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古都音が神さまたちの声を聴きに行く
フィールドワークを開始します。
第5話「最初の行き先」
最初の行き先は、思っていたより近かった。
「遠くに行く必要はありません」
神様――このお社にいる神様は、穏やかな声でそう言った。
余計な飾りのない言い方だった。
「むしろ、近い場所のほうがいい。古都音が“知っているつもりで、知らなかった場所”」
古都音は、少しだけ考えた。
知っているつもりで、知らなかった場所。
観光地でもなく、有名でもなく、でも確かに人が暮らしてきた場所。
「……地蔵盆、ですかね」
口に出した瞬間、なぜそれが浮かんだのか、自分でも分からなかった。
ただ、ばあちゃんの家の近くにあった、小さな路地。
夏になると提灯がぶら下がって、子どもたちが集まっていた、あの場所。
神様は、わずかに目を細めた。
「いいわね」
それだけだった。
否定も説明もない、その一言が、妙に心に残る。
*
その町は、電車とバスを乗り継いで行く、近畿の小さな町だった。
地図で見れば、名前は載っている。
けれど、わざわざ降りる人は少ない。
バスを降りると、風が少し湿っていた。
夏の名残と、秋の気配が混じったような空気。
「……静か」
古都音は、小さくつぶやいた。
人の気配はある。
でも、にぎわいとは違う。
時間が、ゆっくり沈殿しているような感じだった。
路地を曲がった先に、それはあった。
小さな地蔵堂。
コンクリートの台座に、赤い前掛けをつけたお地蔵さんが一体。
その前に、古びた線香立てと、色のあせた供え台。
提灯はなかった。
飾りもない。
ただ、そこに在る。
(……あ)
その瞬間だった。
空気の“層”が、ふっと変わった。
音が消えたわけでも、光が変わったわけでもない。
でも確かに、「聴こえる」感覚が広がった。
――……今日は、風があるな。
低く、静かな声。
古都音は、息を止めた。
(……今の……)
逃げようと思えば、逃げられた。
でも、足は動かなかった。
「……こんにちは」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
返事は、すぐではなかった。
少しの間があってから、また、あの声。
――ああ。久しぶりだな。
責めるでもなく、喜ぶでもない。
ただ、そこに在る声。
(……話せてる)
頭が追いつくより先に、胸の奥が静かになっていく。
「……地蔵盆、やらなくなったんですね」
――そうだな。
「寂しい、ですか?」
少しだけ、迷ってから聞いた。
――寂しくないと言えば、嘘になる。
――だが、誰も悪くはない。
声は、淡々としていた。
――子どもが減り、世話をする人も年を取る。
――それだけのことだ。
(……怒ってない)
それが、いちばん意外だった。
「じゃあ……」
古都音は、言葉を探す。
「じゃあ、どうして……ここに、いるんですか」
しばらく沈黙があった。
風が、路地を抜けていく。
――待っている。
短い答えだった。
――誰かが、思い出すかもしれない。
――思い出さなくても、それはそれでいい。
(……それで、いいんや)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
そのとき、背後で足音がした。
「あら……お参り?」
振り返ると、年配の女性が立っていた。
買い物袋を下げている。
「はい」
女性は、地蔵堂を見て、少し困ったように笑った。
「昔はねぇ、地蔵盆、にぎやかやったんやけど」
「もう、やる人おらんのよ」
古都音は、うなずいた。
「でも……」
女性は、地蔵を見てから、ぽつりと言う。
「なんやかんやで、通るたびに手ぇ合わせるんよね」
そう言って、軽く手を合わせ、去っていった。
その背中を見送りながら、古都音は思った。
(……消えてへんねや)
形はなくなっても、
祭りがなくなっても、
祈りは、まだ、ここにある。
「……私」
気づけば、口を開いていた。
「私が、何かしたら……」
「少しは、役に立ちますか」
自分でも、驚くほど素直な言葉だった。
――無理は、しなくていい。
地蔵の声は、変わらず静かだ。
――だが、見て、聴いて、伝えることはできる。
その瞬間、神様の声が、重なるように響いた。
『それで十分です』
気配だけ。
姿は見えない。
『あなたが、代わりに救う必要はありません」』
『ただ、行って、知って、戻ってくればいい』
古都音は、ゆっくりとうなずいた。
(……レポート、書けるな)
ふと、現実的な思考がよぎって、少し笑ってしまう。
「……大学の課題として、出してもいいですか」
沈黙のあと。
『ええ』
神様の声には、わずかに笑みが混じっていた。
『あなたの言葉で、書きなさい』
地蔵の声も、続く。
――それでいい。
古都音は、深く一礼した。
帰り道、空は少し赤くなっていた。
派手な達成感はない。
でも、胸の奥に、小さな灯がともっている。
(……始まったんや)
全国を回る旅。
神様の悩みを“解決する”旅。
でも、それはきっと――
何かを「直す」話じゃない。
ただ、
聴いて、
知って、
つないでいく話。
古都音は、歩きながら、スマホのメモを開いた。
【第1回フィールドワーク:近畿某所・地蔵盆が行われなくなった町内】
【所感:祈りは、なくなっていない】
その文字を見て、少しだけ笑う。
風が吹いた。
どこかで、鈴の音がした気がした。
最初の一歩は、
思っていたより、静かだった。




