のようにそう信じていた。
だけど、二人は逝ってしまった。
好きなのに、想いは繋がっているのに、それでも逝ってしまった。
ひとは弱い生き物で、信じていても、裏切るつもりなどなくても、守られない約束があって、叶えられない願いがあるということをエレニはその年で知ってしまった。
自分の命を含め、人やモノへの執着が薄くなってしまったのは、きっとそのせいなのだろう、と今では他人事のように思う。
両親の死で傷ついた幼い子どもは、同じ傷を二度と負わないようにと存在の永遠を、約束を、無条件に信じることをやめてしまったのだ。
ああ、けれど。
エレニの前にいたのはかみさまだった。
竜の固く、艶やかな黒い鱗はどれだけ雪が降ろうとも、その白に塗りつぶされてしまうようなことはないだろう。竜の鋭い爪はどんな獣にも負けないだろうし、竜の夏の日差しを固めたような金の双眸は、どんなに寒い夜でも凍てつくことはないだろう。
エレニは、竜の姿に永遠を見た。
竜のことなら、信じられると思った。
ぽかんと竜を見上げるエレニに、竜は僅かに困惑を滲ませたようだった。
竜は、エレニが幼すぎることが気にかかっているようだった。
竜は、エレニに家族がいないことを慮っているようだった。
エレニは、竜の傍にいたかった。
どうしたなら、その気持ちを竜に伝えられるだろうか。
それとも、口を開いたら竜の不興を買ってしまうだろうか。
いや、そんなことを考えるだけの余裕すらエレニにはなかったのかもしれない。
美しく、強く、賢く、そして優しい生き物にエレニはただただ見蕩れていた。
竜と、神官の間で何事かやりとりがあったのをエレニは微かに覚えている。そして、その結果竜がエレニを受け入れてくれたことも。
『人の子よ。そなたの名はなんという』
ごうごう、と降り注ぐ声音は厳かに。
「エレニです。エレニ・サマラスです、へいか」
神官を見習って、恭しく答える。
そんなエレニに、竜は小さく笑ったように見えた。
それからしばらく、エレニは竜の住む山と、ノースガリアとの間を往復して暮らした。山での生活は幼子には過酷すぎるということで、少しずつ体を慣らしていくことになっていたのだ。
そして、異変はそんな日々の中で起きた。
その日も、エレニは山での生活を終えて街に戻るところだった。
本当は、帰りたくなかった。
ずっと、竜の傍にいたかった。
けれど、良い神官見習いでなければ竜のそばには留めてもらえないということもわかっていたから、エレニはおとなしく神官たちに連れられて街へと戻ることにした。
いつもなら、街についたら水晶宮にて女王に挨拶をして、それから数日の休みを与えられる。普通の子どもらしく過ごして良いのだ、と他の子どもたちとともに過ごす時間を与えられるのだ。
しかし、その日は違った。
足を踏み入れた街並みはただただ静かで。
決して破られるはずのない女王の護りが消えうせて、びようびようと雪風が街に吹き込んでいた。白く、積もる雪が街並みを密やかに埋めていく。
ただごとではないと判断した神官たちは、すぐに山に戻った。
そして、エレニを竜に預けると――…街を捜索するために山を後にして、そのまま二度と山には戻ってこなかった。
最初の何日か、エレニは山に備蓄されていた食料を食べて過ごした。
山で暮らすようになれば一人で何でも出来るようにならなければならないのだと、竜の洞穴の片隅に作られた小部屋での過ごし方についてはこれまでにも聞かされていたし、実際に神官たちがどう過ごしているのかはこれまでに見てきていた。だからエレニは、おとなしく神官たちに言われた通りに過ごした。
竜は、神官たちが戻らないことをそれほど気にかけてはいないようだった。
むしろ、竜の元に戻れなくなる程度の、人の国における問題が何か起こったのだろうと悠然と構えているように見えた。
エレニは、竜とは逆だった。
雪に埋まり始めた街を見ていた。
両親と、同じだ。
人は、突然にいなくなる。
なんの予兆もなく、漠然と明日に繋がっていて明日もまた当たり前のように隣にいると思っていた人たちが、忽然と姿を消してしまうことがあるのだと、エレニは知っていた。
だからエレニが動揺したのは、竜が洞窟から飛び立っていってしまうのを見たときだった。部屋の外で、竜が吠えるの聞いた。エレニが部屋から出ていったときには、もう洞窟に竜の姿はなかった。きらきらと砕けた氷が洞窟の中へと粉のように降り注ぎ、空になった洞窟がやたら広く見えて急にエレニは心細くなった。
竜まで、いなくなってしまったらどうしよう。
エレニにとって、竜は唯一確かな存在だった。
その竜までがいなくなってしまうことを考えると、怖くて怖くて仕方がなかった。
天井が破られた洞窟は、雪や風が吹き込みいつもよりも冷える。
だからエレニは部屋の奥で、たくさんの残された服を纏って丸くなった。
微かに人の気配の残る服にくるまって丸くなって、ふと空から聞こえる竜の声に気付いた。
いなくなった街の人々を探す声だ。
古い友を探す声だ。
悲しげに風に掠れた声を聴きながら、エレニはたくさんの服に顔をうずめるようにして少し泣いた。あれだけ強くたくましく美しく賢い竜が、人の喪失に耐えかねて慟哭の声を上げるのが、ただただ悲しかった。
次の日の朝。
エレニが目を覚ますと、すぐ傍に竜がいた。
竜はまるで大事なものを守るようにエレニをその前足の間に抱いていた。
ひやりと固い鱗の向こうに、暖かな体温を感じたような気がした。
竜は、言いにくそうに語った。
エレニの故郷の人々が姿を消してしまった、と。
女王の護りが消えてしまったため、ノースガリアに戻ることもできない、と。
『……心配するな。そなたのことは我が守ってやる』
そう言う竜の声は酷く優しくて。
優しすぎて、あんまりにも哀しそうで、エレニはつい手を伸ばしてしまっていた。
今までは触れることも躊躇うほどに、強く美しく、たくましく、賢いかみさまの鱗に。
ひんやりと、それでいてどこか暖かな感触に、ああかみさまも生きているんだなあ、とそんなことを思った。
守ってやる、という言葉の後ろに、だからそなただけは消えてくれるな、と。
かつてエレニが竜に願ったのと同じ想いを見た気がした。
「はい、へいか」
だから、エレニは頷いた。
かみさまと、神官見習いの小さな子ども。
ふたりぼっちの生活の始まりだった。
竜とふたりぼっちでの生活が始まって。
エレニは、あれだけ完璧だと思っていた竜にも苦手なことがあるのだということを知った。
竜は、エレニにややこしい神官装束を着せることが出来なかった。
竜は、小さな子どものための食事を用意することが出来なかった。
だから、そんな日常の難関をエレニと竜は二人で乗り越えた。
難しい服は、着るのを辞めた。
どうせ、エレニが何を着ているのかなんて見るのは竜だけなのだ。
竜が許すのだから、エレニの普段着は一人でも着られる簡素な服になった。
食事は、エレニが作るようになった。
本来ならば竜には食事など必要ないということはわかっていたけれど、最初に作った食事を竜があんまりにも美味しそうに食べてくれたものだから、三食そろって二人で食べるのが日課になった。
竜とともに暮らし始めて、何年もの年月が過ぎていった。
竜から与えられる知識をぐんぐんと吸収して、エレニは竜の御許ですくすくと育っていった。
完成した鍋を食べながらも、エレニは懐かしそうに思い出話を俺たちへと語って聞かせた。
それはなんだか、俺に初めての肉親の死を思い起こさせた。
俺が初めて葬式に参列したのは、俺が中学にあがってしばらくしてからのことだった。亡くなったのは、父方の祖父。もうずっと前から体調を崩して入院していて、両親からももう長くはないかもしれないと聞かされていた。
そんな心構えがあったからか、不思議と俺はそれほど悲しくはなかった。
その頃には俺は自分がほんの少しばかり他人と心の作りが違うらしい、ということに気付き始めていたものだから、そのせいなのかもしれない、と漠然と考えていた。
その一方で、少しだけそんな自分が怖いとも感じていた。
俺は家族が好きだ。
両親との仲も良好で、同級生の中でもうまくやっていた方だと思う。
こう、特に意味もなく両親と喧嘩をしてみたり、盗んだバイクで走り出した挙句に校舎のガラスを割って歩くようなこともなく、俺は淡々と「親には親の考え方があり、俺には俺の考えがある」と気づいて反抗期を乗り越えていたのだ。
親が過干渉ということもなかったため、クラスの連中と違って親と一緒に出掛けたりすることも別段嫌ではなかった。
遠野は親と仲良いよな、と言われることだって多かった。
けれど、ふとそのとき思ったのだ。
もしかしたら、俺が他の同級生たちと同じように親と喧嘩をしたり、親と過ごすことに抵抗を覚えないのは、それだけ親に対しての思い入れがないからなのでは、と。
もしかしたら俺は自分の両親が死んでも、こんな風淡泊に感じてしまうのだろうかと、そう思ってしまったのだ。
肉親の死は悲しいもの。
悲しいと思わなければいけないもの。
そんな固定概念が俺の中にはあって、祖父が死んだというのにちっとも涙が出てこないことに対して気まずいような罪悪感があった。
けれど――…そんな重苦しい感情を抱えて初めて参加した通夜は、俺が想像していたものとはだいぶ違っていた。
駆け付けた親戚は、最初こそ目に涙を浮かべていたものの……、そのうち穏やかな顔で思い出話に花を咲かせ始めた。
生前の祖父がどんな人であったのか、どんな思い出があるのかをそれぞれ語って、時折どっと笑う声すら響いた。俺の父親も、その兄弟と語らっては楽しそうに笑っていた。そして時折祭壇に飾られた遺影へと視線を流し、寂しそうに、切なげに、柔らかに目を伏せるのだ。
ああ、それで良いのか、と子どもながらに思った。
悲しい、と涙をこぼすだけでなく。
居なくなった人の思い出を語り、その人ともう新しい思い出を増やすことができなくなってしまったことを惜しむ。
そんな悼み方でも、送り方でも良いのだと、思うことが出来た。
黒竜王との日々についてを語るエレニは、あの夜の父親と同じ顔をしていた。
だから、俺とイサトさんも笑うべきところでは笑った。
そして、三人でいなくなってしまったひとを惜しんだ。
次々と語られる昔話がやがて途切れ、しばらくの間俺たちの間にはぱちぱちとたき火の爆ぜる音だけが響く。
「……お前、さ」
「なんだい」
「これから、どうする気なんだ?」
エレニが飛空艇を墜落させようとしたのも、セントラリアで『竜の牙』をバラまいて騒動を起こしたのも、すべては黒竜王のためだった。その黒竜王がいなくなってしまった今、こいつはどうするつもりなのだろう。
何か動くつもりであるのならば知っておきたい、という気持ち半分、燃え尽き症候群めいて抜け殻になってしまうのでは、というような懸念もあった。
「ん―…しばらく、時間が欲しいかな」
「そうか」
「でも――…何かあったら、呼んでほしい」
ふ、と顔をあげたエレニの双眸には強い色が浮かんでいた。
「すぐに駆け付ける。この世界を歪めた元凶に出会って、決着をつけるようなことになったのなら、俺を呼んでくれ」
「頼りにしても、いいのか」
戦力にカウントしても。
そう問うた俺に、エレニは艶やかに笑って見せた。
くぅ、と吊り上がった口角、焔を映して煌く灰がかった蒼の双眸の中で、獰猛な竜に似た瞳孔が鋭く尖る。
「そいつは、俺の|同胞≪・・≫を二度奪った」
一度目は、ノースガリア。
二度目は――…黒竜王、か。
「だから、そいつと決着をつけるときには、俺も呼んでくれ」
「……わかった。でも、どうやって連絡をつける?」
「俺はしばらくはここにいる。陛下が女神の元に還ったなら、そのうち新しい黒竜王が産まれるだろうしね」
「なら何かあったらすぐにここに来られるよう――……、どっかにドアを作って、秋良青年の『家』につないでおこう」
「そうだな」
そうしておけば、よほどの非常事態でもない限りエレニに声をかけることが出来るだろう。
そうして――…黒竜王の死を悼む夜は静かに更けていく。
ぱちり、と火の爆ぜる音で意識が覚醒した。
そろそろ寝るか、なんて言葉を皮切りに、たき火の周りにそれぞれ寝床をこしらえて眠りについた後のことだ。
防寒具を何枚にも重ねて作った寝床は、たき火の近くではそれなりに暖かく、疲れた身体が眠りに落ちる迄にそれほどの時間はいらなかった。
どれくらいの間、俺は眠っていたのだろう。
もぞりと寝返りを打ちかけて、うっすらと持ち上げた瞼の向こう、一人たき火を覗き込むようにして座るエレニの姿に気づいた。
そして、気づいた瞬間俺は咄嗟に目をそらしてしまっていた。
それは、随分と寂しげな姿だった。
肩は悄然と落ち、ぼんやりとした双眸は虚が宿ったかのようにすら見える。
俺たちに向かって飄々と笑ういつものエレニとはまったく違った姿だった。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、俺は寝たふりを続ける。
エレニは、そんな風に傷ついた姿を俺には見せたくないだろう。
黒竜王を見送った直後ですら、動揺を呑み込んだ男だ。
今さらながら、俺はこの男が未だ涙を見せていないことを思い出した。
俺たちがいなくなった後、一人で泣くつもりなのだろうか。
そのまま一人にしてしまいたくないような、その意地を尊重したいような、複雑な気持ちが胸の内でぐるぐると渦を巻く。どうしたものか、と動けずにいる中、ふと静かな声が響いた。
「……眠れないのか」
ごそりと衣擦れの音が響いて、ゆっくりと寝床を抜け出した影がエレニの隣に座る。イサトさんだ。
「…………起こした?」
「いいや、なんとなく――…ふと、目が覚めて」
「そっか」
「…………」
「…………」
ぱちり、ぱちり、と火が爆ぜる音だけが響く。
イサトさんは、特に聞き出そうとはしなかった。
ただ、エレニの隣に寄り添うでもなく、座っているだけだった。
ふと、その柔らかな沈黙に背を押されたかのように口を開いたのはエレニだった。
「俺がね、どうしてエルフを再建しようと思ったのかわかる?」
「えっと……、エルフやダークエルフを滅ぼした奴の思惑通りになりたくないから、って言ってなかった?」
そう言って、エレニはイサトさんに子どもを産んでくれと迫ったはずだ。
それを思い出すと、今でもつい口元がへの字に歪んでしまいそうになる。
「……うん」
「でも……、それ、本気じゃなかっただろう」
え。
「バレてたか」
えええ。
イサトさんの言葉に、エレニはあっさりと同意する。
何か、憑き物が落ちでもしたかのような穏やかさだ。
「さっきも話した通り、俺はあんまりエルフ、っていう種族に対して愛着がもてなかったんだ。子どものときに両親を亡くしてるし、その後は陛下のところで過ごす時間の方が長かったし」
「うん」
「だから――…陛下のため、だったのかなあ」
エレニはぽつりと小さくつぶやいた。
「陛下はさ。俺に同族がいないことを、すごく気にしてたんだよ。陛下は竜で、竜だからこそ人の親のようにはできないことも多かった。陛下は俺に服を着せられなかったし、料理だって出来なかった。それが、陛下にとっては負い目だったんだ」
「そう、なのか」
「そうなんだ」
同族ではないから。
竜だから、良い親代わりになってやることが出来ない、と。
黒竜王は、最期までそう思っていたのだろうか。
「俺は、陛下が申し訳なさそうに、痛ましそうに俺を見るのが厭だったんだ。だから――…陛下が安心できるように、家族を持ちたかった」
はー、と息を吐いてエレニが視線を持ち上げる。
熱のこもった吐息は、きっと火に当たっているせいだけではないだろう。
『……エルフの再建を、見届けてやれんですまなかったなあ』
『本当、ですよ。孫、ひ孫の顔まで、陛下には見て欲しかったのに』
黒竜王とエレニの、最期の会話を思い出す。
「俺が、陛下と契約して時を止めたのだって、本当はきっとエルフに何があったのかを突き止めたかったからじゃあない。俺は……、俺はただ、あのひとをひとりぼっちにしたくなかったんだ」
伏せたエレニの目元から、ぽたりと雫が落ちるのを見た。
エレニが、初めて見せた涙だった。
両親の死によって、置いていかれる痛みを味わったエレニは、エルフの消失で同じ痛みを味わい、苦しむ黒竜王を置いて逝くことが出来なかったのだろう。
だからエレニは、黒竜王と契約して時を止めた。
エルフの再興を口にしながら、エレニ本人はエルフであることを辞めた。
「……なんで、俺が本気じゃない、てわかったの?」
「君は私に無理強いをしなかったし――……、私を騙して丸めこもうとはしなかっただろう。好き、愛してる、とは言わなかった」
「…………」
「もし君が本気でエルフ同士の純血の子がほしいのなら、私は絶対に逃がせない相手だったはずだ。なんとしてでも、手に入れたかったはずだ。それなら、色仕掛けで落とすのが一番手っ取り早いだろう?」
「君、そんな色仕掛けに引っかかりそうないけど」
「ひっかかるよ」
ひっかかるのか。
イサトさんはひょいと肩を竦めて笑う。
「基本的にお人よしだから――…相手の好意を疑ったら悪い、なんて思ってしまいがちだ。もし、君が私を恋愛対象として見ていて、まっすぐに好意を騙ったなら、きっと惑わされていた」
「しくじったなあ」
わざとらしく、エレニは悔し気にいう。
けれど、それが本心でないことはもう、こうして狸寝入りをしつつ二人の会話を聞いているだけの俺にも十分伝わっていた。
「それに、もし本当にエルフを再興したいなら、君とっくにしてるだろ」
「それはどういう意味で」
「文字通りの意味で」
「つまり?」
「ハーレム作成」
イサトさんの身も蓋もない発言に、ふ、とエレニが小さく噴き出した。
「まあ、確かにそうだよねえ」
「君の見目で300年かけて女一人落とせてないっておかしいだろう」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
イサトさんの返事が若干雑である。
深夜の内緒話、という態であるせいか、二人ともどこか口が軽い、というか口ぶりがざっくばらんだ。
「本当にエルフを復興したいなら、とりあえず子供をたくさん作らないといけないし――…君男で良かったな」
「……まあ、女だったら難易度高かったね」
「女は頑張っても十人産めるかどうか、だものなあ」
やたらリアルである。
そういう意味でも、イサトさんはエレニの『エルフ復興』という言葉に本人がいうほどの切実さを感じてはいなかったらしい。
が、それだけ読まれているというのも面白かったのか、エレニはどこか挑むような妖しげな流し目をイサトさんへと流した。そっと、片手をイサトさんの方へとついて身を乗り出して。もう片方の手が、そっとイサトさんの頬へと触れる。
「今改めて――…君のことが好きだから、どうか俺を一人にしないでくれ、て縋ったら少しは考えてくれる……?」
吐息の蕩ける、甘い声音。
誘惑、という言葉を音にしたならそんな声だろう、と言わんばかりに甘たるい毒が滴っている。
が、イサトさんはそんなエレニに向かって半眼で一言。
「秋良青年起こすぞ」
「起きるぞゴルァ」
思わず、口が滑った。
「…………」
「…………」
「…………」
「ねえそれ脅し? ねえ脅し? もうそれ口走ってる時点で君起きてるよね???」
「スヤァ」
「何そのバレバレな寝たふり!!!」
「もう、エレニが騒ぐと秋良青年が起きちゃうじゃないか」
「いや起きてるよね??? 彼起きてたよね???」
「ぐう」
「ほら寝てる」
「わあ豪快な嘘!」
ぎゃあぎゃあとうるさいエレニの抗議は聞こえないふりで俺は狸寝入りを決め込む。
エレニの野郎が阿呆なことさえしなければ、俺は寝ている、のだ。
俺は何も聞いてないし、何も見てはいない。
そういうことに、なる。
「ほら、エレニ、君もそろそろ寝たらどうだ。私は寝るぞ」
「ものすごく納得がいってないけどなんかもうつっこんだら負けな気がしてきた……」
ごそごそと二人が衣擦れの音を響かせて寝床に戻ってゆく。
ぱちぱちと爆ぜる火を囲んで、こんもりと盛り上がった寝床が三つ。
戻る静けさに、再びゆっくりと戻ってきた睡魔に思考を蝕まれていく最中、小さく「ありがとう」と響く声を聴いたような気がした。
かなり久しぶりの更新に!!
その間に書き溜め、ストックを作ってきたので今後は二~三日に一回は更新できるかとー!




