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#92

 午後から山へ出たものの、いまいち仕事に身が入らない。エイイチは時折ふと空を眺めたりして無駄な一日を過ごした。心ここにあらず。咲き誇る花々も慰めにはならなかった。


 入浴前にダイニングルームへやってきたエイイチは、廊下でたまたま鉢合わせたマリと共に入室する。


「あれから、体の調子はどう?」

「平気平気。あんなの、のぼせたみたいなものだから」


 パッと見では発言通り、マリはいたって健康そうに思う。しかしマリが不治の病に冒されていることをエイイチは知っているのだ。心配でしょうがなかった。


「お待ちしておりました。本日もお疲れ様でした」


 頭を下げて迎えてくれるアヤメ。激務を乗り越えた企業戦士のような凛々しい顔つきで、エイイチは軽く片手をあげて応じた。

 山での茫然自失な体たらくを経て、どうしてこのような振る舞いを平然とこなせるのだろう。エイイチが良心を痛ませている様子は微塵もない。


 入室したのはエイイチとマリが最後のようだが、ツキハとセンジュもダイニングルームへ到着したのは今しがたのことらしい。テーブルには手つかずの料理が並ぶ。


 ひときわ目立つ、炊きたての赤飯が存在感を放っていた。


「……なんで、お赤飯?」

「祝い事には定番ですので」

「ああ、復学のお祝いってこと」

「いえ。そういうわけではございません」


 マリは首をひねりつつ、赤飯に添えられた桜鯛の煮付けに目が釘づけである。海産物のおかずに文句はないので、それ以上は突っ込むことなく席へ着く。


「じゃあ、もしかして誰かの誕生日とかですか?」

「エイイチ様、お戯れを」


 であれば、いったい何の祝いだというのだ。アヤメにあしらわれてしまったエイイチは、空いていたマリの隣へ腰かけて考え込む。

 エイイチのこういった素振りもまた、愚かを装っている風にアヤメからは見えるのかもしれない。


 エイイチとマリは結ばれた。エイイチにとっての唯一無二はマリとなったのだ。誰がエイイチの一番か、覇を競っていた身の上のアヤメとしては複雑だがやはり祝うべきだろう。

 間に合わなかったことを悔やみ続けても仕方ない。過去に弟――“ショウブ”にまつわる一件でそれを学んだ出来るメイドは、現状を鑑みて即座に思考を切り替えた。


 べつに“二番でもいいか”……と。


「……そうか……祝いと呪いは表裏一体。つまりこの赤飯には儀式的な、なんらかの意趣が込められている。そうですね?」

「いえ。呪いなど見当違いです。私はただ心からの祝福を。お二方の恒久的な幸せを願っておりますから、嫉妬もありません。本当です」

「恒久だとか永遠だとか、ホラーにおいて怖い意味しかないんですよ。俺は詳しいんだ」

「差し出がましいようですが、もっとエイイチ様らしくピンクに物事をお考えください」

「ピンク? ピンクってなんだ! 新鮮な人の肉の断面か!?」

「さっきから何をおっしゃっているのです!」


 やかましいやり取りに興味を示さず、マリは夢中で煮付けに箸を伸ばす。

 ツキハとセンジュは赤飯の茶碗を抱えたまま、怪訝な視線を白熱する二人へと向けていた。


「エイイチとアヤメさん、なんで喧嘩してんの?」

「さあ……どうしてかしら。でも」


 攻防の端々からツキハは感じる。

 この言い争いは、また何か盛大な勘違いにより発生したものだと。エイイチとアヤメ、二人共(・・・)がだ。しかも皮肉なことに本来の狼戻館、その本質を突いているのはどうやらエイイチの方だ。

 今宵の席がいったい何の祝いなのだかまったく把握していないツキハだが、この場はアヤメへ乗っかる方が計画を進める好機なのではと考える。


「マリの復学祝いということで、いいのではなくて? ほら二人とも、そんな険しい顔でいたらせっかくの祝いの席が台無しだわ」


 ツキハは淹れたてのほうじ茶を自ら注ぐと、湯呑みをそっとエイイチへ差し出した。

 焙煎された香ばしい熱が喉元を過ぎれば、興奮状態にあったエイイチも不思議と落ち着きを取り戻す。


「ふぅ……しかしですね、ツキハさん。マリちゃんの体調を考えると、俺は手放しに祝えないっていうか」


 なるほど、エイイチはマリの病気を心配しているのだ。つまりエロゲーの設定にのめり込みつつある。いい兆候を前に笑みをもらすツキハ。これを利用しない手はない。

 ツキハはすぐさま口もとを引き締めると、瞳を伏せがちに悲壮な表情を形作る。


「エイイチさん……わたくしはね、マリの願いを出来るだけ叶えてあげたいの」

「願い……」

「ええ。たとえ限られた時間であっても、精いっぱい」


 マリの余命を匂わせる発言に、エイイチは言葉を失くした。祝宴のはずが、お通夜のように静まり返ってしまう。

 ツキハの目論みは成功したかのように思えたが、静寂のダイニングルームにカチャカチャと忙しなく響く音がひとつ。


 マリである。

 マリは抱えた茶碗に煮魚をバウンドさせ、一心不乱に口へ運んでいる。口いっぱいに桜鯛を頬張りながら、追って赤飯をかき込む。普段からは想像もつかない旺盛な食欲は、呪いで体力が消耗しているせいだろうか。

 いずれにせよ食べっぷりは高校生男子。とても寿命が迫った薄幸少女には見えない。


「…………」


 真顔になったエイイチと、眉をヒクつかせるツキハ。どちらの視線にも、食事に集中しているマリは気づかなかった。

 いつもいつも、ツキハの思惑は身内に邪魔をされて頓挫するのだ。


「センジュ」


 マリの対面に座るセンジュへ、ツキハは“テーブルの下から蹴りを入れろ”とアイコンタクトを投げる。


「え? な、なに?」


 しかし伝わらなかった。

 これにて終了。詰みである。ツキハは舌打ちを堪える。

 エイイチもいまいち悲劇の展開に酔えないまま、黙々と食事するマリの姿を眺めるのだった。




「ごちそうさま」


 赤飯のおかわりも含めて、桜鯛を綺麗に完食したマリが席を立つ。

 見届けて、エイイチが続いた。


「ごちそうさまでした。俺も部屋に戻ろうかな、ガンピールも今日は戻ってこないみたいだし」

「先日の剣を返してあげたから、きっと秘密の場所にでも隠しに行ってるのでしょう。それよりエイイチさん、少しいいかしら?」

「え、なんですか?」

「アヤメさん、例の」

「はい。こちらへ」


 マリのみが退出したダイニングルーム。ツキハに促され、アヤメは豪華な装丁の本をテーブルへ置く。


「マリの私室で、アヤメさんが回収した本なのだけど。エイイチさん、これはあなたが持ち帰ったものね?」

「まあ、はい。友達からお土産にって貰ったんですよ」

「そのお友達というのは、どのような方なのかしら」


 たずねられ、エイイチは何気なく窓の外へ目を向ける。もちろんダイニングルームから町は見ることができず、眼差しは暗い夜に吸い込まれていく。

 エイイチは自身のこめかみをトン、と人差し指で叩いた。


「どうって、気のいい子でしたよ。名前が、ええっと、たしか……――『   』って言ったかな」


 ツキハは一瞬、言葉に詰まる。エイイチの口から間違いなく名を聞いた。けれど字列は脳で組み立てる前に消えていく。経験したことのない感覚だった。


「……ごめんなさい。もう一度、聞かせてもらえる? お名前を」

「だから『   』ですって。ていうか、その子がどうしたんですか?」


 何度聞いても一緒だった。いや、おそらくエイイチと同じようにその名を発語することはできるのだ。記憶に残っていないわけではない。だからこそ、違和に気づきにくい。


 静観していたセンジュが、苛立った様子で組んだ足を揺らす。


「その本、それがマリの? 中身は何が書いてんだよ?」


 訳のわからない人物の名よりも、マリを呪いたらしめた原因こそ突き止めたいのだろう。日々は互いに憎まれ口ばかり叩いていても、センジュの狼戻館住人に対する思いは過去と比べて遥かに変化している。


「ただの洋書だったよ。外国語だから何が書いてるのか、俺にはわからないけど」


 言いつつ、呪物かもしれない本へ無遠慮に手を伸ばすエイイチ。


「おいエイイチ!? バカ!」


 慌てて止めに入ろうとするセンジュを、ツキハは冷静に制した。


「大丈夫よ」

「でもだって! エイイチまでマリみたいに……!」


 ハラハラと落ち着きなく、センジュは固唾を飲んで、ページを捲るエイイチを見守っている。

 エイイチは首をひねり、本を何度も最初から読み直していく。


「あれ……おかしいな」

「本は白紙。エイイチさんが読んだ、外国語なんて書かれていないわ」


 正確にはまったくの白紙というわけではない。数ページ毎に文字や図形に見えなくもない記号がひとつ、ふたつ、ぽつんと記されている。だが本と呼ぶにはあまりに手抜きの惨状だ。


「ぜったい普通の本だったはずなんだけど。……と、とにかく用がそれだけなら、俺は部屋に戻りますね」


 あきらかに狼狽した表情で、エイイチは本を抱えたままダイニングルームを出ていった。

 残りの住人、誰もが思っているであろう事実をアヤメが述べる。


「おかしいのはエイイチ様の記憶でしょうか。それとも」

「マリが読んだんだから、何かは書いてたんじゃねぇの。呪いが発動すると、文字が消えていく仕掛けとか? そんな呪いがあんのか知らねーけどさ」


 すべてに可能性があり、現時点では答えを得られなかった。

 ただ一点、ツキハには確実に言えることがある。


「本に残されていた文字、記号。わたくしは、あのような文字を見たことも聞いたこともない。数百年を遡っても、ね」


 ツキハをして知り得ないのならば、はたして地球上に存在する文字なのかさえ怪しくなる。

 そのことをよく理解するアヤメは、もしくは子供の描いたデタラメな図形であってくれたなら、と心中の不安を慰めるのだった。




「エイイチくん」

「あ、マリちゃん。部屋に帰ったんじゃなかったの?」


 エントランスホールの階段付近で、エイイチはマリと鉢合わせた。というより、マリはどうもエイイチを待っていたかのように腕を組んでいる。

 背を預けていた柱から離れ、マリが目前まで歩いてくると、エイイチの心臓はわずかに跳ねる。


 赤みを帯びた、長い黒髪。濡れたように艶ややかな睫毛がまたたき、マリの大きな瞳がエイイチの奥底まで覗き込む。


「わたしのことばっかり気にして。エイイチくん、そんなにわたしが好き?」

「うん。好きだよ」


 エイイチは即答した。

 マリの言う通りだからだ。余命幾ばくもないと知ったときから、あるいはそれ以前から気になって気になって仕方なかった。これはもうそういう結論に至ってしまうのだ。

 未だ目の前の少女が人智を超えた化物であるという疑いは捨て切れなくとも、なぜか感情は素直に受け入れることができた。マリのことが好きなのだと、エイイチはずっと自覚していた。


「ぉ……」


 面食らって、しばらく思考停止したのはマリのほうだ。まさか記憶喪失も甚だしいエイイチがあっさり認めるとは思わなかった。


「おお」


 マリは軽く振りかぶった手で、エイイチの肩を叩く。次に尻をぺしんと叩き、脇腹を小突いた。


「いてっ。痛いって」

「うん、うん」


 さらにマリはまるで子供相手にするかのごとく、エイイチの頭へポンポンポンポン高速で手のひらを打ちつける。


「マリちゃん痛いってば」

「いいね、いいね。エイイチくん、自覚出てきたね。右腕の」


 マリの両手に、頬をすくわれるように挟まれ、エイイチは少し照れくさそうに目線をマリの頭上へ外した。けれどマリは背伸びをして、エイイチの視界のフレーム中央へと収まる。


「じゃ、エイイチくん。そんな女に、浮わついちゃだめだよ。ぜったい」


 マリの視線はエイイチが脇に抱えた本に落ちている。“そんな女”が誰を指すのかは明白だ。やはり恥ずかしいのか曖昧に顔をそむけるエイイチへ、マリはますますつま先を伸ばす。


「ん~~?」


 当然そんな気はエイイチに無いのだが、真っ当に返事をするまでマリは決して鼻先から離れてくれなかった。


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