10話 隣人にも苦手なものがあるらしい
今日の授業内容の復習を行っていると来客を知らせるチャイムが鳴った。
(鳴海か?ちょっと早いな)
今の時間は五時ちょっと過ぎ、いつもなら六時過ぎた辺りで来るので一時間ほど早い。
鳴海にも都合があるので多少早くなろうが尊は特に気にしないし、作ってもらっているのだから文句もない。
椅子から立ち上がり玄関を開けると予想通り朱莉の姿があった。
あったのだが――。
その手にはいつものタッパーがなく表情もなんだか強張っているように思う。
「どうした?」
訪ねて来てしゃべりもしないので不審に思い尊の方から口を開く。
朱莉は落ち着きがなく視線を彷徨わせ何かに迷っているような感じだ。
どうしたものかと尊も困ったように頬を掻く。お裾分け以外で尊に用事があるとは思えないのだが、朱莉にしては珍しく逡巡している姿を眺めていると不意に手首をがしっと掴まれた。
「え?」
「付いてきて」
そのまま腕を引っ張られ廊下に躍り出る。
「は?ちょっ、どこに……」
いきなりのことで頭が追い付かずそれだけ口にする。
尊の問いかけに答えることもなく朱莉は自身の部屋の扉を開けると尊を引っ張り入れた。
朱莉の部屋に入った途端、甘い香りが鼻孔を擽る。彼女自身の香りなのかとても落ち着く香りだ。
このまま堪能したい気持ちもあるが流石に失礼なのと変態っぽかったのでこの辺で止めておく。
朱莉はというと玄関に入った途端尊の後ろに隠れるように回り込み背中を少々押してくる。
「あの……そろそろこの状況の説明をお願いしたいのだが」
「……あれが出たの」
「あれ?」
「うん……あれが……」
全くわからん。
尊の背中越しから部屋の様子を窺うようにひょこひょこと顔を出す朱莉。
その姿は何かに怯えているようにも思える。小さな手は尊の服の袖を弱く握りしめている。
そこまで朱莉の様子を観察し尊は察した。
「ああ、なるほど。ゴキブリでも出たのか」
「………」
「鳴海って苦手なものとかないと思ってたけどゴキブリはダメなんだな」
「……ゴキブリが苦手じゃない女の子なんていないと思う。わかったらさっさと上がって」
「上がっていいのか?」
「この際仕方ないわ。それにこのままじゃ料理できないし」
それは大変だ。一日の唯一の楽しみをゴキブリなんぞに奪われるわけにはいかない。
朱莉の料理が食べれないなんてあってはならないのだ。
「でも俺も得意ってわけでもないんだよな」
「男の子でしょ。いいから早く上がってあれ始末して」
「始末ってお前な」
相当一杯一杯なのか朱莉には余裕がない。
(これは早くなんとかしてやった方がいいな)
尊は意を決し部屋に踏み込む。女子の部屋に入るなど今まで数える程度しかないので少し緊張する。
「なんか殺虫スプレー的なのないのか?」
「確か納戸に入れてたと思う」
部屋の間取りは尊の部屋と一緒なので迷いなく納戸の前まで着き、
「えーと、開けていいのか」
「……ちょっと待って」
流石に流石に尊が開けるわけにはいかない。
朱莉は納戸を少し開け中を確認し殺虫スプレーを取り出した。
はい、と殺虫スプレーを尊に手渡す。
受け取った殺虫スプレーの引き金に指を掛けこれで準備は整った。
「それでどの辺に居たんだ」
「リビングのテレビ辺りだったけど今はどこにいるか」
「了解」
とりあえず最後に朱莉が目撃したテレビ付近を確認する。テレビ裏に台の下も見たがそれっぽい影はなかった。
「いないな」
「そうね」
いないことへの安堵と、どこへ行ったのかという不安から朱莉ははあとため息を吐く。
未だに尊の服の袖は握ったままだ。
「鳴海、怖かったら玄関で待っててもいいんだぞ。無理に一緒に付いて来なくても」
「無理してない。むしろこんな空間に一人にしないで」
「なら外で……いやそれはないか」
女性の部屋に男を一人残すのはいろいろとまずいだろう。別に尊が何かするわけではないのだが常識的に考えて。
ゴキブリを探すためとはいえ朱莉の部屋を隅から隅まで見てしまうのは大変申し訳ないが、彼女の部屋は想像通りというか、きれいに整頓されており、先ほどテレビの裏を確認した時には埃一つ溜まっていなかった。
棚の上にはぬいぐるみなども飾っており女の子らしい部屋になっている。
(いやいや、何部屋見るのに夢中になっているんだ俺は)
朱莉の部屋を見るのに意識が行ってしまっていたので頭を振るとともに雑念を振り払い集中する。
だが、なかなか見つけることができず時間だけが過ぎていき、尊も朱莉も疲れが出てきた。流石にこれ以上探しても見つからないだろうと朱莉も判断し、
「仕方ないわ。諦める」
「いいのか?」
「よくはないけど、見つからないのだからしょうがないわよ」
そういう朱莉だが顔には不安と恐怖心がありありと表れている。
それでも平常心を装おうとしている辺り朱莉らしさが出ているし、何より尊をこれ以上付き合わせるの申し訳なさそうだ。
尊としてはいつも迷惑をかけている方なのでこれくらいは迷惑に入らないのだが。
「わかった。もしまた出たら呼んでくれ、別に夜中だろうと気にしないから」
一応いつまた姿を現しても朱莉が気にしないで尊を訪ねることができるようにそう言っておく。言ったところで朱莉は気にするかもしれないが。
「うん、ありがとう。少し遅くなるけど後でご飯持って――」
「ん?鳴海?」
朱莉の言葉が不意に途切れたので肩越しに振り返ると、強張った顔である一点を凝視していた。まさかとその視線の先に目をやると壁をよじ登る黒い影があり、
「き、きゃああああ!」
「おい、鳴海!?」
朱莉は悲鳴を上げると尊の背中に抱き着く。そのままバランスを崩しかけるが何と踏みとどまり体勢を整える。
「いやああああ!」
パニック状態の朱莉は尊に回している腕に更に力を入れてくる。そうなると必然的に背中に柔らかいものが当たってしまい。
「鳴海ちょっと落ち着いて!」
動揺する尊を気にも留めず密着する身体を離そうとしない。このままでは尊の理性も限界である。
一刻も早くゴキブリを退治する必要がある。
殺虫スプレーのノズルをゴキブリに向け引き金を引く。中の液体が霧状に噴出され正確にゴキブリを捉える。苦しそうにのたうち回るが構わず殺虫剤を吹きかけ続ける。
しばらくすればゴキブリも動かなくなり亡骸が床に転がった。
時間にしてみればほんの少しなのだが体感的にはとても長く感じ、安心したのかどっと疲れが押し寄せてくる。
「鳴海終わったぞ」
「ん~、終わった?本当に?」
尊の背中に押し付けていた顔を離し恐る恐る覗き込む。その姿を確認するとさっとまた顔を戻してしまった。
「ビニール袋あるか?あれ捨てたいんだけど」
「あ、うん。ちょっと待って」
ゆっくりと尊の背中から離れキッチンの方に向かう。ビニール袋を手渡すとまた尊の背中に回る。今度はくっ付いたりはしないがまだ怖いらしい。
余裕が戻ってきた尊は可愛らしい朱莉の反応に苦笑する。
ティッシュで摘まみビニール袋に入れると気持ちきつめに封を閉じる。とりあえず玄関に置いておく。
「何とか終わったな」
「ありがとう。本当に助かったわ」
「最初は何事かと思ったけどな。急に腕掴まれて部屋に引っ張り込まれて」
「わ、悪いとは思ったけどこの際なりふり構ってられなくて」
視線を下に逸らし薄く頬を染める。緊急事態とはいえ大胆な行動をしたと自覚しているのだろう。それほど朱莉にとっては死活問題だったのだ。
「とりあえず部屋戻るよ。鳴海もご飯作らないといけないだろ」
伸びをし体をほぐす。運動したとまでは言わないが結構疲れたし今日の朱莉のご飯はいつもよりおいしく頂けるだろう。
「待って。もうここでご飯食べてって」
「え?」
「ほ、ほら、今日はいろいろあって疲れちゃったし、平野君も家に上げちゃったからもうついでに食べてってもらった方がいいかなって、今日のお礼もあるし。それに……」
「それに?」
「またあいつ出てきたら困るし……」
なるほど要するにまたゴキブリが出てきたら怖いからここにいろと、そういうわけか。
もじもじと身体を揺らし不安気にこちらの反応を確認する朱莉。よっぽどゴキブリが苦手らしい。
「俺としてはすごくありがたいけど本当に食べてっていいのか?」
「いいのよ。むしろそうしてもらった方が助かる」
「ならお言葉に甘えさせてもらうよ」
「うん。適当にソファにでも座って待っててテレビ見てていいから」
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