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泡沫  作者: 若葉 美咲
1・現代に生み出された怨霊
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逃げた先

 沢山の天狗がまず視界に飛び込んで来た。黒い羽を持った天狗たちが何やら言いながらこちらを目指そうとしている。

 瞳に込められているそれは明らかに敵意。

 排除すべき敵として認識されているのだと思うと足元が頼りなく感じられた。

 だが、そんな天狗たちを『相談屋』が抑えている。行かせまいと天狗たちと交戦しているのだ。

「お前さまっ!! 」

 聞きなれた久恩の声が私の耳を打つ。

 そこでようやく私を包み込む暖かいものに目が言った。黒に近い紺色の着物。黒の羽織。紫がかった髪は肩の所で結ばれている。白い肌は見ている目の前でどす黒い紫に変色していく。

 “穢れ”が移る。

 ハッとして社長の腕の中でもがく。これ以上、穢れを移してはいけない。しかし、どう足掻いたところで力では敵わないらしく、身をよじっても社長は離れない。

「落ち着きやがれ」

 低い声が鼓膜を揺らす。その声さえもいつもよりずっと弱々しい気がした。

 社長の隻眼が私の目を捕える。緑の瞳はしっかりとした輝きを持っている。鋭い訳でも優しい訳でもない。形容しにくい光だった。

「おめぇさんは本当にこれでいいのかい? おめぇさんがこれでいいって言うのなら、もう邪魔はしねぇ」

 その緑の瞳は私の何もかもを見透かしているような気がする。この人は私よりも私のことに明確な答えを持っている気がする。それでも私に聞く必要があるのだろうか。

 私自身、既に自暴自棄になっていたのだろう。

「あなたには関係ないでしょう!? もう、戻れないっ!! こんな私、誰が必要とするのよっ!? 哀れみなんかいらないっ!!」

 いい子でなんかいられない。自分という存在が妬ましい。

 助けに来てくれた手を振り払おうとした。見下されているような気がした。哀れみで仕方なく助けられるのだったらそんなもの必要ないとすら思えた。

 再び暴れ出した私を支えるように社長の腕に力が込められる。

「違ぇ。俺が聞きたいのは周りの反応じゃねぇよ」

 言葉が聞こえた。周りの騒々しい音も集まる視線も何も感じなかった。その言葉以外、何も。不思議ないくらい社長の声は私の耳を穿った。いや、打たれたのは心かもしれない。

「おめぇさん自身はどうしたいんだ? 周りの反応なんざ気にするこたァねぇんだよ」

 決して大きい声で言われたわけでは無い。怒られるように鋭い声で言われたわけでもない。ただ、穏やかな声はするりと私の中に入って来たのだ。

 緑の目を見上げれば、そこには怒りも許しも無かった。あるのは深い深い悲しい色だけ。

「で、でもっ、私は“いい子”になんてなれない」

 この人もまた何かを抱えているのかもしれない。

 なら尚更、裏切られるかもしれない。またあの寒さを感じなければならないのは嫌だ。耐えられない。それなら救われたくなんてない。

 社長の目が再び光を灯す。

「本っ当に面倒だな、おめぇさんは。いいか、この世に正義何て存在しねぇ。あるのは偽善と悪だけだ。つまりな、いい子なんざ無いんだ。悪を知れ。己を知れ。知ることから逃げるな」

 社長が私の顔を両手で包み込んでしっかり言った。


 知ることから、逃げる―――、そんなつもりは無いなんて言えなかった。実際、私はどうして姉が私を羨ましいと言ったのか気にかけることすらしなかった。

 他にも、いろんなことを見ようとすらしてこなかったのかもしれない。

 そうか。急に腑に落ちるように私は納得した。この状態を生み出したのは紛れも無い私なんだ、と。私は被害者ぶって周りを見てこなかったんだ、ということも。

 私の中を渦巻いていたどす黒い感情はまだある。だけど、それとは違う感情もあった。

 ここでまた逃げるのか。せっかくのチャンスがここにあると言うのに。

「私は、……ここで、終わりたくないっ!! 」

 温かい物が頬を伝った。心の中にあった後悔や辛さが堰が切れたかのように溢れて止まらなかった。泣いたのはいつぶりだろうか。泣くことが勇気がいると思わなかった。知らなかった。

 隻眼が優しげに細められた。深緑だと思っていた瞳が少し黄緑に見えた。

「少し痛いかもしれねぇが歯ァ食いしばれ」

 社長が私から手を放し、刀を抜いた。鍔の無い刀。太陽の光に鈍くきらめいた。その輝きすら私にとって新しく眩しいものに見えた。

 これから何をする、と言う予告は全くなかった。それでも刀を抜いた時点で斬られるんだろうなという考えはあった。

 不思議と少しも怖くは無かった。それどころか口元に淡い笑みまで浮かんでいた自覚がある。社長から逃げようと思わなかった。

 いや、社長の言った通り、怖いものから逃げたくなかった。もう、逃げ回るのは十分すぎるほど体験したから。逃げることにも言い訳を考えることにももう、疲れた。

 何より社長のことを信じてもいいと思えたのだ。

 視界の端に銀色の刀が迫って来た。私は反射的に目を閉じた。


 何かが体を突き抜ける感触があった。

 痛いというよりも酷く熱いような気がした。体の内側から何かが外へと抜けだして行く感覚。

 足元がおぼつかない。酷くくらくらする。喧噪も悲鳴も怒号も痛みすらも、何もかもが遠い世界で起きているような気がして力が抜けていくのを感じた。

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