第29話 租界に潜む絶望
寮の廊下に転がっていたピコピコハンマーを拾い上げたかなめは、『租界』から寮へと向かう車内で見せていた深刻な表情から一変していつものいたずらっ子の顔に戻って、にやりと笑みを浮かべながら食堂へと先行した。そして茜と談笑中のアメリアの背後に忍び寄ると、サイボーグの馬鹿力を生かしてハンマーを振り下ろした。
『ぴこっ!』という乾いた音が響き、アメリアが悲鳴を上げる。食堂は夕食の香りが漂い、スチール製のテーブルが並ぶ中、談笑と食器の触れ合う音が交じり合っていた。そんな日常の喧噪に、ピコピコハンマーの乾いた衝撃音が唐突に割り込んだ。
満面の笑みで椅子から転げ落ちて痛がるアメリアを見下ろすかなめ。誠はあの『租界』の一言では説明できない矛盾と暴力性に打ちのめされていたので、そのいつもの見慣れた光景を見てようやく安心したように笑顔が自然と浮かんでくるのを感じていた。
「痛い!いきなり何すんのよ!かなめちゃん!かなめちゃんは暴力でしか自分を表現できないのね!私みたいにもっと多趣味になりなさいな!そんなだからかえでちゃんに『もっとぶってください!』とか言われるのよ!」
不意を突かれたアメリアはすぐに立ち上がると糸目をさらに細めながらかなめに猛烈な勢いで抗議した。
「だれがオタクになるか!それとアイツがマゾなのはアタシのせいじゃねえって何度言えばわかるんだ!アイツは自分で望んでそうなったの!あいつがマゾになったのはアタシのせいじゃねぇ!勝手にそっちの道に転がってっただけだ!それ以降は……まあ、自己責任で突き進んだってだけだ!」
かなめのサイボーグの腕の生み出す馬鹿力でピコピコハンマーが首からねじ切れて床に落ちた。茜とラーナがその様子を呆れた調子でかなめを見ていた。島田とサラは隣のテーブルで仲良くしゃべっていたがその様子に驚いたようにかなめの方に目をやった。島田は手にしたスプーンを宙で止め、サラはカレーを一口運びかけたまま目を丸くした。
「……これ、青春ごっこどころじゃないな。西園寺さん……かなり荒れてるぞ……下手に手を出したら命に係わる」
そう小声でつぶやく島田に、サラは苦笑いを浮かべた。
「島田、サラ。青春ごっこの最中に驚かして済まねえな。アメリアの馬鹿がゴキブリに見えたからつい叩いちまった。さあ、青春ごっこの続きをやってくれ。ほれ、好きにやれよ。アタシもオメエ等の事を笑いものにしてやるから」
かなめの馬鹿力の打撃でまだ痛みが走る頭を押さえるアメリアを放置して島田達にそう言うと、かなめはカウンターに向かっていった。
かなめは明らかに虚勢で明るく振舞っている。誠にもそれが分かってどこかしらかなめの明るさが痛々しく感じられた。
「でも本当に……冗談は抜きにしてピコピコハンマーにこんな威力があるなんて……痛いよー誠ちゃん!あの暴力馬鹿のサイボーグったらなんかキレてるのよ!なんとかして!」
そう言ってアメリアはあまりの突然の出来事に呆然としていた誠にすがりついた。その頭にカウラが無表情のままチョップを振り下ろした。
「何よ!カウラちゃんまで!二人して今日はどうかしてるわよ」
アメリアの叫びを無視してちっちゃいランが無表情で通り過ぎていった。
「クバルカ中佐も!みんなで無視して!『租界』でなんかあったの?仲間でしょ?教えてくれても良いじゃないの!」
これまでの仕打ちに少し苛立ちながらアメリアはかなめ達にそう言った。
「無視しているわけじゃないんですけど。ただ、『租界』に行ったのが原因なのは確かです。あそこは人間の住むところではありません。……あそこは、人が生きていい場所じゃないんです。あの腐り切った現実を見てしまったら、何か大事なものが壊れる。僕も……正直、まだ気持ちの整理がついてないです。アメリアさんもあのデータとあの光景を見たらきっとそう思いますよ……」
叫ぶアメリアに仕方なく誠がそう言って痛みに苦しむ彼女の頭を撫でた。話を中座させられた茜とラーナが苦笑いを浮かべていた。
「見たのね。『租界』の酷さを。私も噂には聞いてたけど……いいわ。許してあげる。私も一度は地獄を見た人間だもの。人間が何処まで残酷になれるかと言うことが分かる地で神経をすり減らさない方が人間としてどうかしてるわよ。だから、誠ちゃん。甘えるなら私に甘えなさい!」
アメリアは年上ならではの余裕で誠にそう言った。そして静かに誠を抱きしめるべく大きく手を広げた。
「どさくさ紛れに何言ってんだ!あの程度でビビってるカウラと誠の神経が貧弱すぎるんだ!あそこの地獄はアタシは仕事でうんざりするほど見てるんだ!今更どうなるもんでもねえ!それと楽してたオメエが良い目をするなんざアタシが許すと思ってんのか?少しは考えろ!中佐なんだろ?」
アメリアの下心満点の誠への提案にキレたかなめはそう叫んだ。
「西園寺。声が引きつってるぞ。確かに西園寺が言う通り私の認識が甘かったのかもしれない。私は少なくとも心が痛かった。私は何も知らなかったということが嫌でも分かった。もしかしたら小隊長失格かも知れないとまで思った……人間の酷さ……心に染みた……」
かなめとカウラはそれぞれに今の租界の腐った現状について思うところが有るように誠には見えた。
「『租界』の中、あそこで何かあったみたいですね。地獄だ地獄だ言いますが……やっっぱりあそこは本当にアウトローだらけの無法地帯なんですね?あれですか?銃撃戦にでも巻き込まれたんですか?死体の山でも見たんですか?俺も東モスレムの停戦監視時に飛行戦車の修理に駆り出された時には見ましたけど……アレは結構エグいですからね」
島田は生で『租界』の空気を見ていないので能天気にまるで他人事のようにそう言うとカウンターで大盛りの白米だけを盛ってかき込み始めたかなめに声をかけるが、かなめは無視してそのままテーブルの中央に置かれていた福神漬けをどんぶりに盛った。
「まあ、かなめちゃんがあの調子ってことは何か掴んだみたいね。良いニュースにしろ悪いニュースにしろ」
隣でカレーを食べていたサラもそう言ってそのかなめの奇行を眺めているだけだった。
「こっちはぼちぼちってところだ。期待していた程度の成果はなんとか挙げられた。で、そちらの首尾はどうなんだ?」
カレーを盛ってきたランがそう言って茜の正面に座った。明らかにご飯の量が異常に多いのはランが辛いものが苦手だということも誠は知ることが出来ていた。
「正直芳しくはないですわね。管轄の警察署や湾岸警察、海上警備隊の本部にも顔を出して情報の共有を計る線では一致したんですけど……」
そこまで言うと茜は難しい表情で虚空を見つめて考えをまとめているように見えた。
「まあ、あえて言えば協力を断って来た同盟厚生局が目立ったくらいですわね。あの断り方は何かありそうですけど……同じ同盟機構の組織としてはあまり今回の事件に関わっているとは疑いたくない組織ではありますが……あそこまであからさまに拒絶されると疑いたくもなりますわね。まるでこちらの顔なんて見たくも無いというような完全に門前払いでしたわ」
茜は何時のも紅い小袖の袖を整えると誠の方に目をやった。その目は明らかに何かを考えていてその考えが思うように進んでいないことを示しているように誠には見えた。
「同盟厚生局の設立に関してはその背後に遼北人民共和国の影が見える分、なおさら不安ですわ。あの国は東和とは前の大戦で他の国には東和が多額の戦時国債の引き受けを申し出たのに、同様の戦時国債の引き受けを遼北が申し入れても東和はそれを断った事が有る因縁の国です。できればそこにたどり着くことだけは避けてもらえるとありがたいのですが……」
茜の表情は冴えなかった。予想していたこととはいえ、役所同士の折衝となるとどうしても摩擦しか生じないものなのは誠にも最近分かってきた。お互いの領分を犯されることに異常に恐怖するのが役人の性格と言うものだった。そして役人は背後に強い権力があるとなると豹変して高圧的な態度で臨んでくる。恐らく同盟厚生局の役人達も祖国の影響力を背景に威圧的に茜達に接してきたのだろう。最近は日常的なランニングによる体力訓練や茜を相手にした白兵法術訓練の他にも東和の政府機関へのお使いも仕事のうちに入って来た誠が感じたのは、時折そう言う時に感じる印象の一つがそれだった。
「なるほどねえ、役人連中にはみんな『租界』に絡むことは同盟駐留軍の領域だから駐屯軍に聞いてくれって煙にまかれたわけだ。たしかに『租界』があそこまでの無法地帯なのは汚職万歳の駐留軍のおかげだからな。それを見てみないふりをしてきた責任を今更取らされると聞かされて良い気になる方がどうかしている。そして同盟厚生局……まあ、法術研究なんて言う物をやっている科学者連中には医者とかうんざりするほどいて、その医者を統括しているのが同盟厚生局だから茜は行ったんだろうが……その反応は……きっと何かあるぜ」
どんぶりを置いたかなめの一言。茜は力なくうなずいた。
「恐らく駐留軍の汚職のお金の一部も恐らく今日行った監督官庁の役人には流れてますわ。あそこは本来、清廉潔癖な人物が選ばれるはずの部署なのに。実際に会ってみて話をしてみればその責任者として配属されているのは全員が中央から左遷された二線級の方々ばかり。本当にこの国の在り方に怒りを感じる一日でしたわ。それに同盟厚生局のあの高圧的な態度。一応、医療と人の命を守るお仕事をしているのに、その自覚があるのか疑いたくなるような対応でしたわ……そんな人たちが何かを隠している……同じ同盟機構の組織関係者としては一番あっては欲しくない展開を見てしまう可能性を感じて正直不安になりましたわ」
正義は弁護士として活動してきた過去を持つ茜はそう言って折衝相手の役人達の腐敗堕落した様に憤りを隠すことが出来ずにいた。




