33.賢しい客人を森に埋めるかどうかについて⑤ ~彼の欠落、彼の相棒~
読了目安 4~6分
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――――とんだ食わせ者だった。
二階の廊下の壁際に小さく踞り、イチヘイがカナイナに浮かべる感想はその一言に尽きた。
ここは、一階の廊下と位置も造りもさして変わらない。前後の突き当たりに二つある小窓からさす昼前の日差しは、今はどちらも中までは差し込んできていなかった。
左右を居室に挟まれたぼんやりと薄暗い廊下で、イチヘイはさっきのことを考えている。
『ワタシはこの先も嘘を吐くけれど、信じてくれ――――!!』
堂々と嘘を吐いておきながらそんな自分を信じろと要求してくるなど、正に常軌を逸した提案である。
――――……しかし結果的には、両者の利害は一致したのだ。
ゆえに花登に向けた治療も、既に始められている。ただ、意識のない人間に使う解熱剤は口からは飲ませられないので尻から入れるのだと、カナイナは言った。
だからイチヘイは(半分はそれを聞いたフィーに追い出されつつ)ここに独りで待機している。
いまも扉ごしにくぐもった音声で会話が聞こえて来るが、カナイナはどうやらこのタイミングで、脱がせた彼女の身体にある無数の暴力痕に気付いたらしかった。
「――うっ……。な、ん……。
……その……深くは詮索しないが、これも必要なら治療するよ?」
「んえ! いいのー? ……あのね、カナイナ先生、この子ねぇ、可哀想なの。連れてきた時からずっと……」「う!? 待っっ、て!?! あんまり聞くと『協定』が反故に……!」「んんっ!? そうだったのよぅ!!」
玄関先で急に『ペリタ新皇国』などという言葉を出してきたときから、カナイナの言動はずっとイチヘイの警戒対象になっていた。その名前は、トルタンダ部族殲滅作戦で二人を雇った主謀国の呼び名だったからだ。
「――にしても、この焼き印の火傷、膿みかけてるね……。――んん? この背中の生傷は――」「んえ、それはなんかおっきい〈虚棲ミ〉に襲われちゃって……。それでねあのね、イチヘイとハナトちゃんは故郷が同じなのよぅ。だからねぇ、」
「あーー! 待って!? それ以上は!!」「んええ! そうだった!」
「……え、でも待ってそれって彼も〈稀人〉……」
そこでイチヘイが軽く咳払いすると、それを拾ったフィーがまたアワアワと口を開く。
「んえ! ひみつ? 秘密なのよぅ!」
……盛大にバラされている。
少しフィーの口が緩すぎる気もするが、話そうとしているのは花登の入手経路以外の部分である。さっきもあんなに口を噤もうとしていたゆえ、おそらくは大丈夫だろうと踏んで、とりあえず今はイチヘイも様子見で済ませることにした。
「……ごほん。……と、とりあえず、血止めの薬草で処置はしてあるね。傷口の表面を塞ぐ程度が私には限界だけれど、治癒魔法もかけておこうか?」「ふぇ!? カナイナ先生そんなこともできるの?! すごいねぇー」
「いいや、私は魔力が薄いんだ……この程度が関の山さ。この手の奴隷に押される焼き印には、治癒魔法が使えないような阻害術がかけられているから、これも根本からは治してあげられない。……でも、」「んんん?」
「――手持ちは、ないのだけれど、この化膿自体はさっきチラッと見えたこの家の薬草畑……、もし使える草があればこれ以上腫れないように抑える薬くらいなら作れる、ぞ……?」「んええ?」
とたん、フィーの声が明るく輝く。
「たぶんあるよ、お師匠さまの薬草畑はなんでもあるのよぅ! すごいでしょー!」
「ほんとかい? それは良かった」
……この二人、存外気が合うのかもしれない。
久しぶりに、自分以外と話す楽しそうな相棒の声が彼の耳に届く。イチヘイは少し安堵していた。
カナイナとの出会い頭に比べたらフィーの様子も今は落ち着いている。この客人もどうやら、病んでいる相棒との接し方を会話のうちにそれなりに理解したようだ。
彼の相棒は、こうなる前から簡単に他人に好かれてしまう程度には朗らかで人懐っこい性格だった。その片鱗はカナイナを前にして今も垣間見えるが、一方のフィーの相棒と言えばこの顔付きにこの性格である。
この耳長族の人当たりの良さには、随分と助けられてきた。
敵と見倣さない者には気安く近寄っていくフィーにとっては、イチヘイ以外の誰かと話している時間で、安らぐ心もあるのかもしれない。
そしてそう思うのと同時に、また『ざらり』、とイチヘイ自身にも得体の知れない思いが鳩尾の裏を舐めていく。
「…………。」
彼はふと俯くと、今はいつもその感覚が過る部分に手を当てた。
時折胸を過ぎていくコレがなんなのか、結局イチヘイ自身にもやはりずっとよく解らない。
(本当に、なんなんだろうな? これは……)
イチヘイには昔から、こうして自分にも捉えきれない感情を抱くことがよくあった。思えばこれは、こちらで暮らし始めてからの事のようにも思う。
イチヘイは普通に笑えるし、驚くし、『怖い』もまあ分かる。身内を思う瞬間に湧く思いには『信頼』と名も付くのだろう。
けれど一方ではこの世界に来て以降、身内含めて他人に対して怒ったり、恨みや憎しみ、軽蔑の感情を抱いた覚えがない。人を傷つけるのも殺すのも、単にその場で『必要』だからだ。小さな頃には親にやり込められて良く泣いていたと思ったが、その『悲しい』ですらも、気付いたらよく解らなくなってしまっていた。
だからもしかしなくても、そんなときには自分に理解できないそれらの感情が、何か囁いているのかもしれない……。
と、イチヘイは毎度 他人事のように推察するが、しかし今のは、状況的にそのどれもに当てはまらないような気もする。
ただイチヘイ自身はこの理由を探る行為が昔から嫌いだった。
考えても解らないその『何か』に思いを巡らせ過ぎると、いつも胸の奥を糸で縛られて息すらままならなくなるような、言い知れない不安と不快感に胸を侵されるからだ。
それにこれまで、この不自然に欠けたままの性質は、時に人と斬り合う傭兵という職を彼にとっての天職にさえしらしめていた。結局はそんなものに意識を割かなくても、何も困ることなどなかったのである。
けれどそれは、フィーが狂気に堕ちたあのトルタンダの夜を境に、何もかも崩れた。
イチヘイは自身のこの欠けた感情――――言い換えるならば『人間性』について、もうずっと考えることをやめられなくなっていた。
身内以外の他人に対する哀れみや思いやりのようなものも、同時にイチヘイからは不自然に欠け落ちていたからだ。
なんなら先ほど森でフィーに向けた感情が怒りのように思えたこと、その原因にはっきりと気づいたことすら、覚えている限りの記憶にはない、鮮烈な出来事だったのである。
――――もしかすると、それはイチヘイが自身の内側を覗き込むことを止められなかったがゆえに、気付けた事なのかもしれなかった。
こんなつまらない変化、誰に語るべくもない。世界からしたらちっぽけすぎる塵芥でしかないが。
(……まあ、でも、そう思えるのも『成長』、なんだ、よな……?)
お師匠がよく『ここで生きるしかないのだ。失くしてしまったものを、振り返るでないよ。前を見て生きなさい』と励ましてくれていたことを思い出す。
彼はフッと鼻を鳴らしながら顔を上げた。育った家の、乾いた木と生活の染み付いた匂いに包まれながら、階段の手すりごしに窓から外を眺める。
歪みガラスの円窓に切り取られたその世界は森の緑に半分以上が埋もれ、僅かに見える青空には雲の端が見切れている。
……これで良いのかは、まだ良くは解らない。
それでも、相棒に対しては今さら何もかも遅くとも――――それでも、そうしていればフィーの心を壊さずに済んだかもしれない『人間らしい』何かに、イチヘイは少しでも近づける気がしていた。
それが巡り回って、いつかフィーの助けになる日が来るならば、それこそは前に進む足掛かりになるのではないか。
ざらり。とやはり胸を舐めるその感覚をその奥にしまいながら、彼はぼんやりと思いを巡らすのだった。
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