人間界
社長は乃愛を連れて人間界に降り立った。
秋の乾いた風が木の葉を載せて通り過ぎていく。
誰もが他人になど、目もくれずスタスタと通り過ぎていく。
「社長、どちらへ?」
乃愛が不安げに聞く。
社長はそんな乃愛の頭を優しく撫でて、笑った。
「怖がるこたぁねぇよ。ただの学校だ」
社長の笑顔に乃愛はこくり、と頷いて歩き始めた。
乃愛は人間界が嫌いらしい。
私よりずっと長生きしていて、人間が嫌いになったらしい。それと同時に恐ろしいと感じるのだ、と笑って言っていた。
何があったのかは聞けなかった。
だから、乃愛にとって今回の事件は散々な事件だったと言えるだろう。私は勝手に逃げ出しちゃうし、人間界には降りなければならなかったし、私はだいぶ恨まれそうだ。
いや、嫌われるに決まっている。
乃愛は社長の後をついていく。
社長が行った先は私が人間だったころ通っていた学校。
そこに、社長の協力者がいる。
「社長、こんなに頻繁に人間界に降りてきちゃって大丈夫なんですか? この間の事件の時も……」
乃愛の言葉に社長はあのくすり、と笑った。
妖界の人間は人間界に手を出してはいけないという暗黙の掟があるのだ。
「本当は駄目だぜ? だが、方法がねぇなら仕方ねぇだろ」
社長の言葉に乃愛は黙るしかない。
「まあ、気が引けんのは分かるし、そっちの方が正しい」
社長が煙管を懐から取り出しつつ、呟く。
乃愛に見つめられても、社長は前を向いたまま、歩みを進めていったらしい。
「その感覚は忘れちゃならねぇ」
分かったな、と社長は乃愛に言った。口調は優しく、それでいて芯があったという。
乃愛がこくり、と頷くと、社長は再び淡く笑った。そして、煙管に火をつけた。
人と人の波を抜けて、社長は学校へやってきた。
乃愛は学校を見上げた。
「なんだか、変な感じですね。美姫がここで育ったんだなってあんまり思えません」
乃愛は社長に向かって確かにそう言ったのだという。
私にはどういう意味なのか分からない。良い意味で言われたのか、悪い意味で言われたのか。できればいいほうであってくれとは思うが、そんなことを願う権利は私にはないのだろう。
「行くぞ」
社長は乃愛のつぶやきには触れず、歩きだした。
授業中の人間など意にも介さず、物理超えてまっすぐ屋上へと歩いていく。
そこには、靄が浮かんでいる。黒い靄はふよふよ浮いている。
しかし、靄は社長がやってきたことに気が付くと、社長の方向へ突進してくる。
「毎度毎度、飽きねぇな。お前さんも」
社長はポツリと呟いて、靄に向かって息を吹きかけた。煙管の煙をいっぱいに含んだ息を。
紫煙が靄をとらえる。
「悪いが急いでるんだ」
社長が言えば、靄が姿を変え始めた。
乃愛が怯えている目の前で、靄は少しずつ人型を形成してゆく。
全ての靄が消えたとき、美人なお姉さんが立っていた。
私も一度だけあったことがある。きれいな茶色の髪と一昔前の女性の制服。少しだけ釣り目の目もきりっとした表情を作り出していると思う。
「何だい、久しぶりだってのに、雑な対応じゃん」
ふてくされたように、その女性は頬を膨らませた。
「えっと、あの……どちら様ですか?」
ぽつり、と乃愛が言葉を漏らした。何度も瞬きしながら、乃愛と女性はしばらくの間、見つめあってしまったという。
しばらく時間が流れた。
「え?」
女性の方が言葉を漏らした。
そのまま、ジリジリと乃愛に近づいていく。
「何、めっちゃ可愛い! 好みなんだけど!」
女性――、夢月さんは久恩が言った時とは別の反応を見せたのだと、聞いた。
まさしく、面倒くさがられている姉が妹を構い倒すような動きだったと教えてくれた。
「離れろ」
「いつもの久恩よりずっといいじゃない! ここに来るときはこの子連れてきてよ!」
女性は社長の言葉をガン無視で騒ぎ続けたという。
「私は夢月! 貴方は?」
「ひ、ひぇぇえぇえ」
ガンガン押し込んでくる夢月。
対して、乃愛は返事ができないまま振り回されたらしい。
「その辺にしろって言ってんだろうが」
社長の拳骨が炸裂したという。




