62話 練習でも中途半端にはしたくない
尊は教室の中で扉の前に立っていた。これから急遽開催されることになった執事服を着ての実際の接客練習に尊が選ばれたからだ。
(まさかこんなことになるとはな……)
皆の視線が気になる中、尊は呼吸を整える。実際本番ではやることになるので尊も練習できるのはありがたいと思うことにした。事前に頭に入れた接客のマニュアルと動きを思い出して反復する。
(どうせやるならいい加減なものにはできないな)
責任感が強い尊が求めるのは完璧な接客だった。
「平野君準備はいい?」
「ああ、いつでもいいよ」
女子生徒の声に尊が返す。その声はどこか落ち着いたいつもより少し低い声だ。狙ってやってるわけではないが、適度な緊張で高まった集中力が自然とそうさせた。
女子生徒もいつもと違う尊に頬を染める。
「う、うん。じゃあ……始めるね」
女子生徒の開始の合図で教室の扉が開く。それと同時に小野寺が教室へと入ってくる。
尊はゆっくり息を吸い小野寺へと柔らかい笑顔を向け声を掛ける。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
そして腰を綺麗に折り、小野寺へ礼をする。その落ち着いた雰囲気に場の空気が一変する。尊の一挙手一投足に教室の生徒は息を呑んでいた。小野寺も目を大きく開けしばらく立ったままその場で硬直する。
動かない小野寺を不審に思い尊が優しく声を掛ける。
「どうかなさいましたか?お嬢様」
すると小野寺は弾かれたように身体をびくっと動かす。
「あ、ご、ごめんなさい。うん。大丈夫」
「左様でございますか。席にご案内いたします。こちらへ」
尊は手を向け小野寺を誘導する。案内されている小野寺はというと頬を染め、目もとろんとさせ甘い吐息を漏らしていた。
席まで案内すると尊はメニューを差し出す。
そこからも滞りなく尊は接客を行っていき、小野寺を教室の外まで見送り接客の練習は終了した。
「ふーーー」
終わったことに安心し尊は大きく長く息を吐く。
(何とかやり切ったけどミスとかなかったよな)
尊は自分の接客を思い出す。これといって何か間違えた記憶はなかった。
(まあ、とりあえずは終わったし、何かあれば皆から指摘されるだろう)
尊は教室へと振り返り皆の顔色を窺う。
「……ん?」
尊は教室の異常に気づく。尊の接客が終わったというのに誰も動こうともしないのだ。壁際で立ったまま微動だにしない。クラスメイトのそんな状態に尊は不安になる。
(え?そんなに接客ひどかったか?でも特に失敗もなかったはずだよな……)
尊もその場で固まってしまい、教室の時間が止まったように皆が固まってしまうと、尊の後方の扉が開く。
先ほど出ていった小野寺が入ってきて振り返った尊と目が合う。なぜか恥ずかしそうに視線を逸らせた小野寺が小さく口を動かす。
「……平野君その……接客すごい良かった。なんかずっとどきどきしてて身体が熱いんだけど……」
両手でぱたぱたと顔を仰ぎならがはにかむ。小野寺が入ってきたことで教室の時間が動き出す。
「ちょっとこれは……破壊力がやばすぎ」
「平野君に接客させたら女子全員落ちちゃうんじゃない?」
少しずつ騒がしさが戻っていく教室で尊だけが取り残されていた。
「えーと、結局よかったのか?悪かったのか?」
尊が困っていると隼人と井上がゆっくり近づいてくる。
「おつー、尊。いやーすごかったな」
「うん。まさかあんなに様になるとは思わず見入っちゃったよ」
二人の反応に尊は少し戸惑う。
「結局よかったのか?」
「いや、もう文句のつけようがないくらい完璧だったと思うぞ。やればできるやつとは思ってたけどここまでとはな」
「本当に何て言うんだろう。一つ一つの動作が丁寧で執事ってこんな感じなんだろうなって思わされたよ」
二人の反応からするに尊の接客に問題は無かったらしい。教室の反応を見ても間違いないだろう。
ただ、気になるのは皆の過剰な反応で、尊を褒めるような言葉が耳に多く届く。なんとも居たたまれない状況に尊はため息をつく。
「これなら接客してる最中の方が気が楽だな」
皆の尊を見る目が明らかに変わっていた。羨望、尊敬、心酔、人によって様々な感情を覗かせていた。今まで向けられたことのない視線の種類に尊は苦笑するしかできなかった。
こんなことになるとは思わなかったし誰が予想できたか、教室での尊の株がこの時急上昇した。
戸惑いを色濃く表情に出している尊に隼人が声を掛ける。
「まあ、お前のすごさにみんながやっと気づいたってことだな」
「俺は別にすごくもないし、気づかないならそのままが良かったんだが」
「こうなったらもうしょうがないだろ。胸張ってけ。お前の平穏に学校生活を送るってのも、もう無理かもな」
楽しそうに歯を見せて笑う隼人。
「………」
渋い顔を作り尊は頭を押さえる。この先、尊の学校生活にどのような変化があるのか……考えたくもない想像が尊の脳裏をよぎった。




