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74話 一日の何よりの楽しみのはずが

 文化祭が終わった夜。尊と朱莉はいつも通り二人で晩御飯を食べていた。

 食べていたのだが――。


「………」


「………」


 箸が食器を叩く音が聞こえるばかりで会話が全くなかった。食事だけ淡々と続ける二人の間に流れる空気は酷く重い。


(……気まず過ぎる……)


 尊は食事の手を動かしながら、頭を悩ませる。この重い空気の原因について……。

 だが、尊にはもう見当は大凡ついていた。


(絶対に文化祭での空き教室の会話だよな……)


 尊は空き教室での会話を思い出す。いつもの尊と朱莉のやり取りとは違いなんともお互いじれったい手探りでのやり取りだったが、最終的には朱莉の普段見せない甘えた態度で尊の心が限界を超えた。お互い恥かしくなるだけなって、それ以降、顔を初めて合わせたのがこの食卓でだ。


 だから、尊も朱莉も口数が少ないのは無理もない。お互いに意識しすぎているのだ。


(こういう時ってどうすればいいんだろうな……。隼人とかはうまいことやりそうだけど)


 現状の打開策を模索しながら友人ならどうするのかも想像する。


(あいつなら普通に会話を始めるか?……いや、そもそも俺にそんな度胸が……)


 会話ができなくて困ってるのにこの選択肢はないと速攻で投げ捨てる。こうなってくると考えれば考えるだけド壺にはまっていくような気がしてきた。

 それに尊にとっては他にも問題があり――。


(こんな状態じゃあ料理の味、まるでわからないんだよな)


 尊は机に並べられた料理に視線を落とす。いつも通り美味しそうな料理が並べられている。それなのに食べていても食べた気がまるでしない。


 ――尊にとっては一日の何よりの楽しみが朱莉の食事だ。それが食べても味がわからない状態なんて尊にとっては死活問題だった。


(……やっぱり話さないことには何も進まないか)


 尊は一度大きく息を吸い朱莉へ声を掛ける。





 一方朱莉もこの空気の重さに頭を悩ませていた。


(う~、どうしよう。どうしよう……)


 朱莉は内心で頭を抱える。


(平野君の顔がまともに見れない……。それに、ドキドキしすぎて声が出ない)


 大きく鼓動を刻む心臓を朱莉は意識する。


(これ……心臓の音とか聞かれてないよね?なんかすごいはっきりわかるけど……)


 せめてもの抵抗に朱莉は左手で胸を押さえる。少しでも音を誤魔化す様に。

 だが、尊に心臓の音が聞こえているなんてことはなく、全て朱莉の思い込みなのだが、それを判断する冷静さは今の朱莉には欠けていた。


(あーもう……こんなことなら奈月さんに着いてって平野君の後を追うんじゃなかった……)


 朱莉は体育館裏でのことを思い出す。尊の告白現場を目撃し、最後に尊が口にした言葉。その言葉が朱莉の頭から離れようとしなかった。いつまで経っても鮮明に思い出してしまう。


(だめだめだめっ!思い出すなー!もー!)


 その度に嬉しさやら恥ずかしさがこみ上げてくる。こんな状況なのでまともに尊と会話もできなかった。


 心の中で百面相している朱莉だが、なんとか自分自身を律する。


(流石にこんな状況だめだよね。……平野君何て多分わけがわかんないだろうし)


 朱莉はちらっと、ほんの一瞬、尊の顔を覗き見る。尊に対する感情の整理がついていないので、とても感じが悪い態度を取っていると思い込んでいる朱莉だが、尊は尊でそれどころではないので全く気にしてはいなかった。


(……やっぱり話さないとどうにもならないよね)


 朱莉は一度大きく息を吸い尊へ声を掛ける。





「鳴海」


「平野君」


 二人の声が重なる。この空気を変えようとお互いに声を掛けたが奇しくもタイミングが被ってしまう。


「あー、とー、鳴海からでいいぞ」


「え?いや、平野君からどうぞ」


「………」


「………」


 空気を変えようと意を決してはみたが、全く意味がなくお互い黙り込んでしまう振り出しへと戻った。気まずさからお互い少しずつ視線が逸れていく。


(あー、タイミング逃した……)


 尊は内心でため息をつき朱莉へと視線を向ける。


(結局、鳴海は何だったんだ……何か用があったんじゃ……)


 話しかけてきたのだから何かしら話題でもあるのかと期待していたが、朱莉は沈黙したままだ。何とももどかしい状況に尊は小さく朱莉には聞こえないようにため息をついた。


 再度、尊は口を開く。


「鳴海」


 尊の声に朱莉はわかりやすく身体をぴくりと跳ねさせる。


「その……やっぱり気にしてるよな。空き教室でのこと」


 尊は恥ずかしさを誤魔化す様に視線を泳がせながら頭を掻く。

 その尊の言葉に朱莉は目を丸くする。


「え?」


「……え?」


 心底驚いている朱莉の反応に違和感を感じ尊も目を丸くする。なぜそんな反応をするのか尊にはわからなかった。

 すると朱莉は箸を持ったまま慌てて手を小さく振る。


「え?あ、いや、空き教室のことは全然気にしてないから」


 早口にそう言うと朱莉は視線を逸らす。何となく誤魔化されている感はあるがそれならそれとして――。


「そうなのか?なら、なんか気に障るようなことしたか?」


「え?どうして?」


「なんというか、気のせいかもしれないけど……鳴海から避けられているような気がして」


「そ、それは違う!」


 朱莉が椅子から腰を上げ机に乗り出すので、尊は思わず目を丸くする。

 すると自分の行動に驚いたように朱莉は少し頬を染め静かに腰を下ろす。


「……ごめん。急に大声出して」


「いや……それはいいんだけど、どうしたんだ?」


「別にどうかしたとかはないんだけど……」


 もじもじと内股を擦りながら居心地が悪そうにする朱莉。何もないわけではないが尊にこそ言うわけにはいかない。言えば体育館裏に朱莉がいたことを教えてしまうことになる。


「まあ、何もないならいいんだけど。……ちょっと困るというか」


「困るって、何が?」


 尊は言いにくそうに言葉を詰まらせるが朱莉から視線を逸らして口にする。


「……折角美味しいご飯食べてるのにこんなに気になるとな。さっぱり味に集中ができなくて」


 言い終わると尊の顔が少し赤くなっているのが朱莉にもわかった。照れているのが一目でわかり、その反応は今の朱莉には効きすぎる。思わず朱莉も頬を染めてしまう。


「そ、そうなんだ。それは……何とかしないとね」


「……ああ」


 再び沈黙が訪れるが先ほどの気まずさとはまた別の甘い空気を漂わせていた。お互いのことを意識しすぎているためもう何をしても気まずいままだろう。

 そんな中、朱莉は顔を伏せ嬉しさに身震いしていた。


「美味しいって、美味しいって言ったー」


 尊に聞こえないよう小さく呟く。

 普段から尊は料理の感想を朱莉に伝えているが、今の朱莉には普段のことでも特別嬉しく感じてしまう。頬がもう緩み切っている。


「えーと……鳴海?大丈夫か?」


 なぜか顔を伏せたままでいる朱莉に尊は声を掛ける。


「んー?なんでもないよー」


「お、おお、そうか……」


 普段の朱莉と違うご機嫌な声に尊は反応に困る。ここまで機嫌がいい朱莉の声を聞くのは初めてだ。


(なんか知らんけど、機嫌もいいし、やっぱり俺の気のせいだったのか……?)


 先ほどまでの自分の考えに自信が無くなってきた。やっぱり自分の気のせいだったかと納得しようとしたとき――。


「あー、でも、やっぱり名前で呼んで欲しかったかなー。あれ嬉しかったのに」


 不意に朱莉の声が耳に届く。


「え?」


 無意識に声が漏れる。そんな尊の反応に朱莉も気が付き――。


「……え?」


 時間が止まったようにお互い凍りつく。

 しばらく先ほどよりも気まずい沈黙が続き朱莉の顔が次第に青ざめていき震える口を動かす。


「あの……口に出てた?」


「出てた、かな」


 尊は言い淀みながら朱莉から視線を逸らす。その反応を見て朱莉の顔が耳まで真っ赤になる。

 普通は絶対に言わないが今日の朱莉は普通ではなかった。嬉しさのあまりつい口から無意識に漏れた本音が尊に聞かれてしまった。


「その、違うのっ!いや、違くはないけど!じゃなくてっ!」


 混乱して頭が回らないまま朱莉はしゃべり続ける。


「平野君に名前呼ばれるのすごく嬉しかったってだけで、別にまた呼んでほしいなとかそんなことは思ってなくて!でも平野君さえよければまた呼んでくれてもいいかなって!」


 本音を漏らしながら朱莉が誤魔化そうと必死で口を動かす。恥ずかしいことを言っているのも気づいていないだろう。このままでは正気を取り戻した後、ほぼ確実に面倒なことになるので尊が止めに入る。


「鳴海ちょっと待った!いろいろ漏れてるから!」


「それになんか名前呼ばれたとき心がすごい暖かくなったっていうか、それがすごく嬉しくて――」


 それでも止まらない朱莉に尊は少し躊躇いを見せるが――。


「朱莉!」


 意を決して名前を呼ぶ。それでようやく朱莉の口が止まる。


「……へ?」


 なんとも間の抜けた返事だが尊は安心し息をつく。


「やっと落ち着いてくれたな。本当にどうしたんだ今日は……」


 尊は疲れたようにもう一度息を吐く。


 学校ほどじゃないにしろ家でも朱莉がここまで隙を見せることはなかった。学校での出来事を知らない尊にとっては本当にいきなり朱莉がおかしくなったと思っているだろう。


 そして朱莉もそんな尊を見て現実を理解してきたのか、自分が今さっき口走った言葉を鮮明に思い出して来てみるみる頬を染めつつ朱莉は机に突っ伏してしまう。朱莉の反応も無理はない。自分の本音を赤裸々に暴露したようなものだ。恥ずかしさは今までの比じゃないだろう。


 そしてこんな状況に一人取り残された尊も困っているわけで。


(もうどうしたらいいんだ、この状況……)


 机に突っ伏した朱莉の頭を見ながら呆然としている。

 続けざまに変化する状況に尊の頭も一杯一杯になっていた。


(声を掛けた方がいいのか。それともそっとしておくべきか……)


 何が正しいのか判断ができず悩んでいたが放っておくこともできず尊は動き出す。

 ぎこちない手つきでぽんっと朱莉の頭に右手を乗せた。


「朱莉。名前くらい何度だって呼ぶから顔上げてくれ」


 これが正解なのかはわからなかったが尊は意を決して朱莉に声を掛ける。


 尊が優しくそう言うと朱莉は少しずつ顔を上げる。目に涙を浮かべながら上目遣いに尊の顔を見る。


「……その、私のこと嫌いになってない?」


「嫌いにって……なんでだよ」


「だって、すごい恥ずかしい所見せちゃったし、あんなこと平野君の前で……」


 朱莉の顔が再び下を向きそうになる。ここまで弱っている朱莉を見るのは初めてだ。不安がっている姿が小さな子供のようで尊は思わず笑みを零す。


「恥ずかしいところ見たからって、それで俺が朱莉を嫌いになることはないよ。だから安心してくれ」


 朱莉の不安を払拭するように尊は優しく声を掛ける。実際、今更どんな朱莉を見ようと嫌うようなことはないだろう。

 その言葉に朱莉も少しずつ頭を上げてくる。


「……本当に?」


「ああ、本当だよ。だから顔上げてくれ」


「……そうか」


 嬉しそうに頬を染めながら朱莉は上体を起こす。もう朱莉からは先ほどの不安は感じられない。心の底から安心しているようだ。


「うん。ありがとう平野君」


「別にお礼を言われることはしてないけどな。――それより」


 尊は笑みの種類を変え悪戯をするように口を開く。


「朱莉は名前で呼んでくれないのか?」


「え?」


「ほら、俺は名前で呼んでるけど朱莉は苗字のままなんだなって」


「あー……ちょっと、それは心の準備が……」


「あの時は呼んでくれたのに?」


「そ、れは……」


 あの時とは空き教室でのことだ。朱莉は去り際に尊のことを名前で呼んでいた。それを思い出して朱莉の顔が朱に染まっていく。


「あの時は勢いというか……自然と口から出たというか……」


「なら今だって呼べるんじゃないか?」


「う、う~……」


 何やら呻きだした朱莉を余所に尊は少し申し訳なくなっていた。少しでも普段のように戻れればと思っていたのだが、朱莉の反応が可愛くつい揶揄うのを止められずにいた。


 そんな尊の内心など知る由もなく、朱莉は視線を彷徨わせたのち尊へと目を向ける。


「そ、それじゃあ、呼、ぶよ?」


 上目遣いにそう言うと朱莉はその小さな口をゆっくり動かした。


「み、尊、君……」


 恥ずかしさからか頬を染め涙目で名前を口にする。


「………」


 名前を呼ばれ尊は言葉を失っていた。自分で揶揄っておいてなんだが、なぜかこちらまで恥ずかしくなってきた。


(ちょっと、やばいなこれ……)


 思わぬ可愛さに尊は口元を押さえ顔を逸らす。その反応に朱莉が少し頬を膨らまし抗議する。


「ちょっと、ひら……尊君が呼ぶように言ったんだけど」


「……そうなんだけど。思った以上に可愛くて、顔が見れない」


「かわっ!?」


 尊のストレートな発言に朱莉の顔が更に赤くなる。


「そ、そういうことを簡単に言わないで!私だって恥ずかしくなる……」


「……朱莉は何言っても照れるだろ?」


「そうだけど!そうじゃなくて!」


 普段通りの朱莉とのやり取りに尊は思わず苦笑する。


「ちょっと何笑ってるの?」


「いや、やっといつも通り話せるようになったなって。やっぱりこっちの方がいいな」


 屈託のない笑顔を向けられ朱莉の顔がまた赤くなる。口をわなわな震わせながら顔を晒せてしまった。そんなわかりやすい反応に尊は更に笑ってしまう。


「それで、名前呼びはこのままでいいのか?」


 お互い名前で呼ぶようになったがあくまで話の流れ的な感じがある。朱莉が嫌なら大人しく止めようと尊も考えていたが――。


「……いい、このままで。……ただみんなの前ではまだやめてほしい……」


「うん、そうか。了解」


 名前呼びは継続のようだ。尊からは見ることができないが朱莉の顔も嬉しそうに口元が綻んでいた。いろいろなことがあった文化祭だが悪くない終わり方だっただろう。


「ほら、そんなことより冷めないうちにご飯食べちゃって」


「ああ、そうだな。これならちゃんと味わえて食べれそうだ」


「だ、だから、いちいち言わなくていいから」


 いつも通り。今日あった何気ないことを話しながら尊と朱莉は食事を再開した。

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