食堂にて
事件はいつから始まっていたのだろう。
今考えても、その答えは分からない。
もしかしたら、私が妖界に来るずっと前から緩やかに始まっていたのかもしれない。真綿で首を絞めるように――。
また、夜が来た。
いつもなら仕事を終えた社員たちが息をついて、盛り上がる夕食。
食卓はいつも通り、美味しそうだ。こんがり焼けた魚、飴色の煮物、食欲を誘う香りを出しているお味噌汁とつやつやの白いご飯。皆が大喜びするはずの和食メニュー。
だけど。
昨日の火事のせいか。
それとも、――私は視線を滑らした。
いつもなら空いているはずのテーブルについている大勢の影。
「いただきます」
多くの視線を受けつつ、彼らは平然と食事に口をつけている。
いつもとみんなの様子が違うのは天狗警団が一緒に食事をとることになったせいだろうか。皆、口数も少なく、元気もないように見える。
社長が無口なことはいつも通りなのだが、その隣にいる久恩までもが静かなのは珍しい。こんなことを言っては失礼なのだが、普段なら小姑並みに口うるさいのに。
その煩さがなくなると変な感じがする。
一足先に食事を終えたのか、社長が箸を置く。その音が、やけに響いた気がした。
「何を恐れてやがる? 何か恐れる必要があるのか?」
社長が声を出した。
その言葉に社員が顔を見合わせた。
自分たちは恐れているのだろうか、いや、違う。そんな雰囲気が部屋を満たす。では、なんでこんなに静かにしているのか。
互いに首を傾げる。
それから、疑問の答えを探すように皆が社長の方を見た。
社長は相変わらず不敵な笑みを浮かべている。それを見ていると私はどことなく安心するのだ。
それは他の皆も同じようで。
誰かが、笑い声を漏らした。それにつられて、皆が安堵したように笑いだす。
場の雰囲気があっという間に和やかなものになるを肌で感じた。やっぱり社長は凄い方だと改めて認識しなおす。
社長を見れば、社長は煙管から紫煙を燻らしていた。いつもと何も変わらない態度で。
そんな社長に鐵が近づいていく。真剣な表情で何かを言おうとして、社長の遮られている。
「何の話をしようとしてるんだろうね?」
向かいに座って夕食を食べていた乃愛が不思議そうな表情で声をかけてくる。
だけど、私にはわからないことだ。首を振るしかない。
「そんな余裕ぶってる場合か? 現実から目をそらしてるだけだろ?」
不意に鼓膜に鐵の声が突き刺さった。
再び、食堂は静まり返った。全員が息をのんで社長と鐵を見つめている。
「ありゃ、放火だ! しかも、犯人が妖力で付けた火だ。お前は喧嘩売られたんだよ!」
分かっているのか、と鐵が社長に問う。
すごい剣幕だ。
社長は少しだけ緑の瞳で鐵を見た。そして、口に含んでいた煙を吐き出した。口元には余裕の笑みが浮かぶ。
だが、黙っていられなかったのは久恩だ。
「お主に何が分かる? そして、何故、お前様も何か言い返さぬのだ?」
悔し気な表情で久恩が食ってかかる。
童姿で、銀色の髪と尻尾を逆立てて、全身で威嚇している。
「そりゃ、見りゃ分かる報告だろ? 俺が聞きたいのはもっと他のことだ」
社長が落ち着き払った声で言う。
場の緊張度がどんどん高まっていくのを感じる。
鐵の赤い瞳がぎらりと光った。
知らず知らずのうちに背筋が伸びるのを感じる。
だけど、社長は相変わらずの態度で、鐵の動作を見守っている。
私たちが驚いた情報に対して、さも当然だと言いたげに。
そこまで考えて、私はいや、違うと思った。私も皆ほどは驚かなかった。
社長の言葉が胸の奥に刺さっていたからかもしれない。そう。社長は宣戦布告だと言ったのだ。つまり、社長が知りたがっているのは……。
そこまで考えて、私はある答えにたどり着いた。
「一体、誰が……?」
もし、喧嘩を吹っ掛けに来たとしたら。本当に宣戦布告だとしたら。
自分が何者なのかを示す何かを置いていっているのではないか。
社長はそれを知りたがっているのだ。
「ちょっと、美姫? 美姫ってば!」
乃愛に肩を揺すられて、私は我に返った。
そして、その場にいる全員の眼差しが刺さっていたことに気が付いた。驚いた私の口から妙な音が漏れた。
どうやら、静かだった部屋に私の声はよく響いたらしい。
今更になって、恥ずかしくなる。顔が熱くなるのを感じて、視線を落としかけた。
そんな私の頭に手が乗せられる。
「俯くなって言ってんだろ?」
社長の言葉が耳に届く。聞きなれた低い声。
「お前さんの言う通りだ。俺が知りてぇのは誰から喧嘩売られたかってことだ」
私の言葉を引き継いで、社長が鐵に言う。
恥ずかしいけれども、それでも社長が隣にいる。緊張するけれども、口にしてしまったのだから。
もう、逃げ場がない。
せめて、社長の恥にならないように。
私は背筋を伸ばして、鐵を正面から見据えた。
鐵の黒目がすこしばかり血走っているような気がする。気のせいかもしれないが。
だけど、意外に整っている顔立ちをしているのだ、と今更のように気が付いた。
「誰かまでは特定できてねー」
鐵が眉間に皺を寄せた。困っている顔なのだろうが、中々怖い顔だ。
「白い藤が見つかった。あの焼け野原の中で馬鹿にするように綺麗に残ってたぜ」
まったく犯人に繋がらなさそうな花。
私にも、他の人にも、思い当たる節は無いようだった。社長も分からないようで、首をかしげている。
そんな中。
何かが割れる音が響いた。
音のした方向を見れば。
久恩が立っていた。恐らく、手にしていた湯呑を落としたのだろう。粉々に砕けた湯呑が彼女の足元に散らばっていた。
「久恩様!」
近くにいた、女中達が慌てて湯呑を片付けている。
だけど、久恩はそれらの状況は頭に入っていないようだった。
ただ、呆然と鐵だけを見つめている。顔色は青白く、生気を感じられない。
「何か知ってんのか?」
事件の捜査に関わってしまったからか、責任感なのか、鐵が久恩に問う。
だけど、とてもじゃないが答えられそうな状態には見えない。なんて言って止めればいいのか。
私が言葉に詰まるよりも前に、社長が動いていた。
隣にいたはずの社長は、いつの間にか久恩の後ろに回り込んでいた。後ろから、綺麗な白い手を伸ばして、久恩の目を覆った。
「何も考えんな。息だけをしろ」
動けずにいた久恩が社長の言葉にゆっくり頷いた。
鐵がまだ言及しようと口を開こうとした。
しかし、次の瞬間。
鐵は口を閉じる羽目になった。
社長が隻眼の瞳でグッと睨みつけたのだ。部屋の温度はそれだけで氷点下を下回ったような気分になる。
「分かんだろ?」
低い低い地を這うような声で駄目押しのように社長が言葉を押し出した。
鐵が頷くのを確認して、社長は空いている左手を軽く振った。
もう、お暇する、の合図だった。
社長は童姿の久恩を軽々と左腕で抱き上げ、社長が食堂から消えていく。
食堂がざわつきだした。
それを見ながら、私は社長の背を追うことにしたのだった。




