【63】ハンカチーフの祝福
暫く何をする気にもならず、ルキウスは巨大な肉食ペリカンが倒れる横に、座り込んでいた。
やっと動こうと思ったのは、水浸しになった服や体が多少乾いてからであった。
ルキウスは胸元から、メルツェーデスのハンカチーフを取り出した。それをどこに結びつけるか迷って……どこもかしこも太すぎて、まともに結べそうなのが嘴の先の方の、牙だけだった。丁度かみ合いそうな上の歯が折れたのかどこかに消えており、運んでいる間に布が引きちぎれる心配はあまりなさそうだ。
それはそれとして、口が閉じないようにはしておこうと考える。なくしたと思っていた弓は口の奥に半分ぐらいの大きさになって残っていたので、ハンカチーフを括りつけた牙の近くに突っ張り棒の代わりに設置した。
一応近づく前には確認したが、肉食ペリカンは完全に絶命していた。恐らく死因は失血死というものだろう。
最初に命中した喉を始め、片目、体中にルキウスが放った矢が深く突き刺さり、そこから失血している。そして一番の致命傷となったのは、口の中に飲み込まれたルキウスが、内側から無茶苦茶に突いた喉元らしい。気が付かなかったが、二度目の突き刺しは皮膚や骨の隙間を縫って貫通し、外にまで出ていたらしい。喉の一部の妙な所が、内側から突き破られたように穴が空いていた。
――ちなみに。これらは後々、この肉食ペリカンを調べた者が辿り着いた結論である。
この時のルキウスにはそのような丁寧な観察をする余裕はなく、ただ、川の水を半分近く汚す赤色から、ざっくりと失血死と思っただけだった。
それはさておいて、巨大肉食ペリカンと向き合ったルキウスは数秒沈黙し、思った。
(…………は、こべる、のか?)
それはもう、木を一人で運ぶようなものなのでは……?
いっそ放置して一人で帰ろうかとも思った。だが脳内でジゼルが何度も何度も「バルナバス卿よりは立派な獲物をしとめてきて!」と叫ぶので、諦めて、運ぶことにした。
体中が痛いが、無視をした。
何処を持つのが良いのか考えて、長い首の部分を背中に乗せて運ぶことにした。ずりおちないように、上手く頭を重しにし、体にひっかけるような形にする。
重いは重いが、なんとか動けそうであった。
昔から、重い物を運ぶのには慣れていた。時には自分より重い物を運んだりしていた。
それらの経験のお陰か、この巨体を引き摺りながら移動するぐらいなら、なんとか出来そうであった。
ただし、一歩一歩を出すのに時間がかかる有様だったが。
ともかく歩き始めたルキウスであったが、歩き始めてすぐに気が付いた。これは制限時間内に、天幕まで戻る事が不可能だと。
気が付けば空は一部が赤らみ始めている。空全てが赤く染まれば狩猟祭は終わりだ。
そして今のルキウスは、まだ巨大肉食ペリカンを背負い移動し始めてから、ほんの少ししか移動していない。
この調子では森から出るのに、一日以上かかりそうだ。
度々意識が遠のきかける。
戻ってきても、今度は、突然ぽっと違う考えが浮かぶ。
(……何故こんな事、してんだろう)
ルキウスはふと、そう思った。
体が痛い。
空っぽのはずの目が痛い。
息が苦しい。
重い。
辛い。
背中の荷物を投げ捨てれば楽になる。
それが分かっているのに、どうしてか離せない。
ジゼルに言われたから?
それも確かにあるだろう。だがそれ以上にルキウスの耳に、残っている声があった。
――お前ならきっと、素晴らしい獲物をしとめると信じているぞ。
――ルキウス。獲物を仕留める事も大事ですが、どうか怪我無く、帰ってきてください。
「っ」
一歩。
一歩。
一歩。
一歩。
間に合わないだろう。でもそれでも、帰らなくては。
怪我無くという願いは既に叶えられなかったけれど、それでも、せめて何か別の形で挽回を……。
その一心で、ルキウスは歩き続けた。
次第に、世界が白ばんで来る。
(霧が、出てきた……)
それか或いは、もしかしたらルキウスの意識が遠のいているのかもしれない。
どちらかは分からないが、それでもルキウスは前に足を出した。足を出す限りは、どこかへは辿り着くはずだから。
背中の荷物が重すぎて、ルキウスの視線は殆ど下に落ちていた。地面ばかりを見て歩く彼は、気が付かなかった。己の周りの霧がどんどんどんどん濃くなっている事にも、その霧の中に、何か小さな光が舞っている事も。
その光が、肉食ペリカンの牙に結び付けたメルツェーデスのハンカチーフの周りに、特に強く漂っている事も。




