番外編 新入社員
『相談屋』で暮らし始めて私の人生は大きく変わった。まず、何をしていても一人でいるということがほとんどない。『相談屋』には働いている人が沢山いることが分かった。
生活も生きていた時とは全然違う。
炊事や洗濯はどこか昔の日本っぽい。つまり、機械がなく手作業なのだ。それなのにケータイやテレビなんかは存在していて少し面白い。食べ物も基本和食が多いのだけれど、たまにカレーとかハンバーグとかが出てくる。料理も洗濯も掃除も当番制だから作る人によって変わる。それがまた楽しみでもある。
肝心の仕事はまだ全然慣れていない。朝食前の集会にも遅れがちだ。朝の集会では、今日しなければならない、仕事の割り振りと今日の当番の人の確認が久恩によってされる。久恩は相変わらず童の姿をしているのに、皆が一目置いているのだということが分かった。そして、社長はほとんど自ら仕事に赴かないということも分かった。
怨霊だった私を止めるために動いたのはことが重大だったからだと、乃愛に聞いた。社長は普段、仕事にもいかないし、当番からも外されているそうだ。気ままに一日を過ごすから突然、当番の人と入れ替わったりすることもあるようで、名前を含め、謎が多い人だそうだ。ただ、実力は本物でここで働いている人の多くが社長に救われたらしい。私もそのうちの一人で、社長の言葉がなかったら闇落ちしていた。社長は本当に偉大だ。
乃愛は久恩の指示で私の教育係をやってくれている。着物を着ていて、黒髪を簪一つでまとめているお姉さんのような存在だ。優しくて面倒見がいい。それに加え、美人でみんなの憧れの的。女鬼という鬼らしいのだけれど、普段は角をしまっているそうだ。社長が見た目で悩んでいた乃愛にアドバイスをくれたからそうすることにしたのだと照れながら言っていた。
少しずつ『相談屋』での生活も慣れてきている。
そんな中で新入社員歓迎会を開いてくれた。妖界に住まうものは皆、どんなことでも楽しむ。自分から楽しくしていく。長い長い時間を生きるものが多いからこそ、退屈が嫌いなのだろう。歓迎会とはどうやらお酒を大量に出してくるための口実らしかった。
普段は久恩が飲みすぎないように管理しているようで、こういう特別な時にしか大量には出せない。歓迎会であいさつもそこそこにお酒を飲み始めた。童姿のものだって実は私よりずっと長生きしている者が多いここでは、飲めないのは私を含め数人くらいしかいないようで、皆、楽しそうにしている。
会場はあっという間に酒の匂いと熱気に包まれた。香りだけで酔いそうになって主役だけれど外の空気を吸いに行った。
優しい香りを胸いっぱいに吸い込む。一息ついて空を見上げれば、満月が浮かんでいた。それは人間界で見たものと大差なくて美しかった。
「妖界に慣れねぇうちはあんまり月は見るな」
不意に声がかけられ、驚いて振り返ると社長が立っていた。月の光に照らされて、紫がかった黒髪が妖艶に見えた。緑の瞳はまっすぐに私を見ている。
それなのに何故か社長が今にも消えてしまいそうな気がした。空気に溶けるように。月光に絡めとられてしまうように。
「月は人を惑わす。いや、人だけじゃねぇ。妖も同じだ。だから、気持ちが落ち着かないときとか疲れた時は見ねぇ方がいい」
社長が月を見上げる。つられて私も月を見上げた。
美しくて綺麗な月がはるか上空で輝いている。妖界の月は本当にかぐや姫でも降りてきそうな雰囲気があった。魅了される。心が惹かれる。美しさに逆に恐怖を感じ、慌てて社長に視線を戻せば、社長はまだ月を見ていた。
「社長は、飲まないんですか? 」
社長が消えてしまいそうな気がして慌てて声をかける。私に視線を戻した社長は口端を持ち上げた。
「酔えそうにねぇからな、今日は」
隻眼が揺れるのを見た。悲しそうな深い絶望のような色が一瞬社長の目をよぎった。すぐにかき消されてしまったけど、あれは確かに社長の奥底に根を張っているものなんだと思った。
何も言えなくて、黙り込んでしまった私を見て社長は苦笑すると、大きな手で頭を撫でてくれた。優しい手だった。
社長が抱えるものが何であろうとこの人の力になりたいと心の奥底から強く思った。
その後、乃愛に見つかって何をしていたのか根掘り葉掘り聞かれたのはまた別の話。




