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泡沫  作者: 若葉 美咲
2.過去からの復讐者
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知らぬ存ぜぬ


 廊下に出ると冷えた空気が頬を撫でていくのを感じた。

 社長が食堂を出て直ぐ後を追ったつもりだったのだが、気が付けば廊下のはるか向こうだった。かろうじて社長の背中が見える。

 入ったばっかりの私がこんな大胆な行動をしていていいのか、不安はあった。

 だけど、ここは妖界。人間の世界ほど上下関係を気にしていない。だからこそ、勇気をもって踏み出すことは悪いことではないはずだ。

 自分で自分に言い聞かせながら私はどんどん廊下を進んだ。

 足元ばかり気にしていたからだろうか。

 私は廊下の曲がり角で、どん、と誰かの背中にぶつかった。

「だから、俯くなって言ってんだろ?」

 誰かを確認するよりも早く、社長の声が上から降ってきた。

「ゆっくり進んでやるから、走るな。転ぶぞ」

 社長が喉奥でクツクツと笑う。

 私の行動などとっくに気が付かれていたのか、と恥ずかしくなる。

 それと同時に社長の気遣いが嬉しくて、頬が緩みかける。

 だけど、久恩のことを心配してついてきたのだ、と緩みかけた気持ちを引き締めた。

「安心しろ。久恩なら、少し休みゃ、良くなる」

 社長の声が穏やかだったから。

 ああ、それだけの信頼が久恩にはあるのだ、と気が付いた。

「そう、ですか」

「ああ」

 私の言葉にいつもの調子で返事をしてくれる。

 久恩を抱えている右腕を見上げる。久恩の頭の上に座っている三角のお耳はぺたん、となっていて、とても大丈夫には見えない。

 だけど、社長が大丈夫だと言ったのだ。信じるしかない。

 特に会話もなく進んでいく。

 久恩の部屋にたどり着く。

 社長は片手が塞がっていたので、私が障子を開けた。

 部屋の中は久恩の性格らしく、きちんと片付けられていて、美しい。見たことのない小物などが部屋を色とりどりに飾っている

「ほらよ」

 奥に綺麗に敷いてあった布団に寝かした後、慣れた手つきで水を差しだした社長。

 この部屋に慣れているような動きに私はただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。

 何だか、申し訳ない気がした。私がここにいてはいけないような。

 熟練の夫婦の間に潜り込んでしまった他人のような気分と書けば伝わるのだろうか。とにかく、私はその場にいることがものすごく悪いことな気がしてきた。

「えっと、私……、もう、行きますね」

 なんとかそれだけを言葉にして、外に出ようとした。

「まあ、待て」

 部屋を出ていこうとする私を社長が呼び止めた。

 正直、気分は良いものではない。だが、他でもない社長から声をかけてきてくれたのだ。止まらない訳にはいかない。

「……なんでしょう?」

 自分の気持ちが声に出ないように気を付けながら声を押し出した。

 何も知らないであろう社長。

 余裕の無さそうな久恩。

 そして、私。

 ただ、黙って社長の瞳を見つめ返す。

 少しの時間がとてつもなく長く感じた。

「座れ」

 社長が短く私に言う。そして、顎でくいっと座布団を示した。

 私はだんだん不安になってきた。何かをやらかしてしまったのではないだろうか、と。私は『相談屋』の面子から見ればまだまだ新参者。やはり、こういう時に軽率に動くことはいけないことだったのではないだろうか、と。

 直ぐにその場を逃げ出したい気分になった。

 もちろん、社長の言うことに背くことなど出来はしなったが。

 言われるがままに座布団の上に腰を下ろし、正面から社長を見据えたのだった。

「こっちの生活にゃ、慣れたか?」

 社長が煙管を取り出しながら、私に向かって言ってくる。

 身構えていた叱責ではなかったので肩透かしを食らったような気分になり、少しばかり呆けてしまった。

 煙管から紫の煙が立ち上って消えていく。

「あ、えっと……まだまだ、ですが、少しは……」

 お茶を濁すような返答をしてしまう。

 すると、社長はくすくすと笑うのだ。

 社長の考えが分からず、私はただ、困惑するばかり。

「……お前様、聞いておいて笑うなど失礼じゃ」

 くたびれた声が部屋に響いた。

 久恩の声だ。布団を見れば見慣れた童姿の銀髪猫耳の妖がぐったりと横たわっている。

 まだ、あまり元気そうではない。

 聞きたいことは山ほどあるが、すべて飲み込むことにした。今、疲れさせてしまってはいけないような気がしたのだ。

「ああ、すまねぇな。何、悪気はねぇ」

 ひらりと右手を躍らせて社長が言う。それでも、どこか楽しそうな雰囲気は消えない。

「あんまりにも身構えてるもんだからつい、な」

 付け足されて、私の緊張など社長にすべてお見通しだったのか、と恥ずかしくなる。

 それと同時に社長の凄さを再認識するのだ。

 これだけ多くの社員が社長についていくのは、それだけこの人が素晴らしいということ。私など、足元にも及ぶまい。

「慣れたんなら丁度いい。少しばかり勉強会を開いてやらぁ」

 社長が左手に持った煙管を私の方へと向けてくる。

「……勉強会?」

 私が首を捻れば、社長がニッと口端を持ち上げた。

 久恩の方が小さく揺れたのが私の目にも見えたのだった。

 月の光が久恩の部屋い差し込んでくる。

 小さな小瓶やガラス細工が光を受けてキラキラと室内を幻想的に照らし出している。

 社長が燻らせる煙管の香り。

 全てが相まって私は妙な空間に迷い込んでしまったような気分になった。

 いや、実際、妙な響きだった。

 ここは天下の妖界。そこで何を学べと言うのか。

「全く分かってねぇな。まあ、それも仕方ねぇことか」

 社長が零す。

 私のせいで手を煩わせているようで酷く申し訳ない気分になる。視線が自然と下になりかけた。

 すると、頭をがっしりと社長に掴まれるのだ。

「お前は何度言やぁ分かるんだ? 俯くな。知らねぇことがあるのは当たり前だ。当然だ。生きてる限り、すべてが学びだ。落ち込んでるんじゃねぇ」

 真っ直ぐな言葉が胸に刺さる。

 同時に私の目の奥がぐっと熱くなった。

 言葉に心が温まったというのもある。だが、痛いのだ。握力が強いのだ。このままでは頭が握りつぶされる。

 社長の手がようやく離れていった。

 先ほどまでとは違い、些か不機嫌になっている気がする。

「ったく、それじゃ、始めんぞ」

 社長が煙管から灰を灰入れに落とし込む。

 何が始まるのか。全く予想がつかない私は背筋を伸ばして前を向いた。

 せめて、俯かないように、と。

「こっちの新聞は読んだことあるか?」

 問われて私は目を瞑る。

 人間界の新聞は毎日欠かさず読んでいた記憶がある。しかし、妖界に来てから新聞を読んだことがあっただろうか。

 何度か、目にしたことはある。

「読んではいません」

 本当は読むべきなのだろうけれど、忙しくて読めていない。

 それに妖界独特の言い回しや文字が読めない時がある。基本は日本語で書かれているのに、唐突に読めない言葉が出てくると萎えるというものだ。

 私の返事を聞くと社長が苦笑した。

「まあ、当然か。じゃあ、妖界の事情は何も知らねぇんだな」

 確認するように聞かれた問いに首を縦に振る。

 久恩が起き上がり、社長と顔を見合わせた。

「それはいけないぞ、お主。仮にも『相談屋』という組織に属しているのだ。何も知りませんでした、では通るまい」

 いつものように凛とした口調で久恩が言った。

 具合が悪かったはずなのに、と呆然とする余地もない。

「それでは、妾が説明するとしようかの」

 久恩が背筋を伸ばしながら、私に向き直ってそう言った。


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