第21話 地上の地獄、東都租界の影
誠は車の窓から見える景色に、胸の奥が冷たくなるのを感じていた。見渡す限り並ぶのは、ひび割れたコンクリートと砕けた窓ガラス、骨組みだけが残った廃ビルの群れ。まるで世界の終わりが訪れた後のような光景だった。
この一帯には、以前、自分が誘拐された時に連れ込まれた廃ビルがあった。錆びた鉄扉の冷たさ、湿った埃の匂い、背後から押さえつけられた恐怖……その記憶がふいに蘇り、誠は無意識に肩を震わせる。
『……また、ここか。僕の人生が変わったのもこの場所。そしてまた僕の人生はここで一つの転機を迎えるかもしれない……何度見てもそれが良い場所だとは思えない場所で人生が変わる。僕ってそんな星の下に産まれたのかな……』
犯罪者のアジトとしては最適だ、と頭では理解している。人通りも警備の目も少なく、どんな取引も人知れず行える場所だからだ。
隊に配属されて間もなく起きた自分の拉致事件は、結局は真相不明のままだ。実行犯は捕まったが、取り調べで判明したのは『イタリア系のシンジケートに誠を売り渡そうとしていた』という一点だけ。それ以上の情報は一切引き出せず、肝心のそれを指揮していたらしいイタリアンマフィアの東和支部を率いる『皆殺しのカルヴィーノ』と呼ばれた幹部は完全黙秘を続け、それがどの国の依頼でどのような指揮命令系統で行われたかは謎のままだった。
不意に、当時の無力感と恐怖が胸を締めつける。拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。
『あの時の続きが、今も終わってない気がする……いや、この地ではあんな事件は日常茶飯事なんだ。いつまでも同じような事件が続く……それがこの窓の外に広がる街の本質……僕にもそう思えてきた。それだけが『特殊な部隊』で僕が学んだことなんだ』
車内に流れる沈黙の重さが、外の荒廃した景色と同じくらい息苦しかった。 久しぶりに誠は車酔い独特の胃と食道に纏わりつくような違和感を感じていた。
見回す町並み。ビルは多くが廃墟となり、瓦礫を運ぶ大型車がひっきりなしに行きかう。ここは死んだ街だ。殺された街だ。誠の中でそんな言葉が浮かんできた。
「カウラ、そこを右だ。しかし、この車のサスペンションだとこんだけ道路状態が悪いと乗ってて最悪だな。神前、吐かないか?」
かなめの声にしたがって大通りから路地へ入った。淡々と道順を説明するかなめの態度が誠にはあまりに無味乾燥に見えてかなめが本当に人間なのか、それともAI搭載のアンドロイドに過ぎないのではないかというようなありもしない妄想が脳裏をよぎった。
「大丈夫ですよ。僕はもう乗り物酔いとはおさらばしました。『もんじゃ焼き製造マシン』の二つ名ももう過去のものです」
誠は胃のあたりの違和感をごまかすように天井に何度も頭をぶつけながらそう言って笑った。そこは表通りの人っ子一人いない廃墟のような姿とは違い、地震の一つでもあれば倒壊しそうなアパートが並んでいた。ベランダには洗濯物がはためいてそこに人が暮らしていることを知らせていた。
道で遊んでいた子供達はこの街には似合わないカウラの『スカイラインGTR』を見ると逃げ出した。階段に腰掛けていた老人も、珍しい車を見て興味を感じるのではなく、何か怪しげな闖入者が来たとでも言うように屋内に消えた。誠にはそれがあまりにも当たり前の光景に見えて、そう見える自分が何か間違っているような気がして怖くなった。
「ここ、本当に東都ですか?東都にこんな場所があるなんて聞いてないですよ。確かに近くには駅もないし誰も近付かない理由はたくさんあるけど、どの建物もほとんど廃墟じゃないですか?一国の首都としてこんな場所が有るなんて恥ずかしい事ですよ。再開発とかの必要が有るんじゃないですか?それ以前にここの建物。地震が一発来たらお終いの建物ばかりですよ」
誠の声にかなめが冷ややかな笑みを浮かべていた。そこには誠が何もわかっていない子供に過ぎないと言っている表情が浮かんでいた。そこで再び先ほどのかなめの頭には本当は人の脳なんかは無くてAIの作った疑似人格があるだけなんじゃないだろうかという妄想が頭をもたげてきた。
「『租界』で起きた東都戦争の余波って奴さ。その時はこの周辺まで戦闘の余波が押し寄せた。以来、企業も個人もいくら都心に近くて便利でもこんな危ない場所に住みたがらない。あの地獄が再びここにやってこない保証は誰もしてくれねえからな」
かなめはタバコの嫌いなこの車のオーナーであるカウラを気にしてタバコを吸う手ぶりをしながらそう言った。
「そんないつ銃弾が飛び交う地獄と化してもおかしくない場所だ。まあこんなところにスポーツカーに乗ってやってくるのはその無価値な土地の安い家賃に釣られて暮らしてる貧乏人に金を取り立てに来る借金取りくらいだろうからな。それとも何か?オメエはここの東和政府から見捨てられた地元民が両手を上げて歓迎してくれるとでも思ったのかよ。自分がどこでも歓迎される立派な存在だなんて言うのは思い上がりだ。そんな存在はこの宇宙に一人も居ねえんだ」
かなめは皮肉を口にして笑った。まだ人が住んでいると言うのに半分壊されたアパート、その隣の一杯飲み屋には寒空の中、昼間から酒を煽る男達が見えた。酒を片手に濁った視線を投げてくるこの街の住人達はかなめの言うように誠達を歓迎すると言うより敵視しているように見えた。
「東都のエアポケットって奴だ。政府は財界の要請を受けてここの再開発の予算をつけたいらしいが、見ての通り開発の前に治安をどうにかしないとまずいってところだな。経済界の連中は所詮この土地の利便性の事しか頭にねーんだ。この土地がどんな土地かはそもそも金持ちの連中が行ったことの無い別世界くらいにしか思ってねーだろうよ。例の死体はこの周辺で見つかったんだろ?こんなところ、住んでる地元民だって死体を見たって見ないふりだ。ここではすべての命の値段が軽いんだ。他の東和の地域とは違ってな」
ランはそんなかなめの講釈を聞きながら目をつぶったままじっとしている。カウラは貧相なパチンコ屋に目をやり興味深げにため息をついた。かなめに比べてパチンコ屋に惹きつけられるような視線を送るカウラの方がより人間らしいように誠には見えた。
「おい、そこのパチンコ屋の角で車を止めろ。時間が時間だ。アイスでも食いたいだろ?カウラ、パチンコ屋には寄るなよ。まあ、それを制限している張本人の姐御が居るんだ。そんなバカなことが出来るオメエじゃねえのは長い付き合いで分かってるが、テメエは『依存症患者』だからな。神前、カウラがパチンコ屋に向わないよう見張っとけ」
突然のかなめのアイスを食べたいと言う言葉に誠は絶句した。今はもう冬と呼ぶべき季節である。その時期にアイスを食べたいと言い出すかなめの言葉が信じられなかった。
「あの、もう冬ですよ!アイスなんか食べたいわけないじゃないですか?季節を考えてくださいよ、西園寺さん。それにカウラさんもいつでもどこでもパチンコ屋に入るって訳じゃないですよ」
誠は『依存症』ですでにパチンコで脳内が一杯になっているカウラに代わってそう言った。
「いいから停めろ。神前、テメエには嫌でもアイスを食わせてやるから覚悟しておけよ。旨いアイスだぞ。アタシは二度と食いたくねえが」
かなめの真剣な目にカウラもハンドルを握る手がいつでもパチンコのハンドルに変わってもいいような浮かれた調子から不審そうな顔に変えてかなめの指定した場所で車を停めた。誠はかなめの言葉の意味が理解できずにただ黙って後部座席で小さくなっていた。
「アタシと中佐殿で行くからな。アイスは今の時期に食うからいいんだよ」
かなめの無茶苦茶な理屈が逆に誠にはかなめはAIなんかではなく明らかに人間なのだと分かることが出来て誠はほっとしていた。
「なんでアタシなんだ?あんなとこ西園寺一人で行けよ。別にアイスぐらい一人で持てるだろーが」
ランは面倒くさそうにそう言った。
「駄菓子屋と言えば餓鬼だろうが。アタシが駄菓子屋に入っていくところをさっきの餓鬼どもに見つかって見ろ。このあたりの失業してる大人を呼び集められて取り囲まれて何されるか分かったもんじゃねえよ。子供を連れたお母さんってことなら格好がつくだろ?あくまで芝居だ。我慢しな」
「西園寺の娘には死んでもなりたくねー。こんな『女王様』が母親の子供はそれこそ日野みたいな変態に育つぞ」
そんなやり取りに誠は助手席から降りながらいつものようにランがかなめを叱り飛ばすと思ったが、ランはなぜか一言文句を言うだけでかなめとともに降りると駄菓子屋に向かった。
「こんなところなら非合法な研究を堂々としていても誰も気にしないと言うことか。その組織も考えていると言う訳だ」
カウラはそう言いながら周りを見た。シャッターを半分閉めて閉店しているかと思っていたパチンコ屋から疲れたような表情の客が出て行く。誠もこの界隈が普通の東和、発展する東都から見捨てられた街であることが理解できた。
「しかし……あれを見ろ。西園寺とクバルカ中佐。まるで親子みたいだ」
そう言うカウラの顔が微笑んでいるのを見て、誠は彼女が指差す駄菓子屋を見た。どう見ても小さな女の子にしか見えないランがかなめに店の菓子を指差して買ってくれとせがんでかなめのジャケットのすそを引っ張っている光景が見えた。
「芝居が過ぎるな。クバルカ中佐も西園寺にあれほど気を使う必要などないのに」
カウラの微笑む顔を見て誠も頬を緩めた。かなめはランの頭をはたいた後、店番の老婆に話しかけた。
老婆はそのまま奥に消え、しばらくして袋を持ってでてそれをかなめに渡した。かなめは財布から金を出してかなりの金額の札を渡して支払いを済ませるとそのまま誠達のところに歩いてきた。
「待たせたな」
誠が助手席を持ち上げて後部座席に座ろうとするかなめとランを迎え入れる。かなめは袋からアイスキャンディーを取り出すとカウラと誠に渡した。ドアから入る晩秋の冷たい風がアイスを食べる気を一気に誠から奪った。
「なんだ?ずいぶんと毒々しい色だな。こんなアイス、豊川の駄菓子屋には置いてないぞ。それにあの値段。ここら辺は物価が安いんじゃないのか?あんな札で会計を済ませるような駄菓子屋を私は見たことが無いぞ」
カウラは袋を開けて出てきた真っ青なキャンディーに顔をしかめた。誠もその着色料と甘味料を混ぜて固めたようなアイスを口に運んだ。それはとても売り物になるような代物では無かった。そんなものに札で会計を済ませたかなめの経済観念を誠は疑ってかかった。
「こんなものになんでお札で勘定を済ませたんですか?そもそもこんなもの誰が食べるんです?この近くの人がいくら貧乏だからってこんなに不味いの……ああ、安ければ隊長なら食べそうだ。あの人月小遣い3万円だし」
口の中に合成甘味料の毒々しい甘さが広がった。そして吐き出された誠の言葉に、かなめは袋の中から一枚のマイクロディスクを取り出して見せた。
「買ったのはそっちの方でこれはダミーか。随分と凝ったやり口じゃないか。さすが元特殊工作員と言う訳だ。あの婆さんはおそらく何も知らないんだろ?アイスを買いに来た人間が大金を渡したらこのチップを付けろ。それだけ上部組織に言われて何も知らずに西園寺を待っていた訳だ」
カウラはアイスキャンディーを手にしながらそう言うとバックミラーを使って自分の青く染まった舌を確かめた。誠はようやくかなめがかつての非正規部隊の隊員のやり口を思い出してこんな行動をとったのだと理解した。
「当たりめーだろ。何のためにアタシが芝居をしたと思ってんだ。西園寺ならこういうところで金で買える情報なら大概手に入ると踏んでてアタシは付き合ったんだ」
「あれが芝居か?本気で駄々こねたんじゃねえのか?そんなに発泡スチロールの飛行機が欲しかったのか?何なら今からでも買ってきてやろうか?」
「だから芝居だっていってるだろーが!」
ランの言葉に苦笑いを浮かべながらかなめは後頭部からコードを伸ばして携帯端末に直結してデータディスクを差し込んだ。
「オメエ等も端末出しとけ。昔なじみの情報屋との連絡はあの駄菓子屋を通すんだ。あの婆さんも変わらねえな。まあ、たった5年前の話だが」
かなめの言葉にカウラもアイスを外に捨てた。誠はもったいないので最後まで食べた。胃が持たれて乗り物酔いとは別の吐き気が誠を襲った。
「ちょっと待てよ。プロテクトを解除する……よし」
誠の端末からもかなめの端末の数字が並んでいる表を見ることが出来た。
「あのう……」
それは奇妙に過ぎる表だった。端末に写っているのは臓器の名前と個数。心臓、肝臓、腎臓、網膜。その種類と摘出者の年齢、血液型、抗体など。延々とスクロールしても尽きない表が続いていた。それを見るたびに誠の心に沸きあがるのは絶望と怒りとこんなことを平然と行える人々の心への道場に近い感情だった。
「『租界』の住民を使った臓器売買の売り買いのデータだ。東都警察に持ち込めば裏さえ取れれば警察総監賞ものだ。もっともこのデータを買ってくれる親切な人のところに持ってった方がすぐ金になるだろーが」
ランがそう言うのも当然だった。そして当たり前すぎるだけに誠にはそんなランの言葉が心の奥に突き刺さった。
「でもこれって……」
誠はあまりに人道を無視したそのチップの情報にあっけに取られていた。
「租界に流れ込む難民の数と、出て行く難民の数。発表されて無いだろ?人間の使い道がこの土地じゃあ他とは違うんだ。租界の住民は臓器を生み出す機械でしかない。それがこの世界の外の優雅な高層ビルの空調の効いたオフィスでビジネスに明け暮れる人間のあの地獄の中で歯ぎしりしながら額に汗して働いて今日の糧を稼いでる人間に対する評価って奴だ。金で命は買えるんだよ。この街では」
かなめの言葉に誠は悟った。臓器売買のうわさは大学時代から野球と漫画のサークル活動に忙しい誠の耳にも届いてきていた。当時は臓器売買だけでなく薬物や武器までこの租界とその近辺を流れているという噂もあった。
そして誠が軍に入ると治安の維持権限の隙を突いて生まれたあらゆる非合法品の輸入ルートと言う利権をめぐり他国の工作部隊が投入されていると言う情報が事実だとわかった。そして同盟駐留軍の治安維持部隊も賄賂を取ってそれを見逃しているという別の噂を耳にすることになった。
武器の輸出規制が強まり薬物の末端での取締りが強化されるようになって、それでも上納金を求める暴力団や賄賂を待つ治安維持部隊に貢ぐ資金を搾り出すために行われるといわれる人身売買。都市伝説と思っていたものが事実であると示すような一覧が手元にあった。




