彼らのいない日々(2) 女神
「ここ……さっきも来た」
「うそっ?」
女神の塔──ラナリア北東部にそれはあった。
誰の手による建造物なのかは定かでなく、未だに多くの謎を残す。信用に足る歴史書だけを参照しても、少なくとも千年以上は経過しているはずだが、倒壊の恐れがあるどころか、綻びさえ見当たらない不思議な塔である。
その頂には女神が住むと言われ、希少な秘宝も数多く眠るという。だから古来より、信心深い者や腕自慢の冒険者、盗賊の類に至るまで──その神秘は人を惹き付けてやまない。
しかし先に進むためには、各層ごとに展開される数々の難題をクリアする必要があった。それは来る者を〈拒む〉のではなく〈試す〉と解釈されたことから、いつしか〈試練の塔〉という異名で呼ばれるようになる。
だがそれに挑み、実際に命を落とす者は後を断たなかった。力量を試すだけの場としては、あまりに危険なその神秘。
現在は観光地としてその外観を眺めることだけが許され、国の管理のもと厳しく立ち入りが制限されている。
「おかしいわね……マップでは確かにこっちだと」
「ジュリア、それ逆さま」
「──あれ?」
リーダーを自任するジュリアのもと、リゼットとルウ、15歳になる同い年の少女たちによるパーティー。彼女たちは目下、その難関に挑戦中なのである。
セリムの、もうひとつの名であるマリオス──今やラナリアにとって英雄たるそれを出した効果は抜群だった。彼女たちは、すんなりと中へ入ることを許されたのだ。
その功績は、実際にはソーマたちの活躍によるところが大きいものの、それに先んじて、主たるマリオスの名はもはや知らぬ者がいないほど有名になった。近くパルマ家から没収した領地を拝領し、爵位が与えられるという噂まである。
さらに彼は大公とも懇意であるから、「命じられた調査のため」などと言われれば、下っ端の兵士にそれを止めることなどできるはずもない。
尤も、そんな命令は出ていなかった。
「もう……帰ろうよ。だんだん暗くなってきたし」
リゼットが小さく震えながら言った。近くに窓はないから、陽が落ちるのを指したわけではない。
どんな原理なのか、そこは灯りや松明なしでも視界は明るく確保されていた。だが確かに、少しずつではあるが、それが暗くなってきているように感じる。
「まずいわね。タイムリミットでもあるのかしら」
焦ったようにジュリアがあたりを見回す。と言っても、前も後ろも、右も左も、どこも同じような造りにしか見えない。
彼女たちは今、迷路の中で立ち往生しているのだ。
外から見れば、天に届くほど高く聳えるそれだが、実際には5つの階層から成るらしい。
〈らしい〉というのは、実際にそれを確認した者が殆どいないためだ。この塔を制覇した者は、文献によると過去に2人しかいない。
1人目はエヴァルト・ローゼンハイン。歴史上初めてこのアースガルド大陸を統一した、偉大なる〈始まりの皇帝〉である。
およそ千年前、彼が統一事業を成し遂げたその年が、現在使われている暦の紀元とされている。
もう1人は、ソーマたちの登場を予言した男──〈約束の書〉を記したことで知られる、ユリウス・キルシュタイン。約400年ほど前に活躍した人物で、この塔に関する現代知識のほぼすべてが、彼の残した著書〈女神の謎〉から得られたものだ。
まず1階。そこには空想上の生き物とされるゴブリンやコボルトなどが現れ、彼女たちの行く手を塞ぐ。恐らくは建造主の仕掛けた魔法のひとつだろう。
だが戦闘ならお手のもの。既にそれと知っていたから別段驚くこともなく、ジュリアとルウによってあっさりと突破できた。
次に2階。重い扉が幾重にもあるだけの簡単な構造。しかし力ずくでそれを開けることは叶わず、清らかな心だけがそれを可能にするとされている。具体的な条件は一切不明で、大抵の者はここで脱落するのだ。
だがそこも、リゼットが手をかければすんなりと通れた。彼女以外にそれはできなかったから、暫くジュリアの小言が続くことになったのだが。
そして3階。彼女たちが今いるのがそこである。
ユリウスによれば、1階では勇気、2階では慈愛、そしてそこでは知恵が試されるとのこと。実際にはびっしりと迷路で埋め尽くされたフロアで、彼女たちはそれに行く手を阻まれているのだ。
「ハルトさえいれば……」
言いかけた口をはっと噤むジュリア。そしてぶんぶんと首を横に振り、まったく逆のことを言葉にする。
「あたしたちだけでも大丈夫!」
ハルトが「レベルアップのために」と旅立ちを表明した時、彼女はそれについて行こうとして──断られた。勿論、力をつけたいのは彼女も同じだが、ハルトは「僕の目的地じゃそれには合わない」の一点張り。
マティアスを追い出したことで、ますます彼に興味を持った彼女。しかし結局、それは許されなかった。
要するに彼女は拗ねているのだ。
「あたしたちだけでこの塔を制覇して、ハルトを見返してやるのよ!」
それこそが、彼女がリゼットとルウを誘ってこの塔の攻略に挑んだ理由であった。しかし、意気込みだけではここは突破できそうにない。
「私、ソーマに会いたい」
あまりに唐突に、何の脈絡もなく──ルウがぼそりとこぼす。
ジュリアとリゼットは唖然として、黒髪の少女を見つめた。ジュリアがハルトのことを口にしたから、そこからの連想かもしれない。
「──どうして?」
「好きだから」
さらに彼女たちは固まった。ルウはあっさりとそう告白したのである。
「ソーマは私を助けてくれた。かっこよかった」
ルウには対面や体裁、恥じらいなどというものが無いのだろうか。まったく表情さえ変えずにそう言い切った。
「陰謀を見抜いて、レベッカを助け出したのはハルトでしょ?」
何となくムキになってジュリアが言う。さらにリゼットが言葉を被せた。
「それを言うならダイキさんだって。レベッカを抱えて教会に連れて行ってくれたのはあの人だし」
「うん。だからハルトも、ダイキも好き。でも一番はソーマ」
ルウは少し嬉しそうに──笑った。
次第に彼らに溶け込んではきたものの、まだまだぎこちなさが残っていたルウ。その彼女がそれを口にしたとき、確かに感情を表に出したのである。
暫し言葉を失う彼女たち。何かを言うべきか、それとも言わない方がいいのか。自分自身の感情も混ざってうまく整理ができない。
「あっちに行ってみる」
しかしルウは、いたってペースを崩すことなく、スタスタとひとりで行ってしまった。
ジュリアとリゼットは一瞬、顔を見合わせ──そして慌ててその後を追う。
「ちょ、待って! はぐれたら困るでしょ」
「あれ? 行き止まり──」
通路をひとつ折れたそこは袋小路。言われずともルウはそこで止まっていた。
おかしい──彼女らはすぐに異変に気付く。リゼットの案で小まめにマッピングしながら探索していたその先は、確かに二又に分かれる道に繋がっていたはずであった。
「どこかで間違えたのかな?」
手詰まりのジュリア。脳裏に再び、爽やかな微笑を湛える金髪の東洋人が浮かぶ。「そりゃそうさ。だってこれは……」と、イメージ上の彼は得意気に語り出すが、その先は教えてくれない。
「もう──何よこの本。肝心なことは何も書いてないじゃない!」
彼女は苛立ちをユリウスの著書にぶつけた。
〈女神の謎〉は、殆どが女神についての考察であり、この塔自体について触れられている箇所は少なかった。
尤もこれを〈試練〉だとするなら、その答えを大賢者とも呼ばれる彼が本に著すはずも無い。
それでも、せめてヒントが載っていないかと──哀れにも放り投げられたそれをリゼットが拾い、ペラペラとページをめくる。
「1階と2階は矛盾する──よく分からないけど、ここはもういいよね。3階についての記述は──あった、これだ」
そしてその部分を読み上げた。
「迷うから迷路。迷わざるは通路。……これだけ?」
さすがにジュリアのように投げ捨てるような真似はしなかったが、彼女の気持ちが分からなくはないリゼットである。
「ダイキさんならこんな壁──」
彼女が思わず乱暴なことを口走ったそのとき、ルウが既にそれを実行していた。
右手の朧月夜、左手の星月夜。微動だにしないと見るや、少し下がって〈血に染まる十字架〉。
しかしそれは弾かれるどころか、壁に呑み込まれるように消えてしまう。
するとあたりが一層、暗くなった。それは急に速度を上げ、みるみる視界が暗闇に染まっていく。
「やだ……どうしよう」
「ルウが攻撃したから、女神が怒ったんじゃないの?」
ジュリアは不安になる気持ちを誤魔化すために軽口を叩き、その手でポケットを探ると、その固い感触を何度も確かめる。
それは念のため用意していた松明代わりの〈仄光〉と、緊急時に使う〈離脱〉の魔石。
しかし──魔法を発動する前にそれは現れた。
壁であったはずの前方。その遥か向こう側で闇に浮き上がる、白くぼんやりとした女性の影。
「きゃあああっ!」
一番に叫んだのは──ジュリアだ。
彼女は思わずリゼットの後ろに隠れた。だがリゼットもそれに続いて悲鳴を上げ、さらにその後ろに回り込む。
きゃあきゃあ言い合いながら、背後の壁まで下がった2人は、腰が抜けたのか揃ってへたり込んでしまった。
「お願い……〈彼〉を止めて……」
〈彼女〉は言った。
「誰……?」
ひとり平然としていたルウが簡潔に訊く。それが指しているのは〈彼女〉なのか〈彼〉なのかは分からない。
「絶対に犯してはならない過ちを……禁忌を……〈彼〉はやろうとしています。だからお願い……そうなる前に、止めてください……あの人を」
それきり、ふっと〈彼女〉は消えてしまった。
それと同時に周囲は明るさを取り戻す。それでもジュリアとリゼットは、ガタガタと震えていた。
「誰だか教えてくれないと、止めれない──ね?」
「ね?」のところで振り向いたルウに、ジュリアがまくしたてる。
「そそそ、それ以前に! 誰よ! 今の!」
目の前は、暗くなる前と同じく、ただの壁だった。
「そっか。それも聞いてない」
少しだけ上を向いて考えるルウ。恐怖で言葉にもならないリゼット。ジュリアは──迷うことなく魔石を使った。
無論、〈離脱〉だ。
一瞬で塔の外へと避難した彼女たち。
「おや、貴女たち。無事で何よりです」
その光景が珍しくないのか、たまたま近くにいた塔の守備兵が、驚きもせず話しかけた。
外の空気。自然な光。何気ない会話。
漸く落ち着きを取り戻したジュリアは、近くに身に覚えのない物が落ちていることに気付いた。
質素だがとても美しい鞘に収まった、ひと振りの剣。恐らく両手持ち仕様である。
そして、瑠璃色に煌めく水晶が、その先端を神秘的に飾るロッド。
最後に──片手の中に収まるくらいに小さい人形。黒髪で、一応人の形をしているが、性別さえ不明──まるで子どもが見様見真似で作った手芸作品のようだ。
「これで『彼を止めろ』ってことだね、きっと」
ひとり納得しているルウ。確かに3人に対して物は3点。魔法で一緒に運ばれて来た物だろう。だとすれば──。
「女神の塔のお宝! じゃあさっきのは──まさか女神!」
突然テンションが上がるジュリア。
「やった、やったわ! 誰にも取れなかった秘宝を、あたしたちが手に入れたのよ」
「試練は全部クリアしてないけど……」
リゼットが困ったように呟くが、もうジュリアは聞いていない。飛び上がらんばかりの浮かれようである。
しかし急に、彼女は押し黙る。アイテムは3つ。そのうちロッドを当然のようにリゼットが掴む。
残るは、名だたる剣士でも手にしたことがないような業物の剣と、見窄らしい人形のみ。
ジュリアも、そしてルウも得意とする武器は剣である。どちらがどちらを取るか──彼女はそれとなくルウの様子を窺う。
「これがいい」
ルウは迷わず〈人形〉を選んだ。
「可愛い。欲しい。ダメ?」
ジュリアは肩透かしを喰らったように力が抜ける。
「ダメじゃない。ぜーんぜん、ダメじゃない。いいよ、じゃあルウが人形ね。じゃああたしはこの剣!」
そうして、まったく揉めることなく、この冒険の成果物を手に入れた彼女たち。
これが思わぬパワーアップに繋がるのだが、それはもう少し先の話。
そして何より、彼女たちの行動がとても重要な意味を持っていたことが判明するのだが、それはもっと先の話。




