かたち
「あいつはどこだ?」
社長が呟いた声に乃愛が弾かれたように顔を上げた。
そう。私の姿を瘴気の外に探したのだろう。
「久恩さんのところまで来れなかったのかもしれませんね」
乃愛が不安を隠せない声で呟く。
社長は何も答えなかったと乃愛が言っていた。
しゃりん。
また、鈴の音が響く。
社長が隻眼をすっと細める。
「居た」
社長が小さく呟いた。
乃愛が不思議そうに首を捻る。乃愛には私の姿を見つけることが出来なかったのだ。
社長が瘴気の渦に近づいていく。刀を抜き放ったまま。
「……社長?」
乃愛が声を震わしながら聞く。
社長は見向きもしない。
少しずつ収まりつつある瘴気の渦に向かって刀を下段で構える。
そのまま、切っ先を斜め上に走らせ、瘴気の渦を切り裂いた。
「きゃあっ!」
ごうっと社長の妖力が爆発して、乃愛は煽られた。
乃愛は咄嗟に久恩の上に覆いかぶさり、強風をやり過ごすように社長の妖力が通り過ぎていくのを待った。
どろどろと部屋に溜まっていた“穢れ”た空気が霧散していく。
痛さはもう感じなくなっていた。
元の肌が分からないぐらい紫に染まってしまった私の腕と、小雪の腕。
だけど、新たに“穢れる”ことはなかった。どうやったら清められるんだろう、とかどうでもいい思考が脳をゆっくり通り過ぎていく。
「助かりそうにないわね……」
泣き止んだ小雪がゆっくり呟いた。
あの憎々し気な表情ではなく、紫色に染まってはいるが綺麗な顔で少し寂しそうな表情で笑っていた。
「うん」
私は小さく呟いた。
この先のことなど考えられなかった。
不思議な感じで、もう、意識はゆっくり沈んで行きそうだ、と思った。
――キン。
聞きなれない音を感じた。
小雪が驚いた表情で私の腕を強く引いた。
何が起きたのか分からず、私はただ引かれるままに、バランスを崩し、小雪の腕の中に飛び込む形になった。
新鮮な空気が一気に流れ込んでくるのが分かった。
水を得た魚のように、私は息を吸い込む。
穢れの渦があっという間に消え去っていくのが分かった。
「よう」
聞きなれた低い声が聞こえて、死ぬほど安心した。
知らず知らず目じりに涙がたまった。
社長に怒られるかもしれない、という感情や、とりあえず助かったのだ、という安堵が全てない交ぜになった。
縋りつこうと伸ばした手は紫色に染まっていて。
“穢れ”が移ると思って、手を引っ込めた。
「気にすんな、今更だ」
社長がそう言って、私の手を引っ張った。
小雪の腕が私から離れていく。
「あんたは……久恩の……」
小雪がぽつりと呟いた。
「ああ、うちの者が随分と世話になったみてぇだなぁ」
社長がいつもより数段低い声で言った。
その段階になって私は状況を確認したのだ。
久恩がぐったりっしていて、それに付き添うように乃愛がいる。
私を抱えている社長と、対峙している小雪。
そして、社長が恐ろしく怒っているということも今更になって理解したのだ。
「買われた喧嘩を俺ァ、買うぜ?」
社長が低い声で言った。
小雪は何も言わずに立ち上がった。
“穢れ”を消す方法は二つ。
一つは眠ること。清めの水や神聖な場所で眠り続けること。
もう一つは穢れの元になった“闇堕ち”している者を消すこと。
社長と小雪が向かい合った。
ハッとなって暴れだした私を後ろへ押しやって社長は刀をだらん、と構えた。
「ずっとシロの傍に居たかっただけなのに、どうして上手くできなかったんだろうね?」
小雪が問う。
社長が隻眼を少し細めて口を開く。
「そんなん、失ってからじゃねぇと気づけなかっただけの話だろ。お前さんも不器用だっただけだ」
社長が刀を振り上げる。
私は咄嗟に飛び込んでいた。
パリン、と何かが割れる音が聞こえて。
社長の刀を受け止めたのはシロがくれたお面だった。
緑色の隻眼がわずかに見開かれた。
私もまた、目を見開いた。
いや、その場に居た全員が目を見開いて、一か所を見つめていた。
「もっと早く、こうしておけば良かった。ねえ、小雪。僕は小雪のことが大好きだったんだよ」
そう言って笑うシロが居た。
ちりん。
と割れた鈴が音を立てたのを今でもはっきり覚えている。
ここは妖の世界、妖界。
人間界の世界ではありえないことが起こる。
死んだ者が強い想いで形を得ることがあるそうだ。
シロが社長の刀を身代わりに受けていた。
そして、シロが小雪に触れるだけのキスを落とした。
それだけで、“穢れ”が消えていった。
「だったって何よ……今更、なんなのよ……」
小雪の頬に涙が零れ落ちていく。
社長が目を細める。涙を見て、刀を収めたように見えた。
シロがゆっくり淡くなっていく。
このまま消えるのだ、と私も小雪もその場にいた皆も理解できたと思う。
「小雪、曲がらないでまっすぐ生きてほしい、ねえ、お願いだよ」
懇願するようにシロが言う。
小雪が目から涙を零しながら、消えかけたシロの手に縋る。
心の奥が痛くて仕方がない。
消えていくシロを見ながら、私はただ涙をこらえることしかできなかった。




