8. 月光華 その② ☆
言いつけどおり、あたしは手早くシャワーを浴び、チャイナドレスに着替えていた。
一度着てみたいとは思っていたけど、こんなところで願いが叶うとは思ってもいなかったわ。
思った以上にボディコンシャスなデザインで、しかもサイズが合っていないため、ちょっとバストが苦しい。それでも着れない程じゃないし、なにせ借り物ですもの、仕方ないか。
でも淡い水色のドレスは、あたしの瞳の色と相応して、自分でもなかなか似合っているんじゃないかと思う。ビーズ刺繍のかわいい靴まで用意されていて、すっかり衣装替えしたあたしは、有頂天で鏡の前に立っていた。
エミユさんの見立てって、ステキ!
クリスタの真似をして、鏡の前でポージングしてみる。
ドレスはロング丈だけど、スリットが大胆に太腿の辺りまで入っていた。歩くと足がむき出しになってちょっと恥ずかしいけど、セクシーに見えるかなあ。
ひらひらと動く裾に咲く白い牡丹の花は、思っていた以上に存在感があり、それでいて可憐よね。
(華やかで高貴な花……花のように美しい……圧倒的な美貌……ん、なに!?)
(そうよ、そう思ったのよ、聞いた時に! ……って、誰に、何を聞いたんだっけ!?)
鏡に映るあたしに向かって、自問する。
(誰かが……言ったの。待ってる……会いたいって……もう一度……美しい人に…………)
記憶に霞がかかっている。
霞の向こう側から、誰かが呼び掛けているのに、その姿はうすぼんやりとした輪郭しか見えてこない。
呼吸が早くなる。鏡の中のあたしが、あたしじゃないみたい。
(……牡丹に芍薬……牡丹に芍薬…………の花、牡丹…芍薬…百合……の花!)
「……ッはぁ、ぅん…! ……ゃあ……ん!」
頭の中で、閃光が光る。こんな感覚、前にも一度……!
《……会いたいのだよ……もう一度……ひと目でいいから……》
誰、誰なの。この声、この想い。また脳内で閃光が、それと鈍い頭痛。
クラリ……と身体が大きく揺れる。
《――テスは知っているかな……》
ああ、そうよ! カフェ・ファーブルトンに、いつもの時間にいつもの席にいらしていた……。あの、あの――――!
「隅の老人!」
パァと、目の前の景色が飛んだ。
とたんに、足元が抜け落ちる。長い長い落下が始まった。深い霧の底へと、あたしは落ちていく。
この感覚は、大嫌い! 気持ち悪い!
(――――どうして、――――どうして!)
どうして、今、あの老人のことを思い出したんだろう。
あたしの目の前で事故にあって死んでしまった、あんなに奥様に会いたいって言っていたのに、ついに名前さえ聞くこともできなかった……可愛そうな老人。
記憶の集積回路から強引に引き出した、あの日の一連の出来事。
目の前で冷然と流れていく事故の様子、カフェでの会話、チーズケーキ――――老人との思い出が逆回転で再生される。
恐怖で目を閉じた。吐き気がする。
《……そのひとからの、最初で最後のプレゼントだ……》
思い出した! 懐中時計を、あたし懐中時計を渡そうとして……。
そうよ、あの懐中時計はどこ、どこに行っちゃったの!?
いきなり目の前に、白い壁が立ち塞がる。声にならない悲鳴を上げると、壁は瞬時にあたしを取り囲み、立方体を形成し始める。
あっという間に、白い壁に閉じ込められてしまった。あの時と同じ。
(――イ、イヤよ、嫌! やめて、やめて、助けて!)
カフェで老人と話していたときも、こんな感覚に囚われていた。夢なのか幻なのかわからない状態で、なにかを視ていた。
頭をギリギリと締め付ける痛み。ドクンドクンと云う鼓動が、やけに大きく聞こえる。なにかに掴まりたくて手を伸ばすけど、空を切るばかりで頼れるものは無い。
フラフラと身体は揺れ、足がもつれ、安定を失ったあたしは床に激しく倒れ込んだ。
《――どこだ、なぜ来ない……彼女は、どうしている……》
(あたし、知らない!)
立ち上がろうにも、身体に力が入らなかった。
それでもどうにか逃げ出したくてもがいていると、頭の上に巨大な眼が現れる。
狂気を孕んだ、禍々しい眼。
《……視えんのか……視えん……のか……視え……ん……の……か……》
床に時計の文字盤が浮かびがる。魔法陣みたいだ。そして時を刻む針が、こちらに向かって進んでくる。
刻々と、あたしを脅迫するみたいに。
重たい身体を引き摺り、死神の鎌にも見える長針から逃げようと必死になった。
《会いたい……会いたいのだ……彼女に……彼女に…………》
老人の妄執があたしを捉える。骨ばって血管の浮き出た、青白い老人の手。
不条理にも床から生えた老人の手が、あたしの足首をきつくつかんで離さない。グロテスクで不気味だけど、どこか滑稽な眺めだ。
《……に……彼女に……、……たい……会い……た……い……》
(知らない! 知らない! 本当に知らないの! あたしを責めないで!!)
なんとかして薄気味悪い手を振り払おうともがいている隙に、壁と天井の境目から、ドロリと真紅の液体が染み出てきた。
ドロドロと溢れ、壁をつたい、あたしの方に流れてくる。
あの時と同じだ。老人と話していた時も、この部屋に閉じ込められた。そして赤い液体に呑まれてしまった。
逃げることが出来ない。
(怖い!)
知らないうちに泣いていた。涙が溢れて、止まらない。恐怖と、それをどうすることも出来ない自分自身に、泣くことでしか抗えないなんて!
なんて情けないんだろう、あたしって!
床に突っ伏したまま、溢れる涙をぬぐうこともできず、ヒステリックな大声を上げていた。
(助けて、クリスタ。クリスタ、クリスタ、……誰か…!)
♡ ♡ ♡ ♡
唐突に、白い壁の一か所に小さなドアが現れた。
突拍子もないことだけど、あたしはもう、驚くことさえ忘れてしまったんだわ。
それで、あのドアを抜ければ、ここから逃げられるのかしら。
でも、あのドアまで辿り着くことが出来ないの。震えが走る。
(誰か、誰か、助けてッ!!)
チカチカと脳内に点滅する閃光――。
「……来ル……、……来ル。……髪ノ、……ノ……」
口から意味不明の言葉が漏れだしたとき――――、
どこからか、微かな旋律が聞こえてきた。
その調べが涙を止めた。
♡ ♡ ♡ ♡
撥弦楽器の音だと云うことは、わかったわ。
単音の弾く音。
それから空気を震わす切ないトレモロが響いて、やるせない想いの丈を、音にしたような旋律が奏でられている。
マンドリンの音に似ているけど、どこか違う。もっと、もの哀しさが勝っている。そして、時折混じる艶やかな音。なにかが心の中に押し寄せてくるみたいで……。
(……ハラハラ、ヒラヒラ……)
あたしに、音と音の隙間に隠された機微をすくい取るなんて高等技術は無理。そんな器用じゃないもん。
ああん、でも、なんてもどかしいんだろう。
そうやって自分の至らなさに身悶えしていると、ドアが勢いよく開いた。
一陣の風が、薄紅の小さな破片と共に、部屋の中に吹き込む。風は勢いよく駆け巡り、薄紅の破片は部屋中に舞い散った。
やがて床に伏すあたしの上に降って来る。
(――これって、雪?)
違うよね。雪は白いもの。冷たくもないし、溶けもしない。
ああ、花びらだ。
ひらひら、はらはらと、花びらが舞っているんだ。
聴こえる旋律に合わせ花びらは舞い、淡い香りと共に部屋を満たしていく。
数センチ先にまで迫っていた赤い液体が、引き潮のように引いて行った。それと同時に、老人の手も、迫る長針も、溶けるように消えてしまった。
それらが影も形もなくなると、あたしの目線は再びドアに向かった。
開いたままのドアの向こう側には、蒼色の空間が広がる。匍匐前進で、とにかくドアまでにじり寄った。
この白い箱のような部屋から一刻も早く脱出したいけど、その先への不安があたしを戸惑わせていた。
第一ドアは小さすぎて、通り抜けることは難しいわ。猫かうさぎでもなければ、このドアは抜けられない。
だって、高さも横幅も30センチぐらいしかないんだよ。頭だけあちらに抜けられても、身体はこの部屋に残されたままなんて、目も当てられないじゃない。
クリスタに教えてもらったヨガの「ネコの伸びのポーズ」みたいな格好で床に這いつくばり、ドアの向こうの空間を眺め思い悩んでいた。
だからと云っていくら考えても答えが出そうもなく、早々に諦めの溜め息を吐こうとした時、ドアの向こう側から手が差し出された。
乳白色の、指の長い手だ。蒼色の空間から、手が――もうちょっと正確に言えば前腕から掌までが、空間から抜け出たように伸びている。
男性の手とも女性の手ともわからないけど、老人の手ではないことは確か。
ワルツを誘うかのごとく、優雅な仕種で目の前に差し出された美しい手。
警戒心は湧かなかった。ううん、むしろ惹きつけられた。
だから気が付いたら、あたしはその手に、自分の手を重ねていた。
謎の手は、あたしの手をそっと握る。
僅かに感じたぬくもりに感情がざわめいて、あたしは揺さぶられるような気持ちを味わった。
そして次の瞬間、思いっきり手を引かれて――――――――気づけばドアを通り抜けていた!
♡ ♡ ♡ ♡
蒼い闇のなかで、満開の花が咲いている。
そこここに生えた木々は薄紅色の小さな花を幾重にも鈴なりに枝に付け、あたりを霞にするほどに豪奢に咲き誇っている。
傲慢なほど美しいのに、でもどこか儚げで、危うさも感じさせる。花の名前は知らないけど、眺めていると心が騒ぐのはどうしてだろう。
見渡す限りの花霞。止めどなく降る花びらの雨。淡い月光――。
その中でひときわ目立つ老木の幹に腰を掛け、ゆったりとした美々しい衣装に身を包み、見たことの無い楽器を奏でるひとがいた。
膝の上に立て、そっと抱きかかえるように演奏している楽器は、リュートに似ているけど、共鳴胴は満月みたいに円形で短い琴杵が付いていた。長い飾り紐のついた弾片で、爪弾くように引いている。弦を抑える白く長い指が、なまめかしい。
さっきから聴こえる旋律は、このひとが弾いていたんだ。
そのひとは少しばかり顔を伏せ、そこに長い黒髪が掛って、こちらからでは表情が見えない。
そればかりか、空にある朧の月のそこはかとない明りは、すべての輪郭をにじませてしまうから、当惑は深まるばかりだ。
あまりに美しい場面に、あたしは息を吞み、圧倒されていた。
助けを求めるべきなんだろうけど、声を掛けたら、この一片の絵のような情景は崩れてしまう。
それは、嫌だ。そんなこと、絶対にダメ。この情景はこのまま額に入れて、お持ち帰りしたいの!
それでもそのひとに振り向いて欲しくて、そっと手を伸ばす。
花吹雪が一段と激しさを増した。
(ハラハラ、ヒラヒラ……、アナタハダァレ……)
そのひとは、ゆっくりと顔を上げる。長い絹糸のような黒髪が揺れ拡がる。
たゆたう残響、うすくれないのはなのいろ。
その貌は……………………!
《――テスは、知っているか》
(ええ、知っているわ。牡丹に芍薬、百合の花……)
――――――――これは、ゆめ。
2020/01/07 挿し絵を追加しました。




