#91
出血はそれほど長い時間は続かず、やがてマリの鼻血は治まったようだ。
「……止まったかな。まだ上向いちゃだめだよ、マリちゃん。口の中に溜まった血は吐き出して」
前屈みにさせたマリの鼻をつまみながら、エイイチはティッシュペーパーを数枚抜き取る。そしてマリの口もとにあてがった。
「かへっ、けへっ!」
大量に消費したティッシュはベッドへ転がす。シーツにも血は飛び散ってしまったが仕方ない。ハァハァと口呼吸するマリの背中を、エイイチは心配そうにさすってやる。
「…………平気。ありがとう、エイイチくん」
マリは立ち上がり、苦虫を噛み潰したような顔で、洋書をテーブルに放り投げた。呪いに類する本であるのは確かだ。しかしマリが身体に受けた不快感は相当なもので、過去を思い返しても経験がない。今もまだ気を抜けば足がふらつくほどだ。
「やっぱり、そんな体調じゃ学校は無理なんじゃないか? もっと病状が落ち着いてからでも……」
「ごめん。少し、ひとりにして」
ナーバスに呟くマリを気遣い、エイイチは頷くと黙って部屋を出ていった。まさか本当に重い病気なのかと、ショックを隠せない様子のエイイチだった。
自室でひとりとなり、マリはホラー世界の異形然とした冷徹な表情を覗かせる。
「売ってる。狼戻館に。喧嘩を」
倒置法は滲み出た怒りの証。いずれ当主となり館の支配を目論むマリにとって、自身への攻撃は狼戻館全体に向けられた敵対行動と見なして当然である。不埒な輩は断固として叩きのめし、威を示さなければならない。
腕力でどうにもならない“呪い”は厄介であり、マリの苦手とするところ。それなのに怒りが上回った背景には、エイイチへ近づく女の影が大きな要因となっていることにマリ自身気づいていない。
つまり嫉妬。あるいは独占欲か。マリの赤い瞳は揺らぎ、ふつふつと燃える焔を思わせた。
「――おや。エイイチ様、どうなさいました?」
廊下ですれ違ったアヤメから声をかけられ、エイイチは立ち止まる。
「顔色があまりよろしくないようですが。もしや、どこかお体の具合でも」
「ああ、いや。俺は元気ですよ、俺はね。いたって健康体」
アヤメの方を極力見ないよう歩いていたのに、浮かない様子を指摘されてしまうエイイチ。たんにアヤメの観察眼が鋭いのか、それともよほど気落ちした風体をさらしていたのだろうか。
「ですが……」
言い回しに違和感を覚えるアヤメだが、エイイチ自身もまた戸惑っていた。
つい先刻までこの館は【豺狼の宴】の舞台、住人は自らの生命を脅かす存在だとエイイチは認識していた。いや、今も疑惑が完全に晴れたわけではない。呪いの効果も間近に見たのだ。ここをホラーゲームの世界と断定するに十分な現象だった。
それなのに心の天秤は、なぜか至極現実的な事象を選ぶように傾いた。マリが不治の病など抱えていたらどうしようと、考えるだけでエイイチの胸は苦しくなってくるのだ。昨日今日に出会ったばかりのはずなのに。
「エイイチ様。差し出がましくも、言わせてください」
「はあ」
気もそぞろに頭を垂れているエイイチへ、アヤメはしっかりと正面から向き直る。
「ここでは、どうか威風堂々と過ごされますよう。尊大に、不遜に振る舞ってくださいませ」
「いやいや。そんな覇王みたいな」
「構いません。すべてはあなた様の思うがまま、あらゆる欲望を解放して手中に収めるのがよろしいかと。魔王のように」
「俺ただの雇われですよ!? 人様の家で、そんなの頭イカれてる!」
「そんなイカれたあなたがいいのです。イカしたあなたに帰ってきていただきたいのです」
なにを言っているのだろうかこのメイドは。ひどい台詞だったが、どうやらアヤメは切実だ。
「エゴを通すためには力がいる。そしてエイイチ様は、その力を示し続けてきました。だから、生きてここに立っていらっしゃるのです」
やっぱり意味がよくわからない。しかし妙に説得力のある言葉だった。エイイチは少し気が抜けたのか、ふっと表情を和らげるとささやかな望みを口にする。
「それなら、新しいシーツ……貸してもらえませんか?」
小首をかしげるアヤメに、エイイチは続ける。
「マリちゃんのベッドなんですけど、ちょっと汚れちゃって」
もっと適切に鼻血の処置ができていれば、シーツを汚すこともなかっただろう。申し訳なさそうにエイイチは頬をかいた。
「その程度のことでしたら、私にお任せを。というか本職ですので」
「うん……まあ、それもそうか。派手にやらかしたかなって焦ってたみたいです、俺。たしかにアヤメさんの方が適任ですよね」
「はい。完璧な仕事をお見せいたしましょう」
腰を折って頭を下げるアヤメに、エイイチは親指を立てて笑う。
「俺は初めてだったから、恥ずかしながらびっくりしちゃって。アヤメさんなら詳しいだろうし、いつもと違うところがあったらツキハさんにでも報告してください。じゃあ、よろしくお願いします!」
マリの病状について、アヤメなら馴染みが深いだろうと。シーツに残る出血量など鑑みて、医者が必要なら呼んでくれるに違いない。
安心して走り去るエイイチの背中を、変化の乏しい表情の中にあきらかな疑問符を浮かべてアヤメは見送った。
◇◇◇
マリは遅れてダイニングルームへやってきた。テーブルにはアヤメの用意した朝食が並び、ツキハとセンジュはすでに食事を終えようとしている。
ちなみにエイイチとアヤメ、ガンピールの姿は見えなかった。
「…………」
無言で席へ着き、バゲットを千切り千切り、マリは口へと放り込んでいく。
熱いスープでパンを喉に流すマリを、ツキハとセンジュもまた無言で眺めている。
すると。
「あ」
どろりと鼻から血が垂れ、マリは慌てた様子で手もとのナプキンを鼻腔に詰めた。粘膜が傷つくので詰めものはよくない、とエイイチに言われていたがとりあえずの処置だ。仕方ない。
「ど、どした? 誰にやられた? レールガンとか直撃した?」
「なに、それ」
目を丸くして驚くセンジュへ、マリは冷ややかに返した。
「だってさ、おまえが怪我するなんて……」
大型兵器のひとつでも持ってこなければ無理だというのだろうか。ゴリラ染みた腕っぷしの強さだけでなく、センジュはマリの頑強さも認めているらしい。
「怪我なんかしてない。ただの鼻血だし、こんなのたいしたことない」
ナプキンにじわじわと広がる血液を見つめながら、ツキハが重い口を開く。
「マリ。あなた」
吐き出される宣告まで重く。
「――死ぬわよ」
「え?」
ダイニングルームへ今まさに入室しようとしていたエイイチは、マリと同じ返事をしそうになった口を必死で押さえた。足音を消して後ずさる。
恐れていた事態だった。やはりマリは重い病を患い、命まで脅かされていたのだ。
アダルトゲーム【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】においても、タイトルに反して設定はシリアスなものが組み込まれている。原因不明の病で衰弱していく次女は、だからこそエッチシーンが尊くプレイヤーに突き刺さるのだ。
そして、困難を乗り越えた先の濡れ場こそが本番。“あんな病弱だった子がこんなエロエロな姿を!?”と安堵と驚愕、そこはかとない背徳感をもプレイヤーにもたらす次女ルートは人気が高い。制作者はエロゲーマーの心理をよくわかっている。
だが現実のマリが脅かされているのは呪いだ。呪いと見破ったツキハでさえ、異形を死に至らしめる呪物も解呪も見当がつかない。
「そんな。俺は、どうしたら……」
エイイチは目線を地に落とした。身を置く場所がホラーゲームの世界なのか違うのか判別できないまま、期せずしてアダルトゲームのシナリオとほぼ同様のレールに乗っかってしまったのだった。
◇◇◇
アヤメは真新しいシーツを抱えて、マリの私室で立ち尽くしていた。ベッドは真っ赤に染まったシーツと、散乱する使用済みティッシュペーパーの山。
「イ、イカれている……!」
無論エイイチのことだ。
ここでエイイチとマリが何をヤッていたかはひとまず置いておく。置いておくが、そもそもエイイチは言っていたはずだ。自らを“ただの雇われだ”と。仮にも雇われを自称するならば、雇用先の令嬢との秘め事など隠すべきである。
住み込みメイドへ見せつけるように事後処理させる魂胆、普通ではない。
あまつさえ“ツキハに報告しろ”とまで言ってのけたのだ。アヤメが願うまでもなく、エイイチはとっくに狂人だった。
「とにかく、片付けなくては」
屈み、シーツを剥ぎ取ろうとして、アヤメは動きを止める。
「……ふぅむ……こんなに、出るものなのでしょうか」
出血量はかなりのものだ。いったいどのような激しい行為が繰り広げられたのか。それともこの程度、一般的な範疇なのだろうか。アヤメにはわからない。
たしかエイイチはこうも言っていた。“アヤメさんなら詳しいだろうし”と。
アヤメは詳しい。
顔が火を噴く心境で、アヤメは少し腹立たしくもあった。普段エイイチから、どんな風に見られているというのだ。
けれどアヤメはふと、立ち上がる。
エイイチの記憶を取り戻すため、現在の狼戻館はアダルトゲームさながらの舞台を整えている最中。当初は、自らがモデルのゲームキャラクターを巨乳にされた意味すら理解できなかったアヤメだ。
要するにこれは、試されているのだろう。アダルトゲームに必要な人材か否か。ヒロインのひとりとして、はたしてアヤメは相応しいのか試されている。誰に? 世界に。
「フ。受けて立ちましょう」
知識不足を露呈するわけにはいかない。エイイチやツキハの期待に応え、目にものを見せてやらなければならない。狼戻館のメイドは、闘争も色恋も鮮やかにこなすパーフェクト。
颯爽とアヤメは自室に向かうと、すぐにまたマリの私室へ戻ってくる。不足を補うのは情報と分析だ。努力は人知れずこつこつと積み重ねてこそ。
最近入手したミラーレスカメラを取り出し、アヤメは様々な角度から事後のベッドを写真に収めるのだった。




