闇堕ちした二尾
「小雪、もういいんだよ」
私の傍にいたシロが動き始める。
小雪の方へとよたよたと頼りない足つきで近づいていく。
「もう、僕を崇拝し続けなくていい。僕を開放していい。僕を忘れてくれていい。いいんだよ、藤白。いいんだ、頑張らなくて……」
シロのお面と顎の隙間から、透明な雫が落ちていくのが見えた。
涙は床を通り越して、落ちていく。
「小雪は十分頑張ったんだよ」
そう言って、シロは小雪を抱きしめようとする。
だけど、その腕は、その言葉は小雪に触れることはない。全ての物理も心も通り越して、シロの手は何も掴むことは出来ない。
小雪は二尾の姿で、体を一つ震わせた。
そして、目の前の久恩に襲い掛かる。
「久恩さんっ!」
叫んだ私の目の前で。
縛られて抵抗することもできない久恩は弾みをつけて部屋の向こう側へと転がっていく。
小雪はそれでも止まらない。動かない久恩に対して、続けざまに攻撃を仕掛けていく。
すごい音がして、久恩が壁を突き破り、私といる場所とは対角線側の部屋へと転がされていく。
「……小雪?」
シロが呆然とした様子で座り込む。
今にも、解けて消えてしまいそうだった。
何をやっているんだ私は――、畏怖して動かない自分の足を叱咤する。私は何のためにここに来たんだ。社長の言いつけまで破って。
何をしていいかは分からなかった。
だけど、たった一つ、こんがらがった私の頭でも分かることがあった。
私はここでこの状況を傍観するために来たわけじゃないぞ、と。
「シロさん、私、行きます。きっと、久恩も小雪も助けて見せますから」
どうやったら助けられるかなんて分からない。皆目見当もつかない。
だけど、この気持ちだけは嘘ではない。
「本当、かい……?」
掠れた声はしっかりと私の耳に届いた。
大きく頷く。
体の震えは止まらないが。逃げたいという気持ちがあることに変わりはないが。
同じくらい、いや、それ以上に前に進まなければという気持ちがある。
シロが私の態度を見て、お面を外した。
そして、私の方へ向かって差し出してくる。
「僕も一緒に連れて行ってくれ。妖格化すれば、君はこれに触れることができるはずだから」
シロに言われて、私は妖格化した。
自分の意志ではできなかったこと。でも、今なら、できること。
私は一歩踏み出して、シロからお面を預かった。
私の手に渡ったお面。
シロの姿がさらに薄く透けるようになった。
私はお面を顔の左側に結んだ。赤い紐でしっかりと。
「行くよ」
私が言えば、シロが頷いたのが見えた。
どうしてこうなってしまったのか。
全て私が勝手に動いたからだと思う。
だけど、こんな私にもまだできることがあるのならば、と。
罪悪感だけで進んでいた。
そんなものが原動力じゃ、誰一人救えやしない。一緒に共倒れになるだけなのに。
そんな私にも、確かにその時は光が見えていた気がしたんだ。
二尾の姿のままの小雪が振り上げた前足が久恩に直撃しようとしていた。
すんでのところで私は久恩を抱きかかえ、攻撃を回避した。
狐の面についていたのか、しゃりん、と鈴が鳴り響く。
真っ赤な小雪の目が見開かれたように思われた。
「おか、しら……?」
ぐったりしている久恩が薄目を開けてボソッと呟いた。
ああ、そうか。私はすとん、と心に何かが落ちたような気がした。これは間違いなくシロの音なのだ、と。
シロが生前から付けていたものなのだ、と。
大義名分のもと、作った百鬼夜行。それをどうすることもできなくて。だからと言って捨てられず。だから、その場に居続けながらも顔を隠すことを選んだ。
本当の自分を隠すために。
私の笑顔と一緒で。その仮面を被っているのが安心だった。
たったそれだけ。
「何故……」
妖格化したことで低くなった小雪の声が聞こえる。
私はハッとして小雪の方向を見た。
「何故、お前がお頭の真似をしてるっ!?」
その言葉と共に、小雪が突っ込んでくる。
私は咄嗟に後方へ跳んだ。
妖格化しているせいか、体の制御や力加減が難しい。少し下がるつもりで地面をけったのだが、かなり後方へ下がってしまったようだった。
しゃりん、とまた音が響く。
悲しくなるぐらい澄んだ音で。
「ふさげるなっ!」
小雪がそう言いたくなる気持ちも分かる。
だからこそ、私はこの状況をどうにかしなければならない。
シロに小雪を止めると約束した。
久恩を助けるのだと決意して飛び込んできた。
――、でも、何をどうするんだい?
不意に人を馬鹿にしたような声が耳元で囁いた。
久恩を取り落としかけ、慌てて部屋の隅に寝かす。
その間も、冷や汗が止まらない。
『――ねえねえ、そこは楽しいかい? いや、楽しくなんかないよね? 皆、君のことを忘れてさ、楽しくやっている。憎くないかい? 憎いよね』
以前、私に声をかけてきた声。いや、私に笑いかけてきた声。
甘美な言葉。戸惑う言葉。
その二つで、人を揺り動かす何かの声。
私が怨霊になろうとしていた時もそうやって声をかけて“闇堕ち”へと私を誘った声。
もしかして。
私が顔を上げた時には。
すでに遅く。
小雪の姿は徐々に闇に飲まれつつあった。
「駄目っ!!」
叫んで、私は後先考えず走り出していた。闇の中へと飲まれていく小雪をめがけて。
「待つんだ!」
遥か後ろのほうでシロの声が聞こえた気がした。




