15. peony peony and lilies その③
ロクム・シティは、現在『秋』です。
カフェ・ファーブルトンのフロアマネージャー、ロイド・ドゥカブニーは内心困っていた。
週末だから、混雑するのは承知していた。それでもランチタイム終了時間の2時を過ぎる頃には忙しさも落ち着くものだと思っていたのだが、どうしたことか今日はいつまで経っても店の混雑は収まらなかった。
テス・ブロンの体調が思わしくなさそうなので、早めに仕事を切り上げさせたいのだが、これでは如何ともし難い。
とはいえ客の注文は、ランチメニューから軽食や飲み物中心に移ってきている。空席も見える。繁忙時のピークは過ぎたと考える方が妥当だろう。
店内は徐々に落ち着きを取り戻そうとしていた。
フロアマネージャーは、テーブル席の間を移動するテスの顔色をそれとなくうかがう。
ブランク明けの戸惑いも消え調子を取り戻してきたのだろう。ランチタイムが始まった頃よりは幾分マシな表情をしているが、それでも病み上がりの身なので無理はさせられない。
頃合いを見計らって物陰に呼び、テスに話しかけた。
「今日はここまででいい。もうあがりなさい」
しかし生真面目な少女は納得しなかった。折しも入り口のドアチャイムがチリンと鳴り、新たな客の来店を告げる。
「でも、まだ仕事の終了時間じゃありませんし、お客様がいっぱいですし」
「顔色の冴えない接客係に、店内で倒れられる方が迷惑だよ」
そう言われ、ようやく自分の不調に気付いたらしい。困ってモジモジと身体をよじっていたが、小さくうなずいて了承した。
ドゥカブニーがそっと胸をなで下ろし、テスが従業員準備室に足を向けようとしたときだ。同じ給仕係のニナ・レーゼンバーグが、目を輝かせながら敏速な動きで彼女に身体をすり寄せてきた。
ドゥカブニーの胃がチクリと痛む。ニナがこういう顔つきをしているときは、大抵よろしくないことを考えている、と彼は知っている。
「テス。もう上がっちゃうの? う~ん、まだ調子悪そうだもんね。仕方ないか。いいって。後はまかせて!
――でね。帰っちゃう前に、ぜひ店内を一周してこない?」
案の定、奇妙なことを言い出す。
「コラ。テスの業務時間は、今日はもう終了だぞ」
「だから一周だけよ。注文は取らなくていいわ。歩くだけ、よ。
そうしたら、奥の隅の席まで行くの。ええそう、前に足の悪い老人がひとりで座っていた、あの席まで、ね」
「それって、『隅の老人』のいた?」
「そうそう!」
ニナはドゥカブニーの制止など聞く耳も持たないし、どうした弾みかテスがその話に興味を持った。
「お客様のご迷惑になるような行為は許されん……」
「ああもう、だから。その席の前を通り過ぎるふりをして、さりげなくお顔を拝見してくるだけよ。見るだけ、チラッと見るだけだわ。辛いときこそ、目の保養。マネージャー、堅いこと言わないでよ」
ニヤニヤといやらしげな笑みを浮かべ、ニナはテスを誘っている。接客係にあるまじき無礼行為と小言がドゥカブニーの口から飛び出すが、ふたりの耳には届いていないようだ。
「ねえ。目の保養って、どういうこと?」
小首をかしげてテスが話の先を促せば、先輩給仕係がニンマリと口の端を吊り上げた。
「すっごい美人が座っているの!!」
「行ってくる」
彼が止めるのも構わず、取り憑かれたような足取りで、顔を強張らせたテスがフロアへ出て行った。手には盆を持ち、それらしさを装うことだけはちゃんと忘れていない。
老舗カフェのフロアマネージャー、ドゥカブニーの胃がまたシクシクと痛み出した。
♡ ♡ ♡ ♡
ニナの言うとおり、さりげなさを装って店の奥へと歩いて行く。壁の前の一番奥の席は、「隅の老人」の指定席だったところ。
なぜかしら、胸の鼓動がどんどん早くなってきたわ。
どうしてこんなにドキドキするんだろう。
――確信がある訳でもないのに。
なにを期待しているんだろう?
――見極める事が出来るかなんてわかりもしないのに。
でも、もしかしたら……。
もしかしたら!?
そんな思いがあたしをはやし立てる。
ニナの言葉を聞いたとき、雷に打たれたような気がしたの。「隅の老人」の、あの後悔に沈んだ表情が浮かんできたの。
そしたら、ぼわっと、一斉に大輪の花々が咲き開く幻影まで浮かんで来ちゃったんですもん。
確かめてみたいって、思っちゃうでしょ?
あたしは「隅の老人」同様、淡い望みを抱いて、密かに待っていたのかもしれない。そのひとがやって来るのを。
顔馴染みのお客様に笑顔で挨拶して横を通り過ぎ、三つ目のテーブルの角を曲がって奥の壁に向かって進む。段々席に座るお客様の姿が見えてきた。
ああん、もう、心臓が破裂しそうに騒いでいる。
見えた! 奥の席に座る人影。
手持ち無沙汰の解消かしら、ひとり静かにチェスをしていた。
先手と後手が盤の上でそれぞれの駒を使って、相手の王様を追い詰めるゲーム。縦横8マスずつに区切られた市松模様の正方形の盤の上で、白と黒の動き方の異なる6種類合わせて32個の駒を操って勝敗を競う。
そのひとは、次の手を思案している様子だった。
あれはお店の備品の遊戯盤だけど、チェスプログラムが内蔵されていて、ひとりでも対局が出来るというもの。
訊いたところによると、あのチェスプログラムは学習機能が優秀で、対戦するたびにデータ集積をして戦局を記憶し攻略法を学ぶので、ちょっとやそっとでは勝負にもならないとか。
だってカフェのチェス愛好家のお客様達相手に、相当数の勝敗データを収集しているもの。敗者名簿の中にはカヌレ大学の教授達もいるとか。かなりの強者に成長しちゃっているという噂だわ。
その強敵の盤相手に善戦している様子だけど、あたしの心を掴んだのはそんなことじゃない。
――――髪が!
長い髪が、頭上から肩へ、さらに背中へと豊かに拡がっていた。
クセのない真っ直ぐな髪は濡れ羽色。しっとりとした重量を感じさせて、艶々と輝いている。同時にさらさらという音が聞こえてきそうなほど、しなやかに揺れている。
《視えぬのか、テスよ……》
「隅の老人」の問いかけに、あたしは答えた。
(……やって来るわ。黒髪の……絹糸みたいな……黒髪の……)
あの時、視た幻影。
ふわりと、舞うように流れ落ちた黒い髪。
(あたしの憧れ、真っ直ぐな長い黒髪)
視たままだ。
(このひとが、そう――なの?)
あたしは息を飲み、立ち尽くしていた。
襟の高い薄手のニットは憂いを帯びた赤ワインの色。ベストとケープの中間みたいなユニセックスなデザインで、ゆったりと身体を包み、優雅な女王様のようなそのひとの雰囲気によく似合っていた。
土埃色のシャツの袖から伸びた手は白くて、長い指が顔に掛かる髪をすくい上げる。でもそのひとはゲームに夢中で顔を上げてくれないから、表情がわからない。
テーブルの上にあるのは、チェス盤と紅茶のカップアンドソーサー。その横に小さな入れ物。
直径5センチほど高さは2センチくらいの、ちょっと変わったデザインの小物入れみたいなものだ。
(あれは、なに?)
気になるのか、時折指がそちらに伸びて存在を確認している。
盤の上では、ポーンが前方に一マス動いていた。
あたしは焦り始めた。
そのひとのお顔を見たいのに、下を向いたままなんですもの。入り口の方でドゥカブニーさんが早く戻ってこいと手を振っている。
どうしたら顔を上げてくれるかしら?
(あたしを見てくれるのかしら?)
……ううん、あたしを見てくれなくても、顔を上げてくれればいいんだけど。
だからって! だからって、よ。
お顔を見たからって、このひとが「隅の老人」の待ち人だと見分けがつくわけじゃない。
あたしは奥様のお顔もお名前を知らない。奥様どころか、「隅の老人」の本名だって知らない。どうやって判断を付ければ良いのかわからないわ。
せめても、なにか手がかりがあれば。おふたりだけが知っていることとか、記念の品とか……。
(コチコチコチコチ……)
あ!
懐中時計!
奥様からのプレゼント。
ダメよ。
その懐中時計だって、あの事故騒ぎの中で紛失してしまった。今はどこにあるのか、誰も知らないのよ。
(とぷん、たぷん、とぷん……)
どうすればいいんだろう?
くらり、とめまい。同時に記憶が揺れた。
揺れて、ふと、へんてこりんな夢のことを思い出す。
あれは、雑音に悩まされていたときのこと。
未確認能力者の妨害と同時に、あたしは『不思議』の呪縛に取り憑かれていた。実生活のトラブルと超常能力の急激な覚醒というストレスに疲れた脳が、現実と妄想がごっちゃにした。
もうひとつ、あたしを苦しめたのが「隅の老人」に対する割り切れない気持ち。それを「アタシ」に利用され、攻められた。老人の想いの残滓と「アタシ」の思惑が混合されて、あんな悪夢を見せてくれたんだわ。
あまりにも鮮烈だったから怖くて触れないようにしていたけれど、ヨーネル医師のカウンセリングを受ける内に、ようやく自分の中で混乱に整理がついて納得出来たのよ。
何度も白い箱のような部屋に閉じ込めて。時計の針に追いかけられたり、巨大な眼に見つめられたりと散々な思いをした。
その――何度目かの拘束の時。
溢れる赤い液体に溺れかけて、そこから脱出するためにドアを開けようとしていたのよ。でもドアを開ける鍵が見つからなくて。
そこへ小瓶が流れてきた。
小瓶の中にはメッセージカートが入っていて、文字が書かれていた。
書かれていたメッセージの内容は――?。
しきりと頭を捻れば、薄紅色の花びらが吹雪と舞う。
「そうだ。『呪文を唱えよ』だった!」
じゅ、呪文……!?
的を外した回答に、頭のネジも外れそう。
可哀想なあたしの脳みそは硬直と動揺を繰り返す。
「……オニー、ピ……ォニ、ア、リリ……」
混乱した思考回路は、意味不明の言葉の破片を吐き出した。
(――――ひえぇ!)
な……な……、なに? 今のなに??
ふえぇ、なにを口走っているの!?
勝手に口が動くのよ。
頭の中はますます大混乱。
《……どこだ……なぜ来ない…》
(……やって来る。あたしに会いに……来るの……)
どうしたらいいのか……なんて想いは嵐と舞う薄紅色の花びらにかき消され、その代わりに大輪の花々がふわりふわりと咲き乱れ始める。
「ピオニー、ピオニー、アンドリリーズ!」
ああん、また! なに言っているんだろう、あたし――!
けど。
ナイトの駒を動かそうとしていたそのひとの指が止まる。
そして、ゆっくりと頭を持ち上げ始めた。長い黒髪が、水流のように光のありかを移動させながら肩から流れ落ちる。
魔法の呪文が効いたのかしら。
「peony peony and lilies!」
芳潤な香りを放つ花のようにつややかな顔が、晩秋の夜露の冷たさに震えたような表情でこちらを見ている。
眼差しに貫かれたあたしは、呼吸を忘れた。
ねえ、「隅の老人」。あなたが言ったとおりだわ。
そのひとは、ホントに、間違いなく、大輪の花のような、文句なしの――美人さんよ!!
待ち人、来たる。
「隅の老人」があれほど待ち焦がれたひとが、ついに姿を現わしたようですが。
やっぱり、なんとな~くトラブルの予感……かな!?
以下、次回。




