50話 お風呂上がりのわがまま
僕は部屋着に着替えてリビングに戻ってきた母さんと入れ替わるように自室へ向かう。制服から寝間着(ねずみ色のパーカーとズボン)に着替え、洗面所の扉の前で待機する。母さんと同じ空間にいたくないので、そこで梅雨を待つことにした。
雨竜にはまだ梅雨を見つけたことを伝えていない。本来なら真っ先に伝えるべきなのだが、僕の前で笑顔を崩さない梅雨の様子が気になった。ちゃんと梅雨と話してからでないと雨竜に報告してはいけないと、僕の第六感がそう告げていたのだ。
数分後、洗面所の方からバシャっという水の音が聞こえた。おそらく梅雨が湯船から上がったのだろう、その後すぐに浴室のドアが開く音が耳に入る。
「梅雨」
「ゆ、雪矢さん?」
不意に聞こえた僕の声に必要以上に驚く梅雨。無理もない、風呂から上がったばかりの梅雨は言うまでもなく無防備な状況だ。
「心配するな、覗こうってわけじゃない。衣服とかドライヤーとか、説明不足のままだと思ってな」
「あっ、そういえばそうですね」
「バスタオルは棚に積んであるやつを使ってくれ。使い終わったらその脇の洗濯カゴに入れてくれればいい。制服はハンガーにかけておいて、服は僕が昔使ってたものがあるからそれを着てくれ」
1つ1つ指示を出し、梅雨が迷わないよう誘導していく。他人様の家の洗面所なんて勝手に利用できないからな、そこは言ってやらないと可哀想だ。
全ての説明を終えると、しばらくしてドライヤーを使用する音が廊下まで響いてくる。
これが終われば梅雨は洗面所から出てくる、ようやく進路の話をすることができるだろう。
あんまり雨竜への報告を遅くしたくない、あいつは今も土砂降りの中駆け回っているはず。はやる気持ちを抑えながら、僕は梅雨が出てくるのを待った。
「ありがとうございます、お風呂までいただいちゃいまして」
ドライヤーの音が止まると、僕の衣服に身を包んだ梅雨が笑みを浮かべて洗面所から出てきた。白のTシャツに紺のハーフパンツというシンプルな姿だが、こんな格好でも美少女なのだから青八木家の血は侮れん。
「寒気はしないか?」
「はい、おかげさまで身も心もポカポカです」
大雨に打たれて心配だったが、どうやら体調の方も問題ないようだ。それなら早速本題に入らせてもらおうか。
「それじゃあ質問だが、2時間かけて僕の家を探し回ってまで今日来たのは、進路の件でいいんだな?」
僕からそう言われるとは思っていなかったのか、梅雨はあからさまに目を見張る。本人は遊びに来たで通せるつもりだったのだろうが、例え雨竜から何も聞いてなくても、あの状況でそれを信じるのはどう考えても無理だ。
「あはは、もしかしてお兄ちゃんから何か聞いてます?」
「お前が両親と喧嘩して家を出たってことはな」
「それが全てですから、わたしから話すことはあまりないんですが」
「どうして喧嘩になったか話せ」
「……どうしても話さなくちゃダメですか?」
先程まで不自然に笑みを見せていた梅雨の表情に、憂いの感情が帯びていた。話したくないほどにこっぴどく喧嘩をしたのかもしれない。それならそれで構わないが、僕がしてやれることはない。
「分かった。話したくないなら話さなくていい。これから雨竜に連絡を入れるから、迎えが来るまではゆっくりしていけばいい」
「えっ、それは困ります!!」
雨竜に連絡を取ろうとリビングに向かおうとすると、梅雨はそれを制止するように僕に追いすがった。寝間着の裾が強く握られ、ウルウルと揺れ動く瞳が僕を捉えて放さない。
「今日は家に戻らないつもりで喧嘩したんです! これであっさり戻ったら、わたしの覚悟なんて大したことないってお父さんに思われちゃう! それは絶対嫌です!」
「そうは言ってもご家族が心配するだろ? それに戻らないって、泊まる場所はどうするんだ? こんな雨の中友達の家に行脚でもするのか?」
「これから考えます! これ以上雪矢さんには迷惑かけません! だから、家には連絡しないでください!」
涙声だった。必死に自分の気持ちを僕に訴える。梅雨は本気で家に戻るつもりはないようだ。
しかしながら、梅雨の言うことを聞くことはできない。青八木家の心配はともかく、連絡せずに警察が動き出してはまずい。せっかく当人は見つかったのに、そこまで大事になってしまっては梅雨の心象も悪くなってしまうだろう。高校受験を考えるなら、警察の介入は避けるに越したことはない。
「……待ってろ」
僕は梅雨の頭をポンポンと触れてから、リビングの方へ向かう。家の電話ではなく父さんのスマホを借りてから、梅雨のいる洗面所の前に戻ってきた。
梅雨が見ている前で、僕は雨竜に電話をかける。動き回っているのか、なかなか電話が繋がらない。10コール以上経過した後、ようやく応答があった。
『はい、もしもし』
「雨竜か、僕だ」
『どうした雪矢、ワン切りするんじゃなかったのか?』
耳元で聞こえる雨竜の声は乱れていた。おそらく今も青八木家周辺を探し回っているのだろう。球技大会もあったというのに本当にタフな奴だ。
「梅雨、見つけたぞ。今ウチで保護してる」
『何!? 本当か!?』
梅雨が失意の眼差しをこちらへ向けるのが分かった。あれだけ懇願していたのに雨竜へ伝えてしまったのだ、さぞ僕の行動に失望したことだろう。
『そっか、お前の家の方向かってたか。良かった良かった』
雨竜の心底安堵した声が耳に入る。妹の無事をようやく確認できたのだ、その想いは一入だろう。
『この時間なら駅まで連れて来られるか? 近くのコンビニでも教えてくれればそこまで車飛ばすけど』
そして当然、梅雨を迎えに行く流れになる。もう夜分遅い時間帯、雨竜としても他人様へ迷惑をかけたくないはず。だからこうして僕に提案してくれている。当たり前のこと、常識的に考えれば当たり前のことだ。
――――梅雨が辛そうに泣いてさえいなければ。
「悪いな雨竜、残念だが梅雨を返すわけにはいかない」
『はっ?』
雨竜の声と同時に、梅雨が目をパッと見開いた。僕の言葉の意を汲み取れなかったのだろう。不思議そうに僕を見つめているのが分かる。
「この馬鹿、我が家に散々迷惑かけたくせに事情を話そうともしない。性根が腐りきってるから今日一晩中説教してやることにした。もしかしたら身体に教え込むことになるかもな、淫らな夜を過ごすことになっても文句は言うなよ」
『お前、ふざけてる場合じゃ!』
「――――だから、家族にはうまく言っとけ。明日の朝には連れて帰るから。明日までには心の整理をつけさせるから」
そう言うと、スマホの向こうが少しだけ沈黙した。どうやら僕の意図を読み取ってくれたらしい。
梅雨が帰りたくないと言っていることは今ので雨竜も理解してくれたはず、ならば後の面倒事は全て雨竜に押しつけるだけだ。
『梅雨のこと、任せていいか?』
「梅雨次第だ。話す気ない相手に何も言ってやることはできないからな」
『なら大丈夫だ、どうせお前の言葉は梅雨も聞いてるんだろ?』
ご明察。こう言えば梅雨もだんまりを決め込むことはないだろう。
『明日の朝だな、了解した。父さんたちにはうまく言っとくって梅雨に伝えといてくれ』
「了解だ」
『それと、もう一つ』
「何だ、妹には手出し無用って言いたいのか?」
『いや、梅雨がいいなら止めるつもりはないが』
おい。止めるつもりないのかよ。そこは兄としてビシッと僕に注意入れとけよ。
「じゃあ何だよ、改まって」
そう問いかけると、雨竜は再び沈黙してから僕に向けて言った。
『梅雨のこと、ホントに助かった。ありがとな』
そう言って、雨竜は通話を切ってしまった。
なんだあいつ、わざわざ溜めてまで言うことじゃないだろ。礼を言われて悪い気はしないが、雨竜が相手だとあまりいい気もしないのが不思議なところだ。
まあいい。とりあえず雨竜に連絡して、面倒事は避けられたはず。後は1番大きな面倒事をそれこそ一晩掛けても解決してやらなきゃいけないわけなんだが。
「……雪矢さん、すみません、わがままいっぱい言って……!」
雨竜との通話を終えてすぐ、梅雨は泣きじゃくりながら僕にすり寄ってきた。すぐに家に帰らずに済んでホッとできたのか、涙は留まることを知らない。
そんな梅雨の頭に僕は軽くチョップを入れた。
「アホ、まだ何も解決してないんだからな。だからちゃんと僕に話せ、相談くらいなら乗ってやれるんだから」
「はい……はい……!」
「ああもう泣くな。これ以上泣いたら家から叩き出すぞ」
「はい、あと30秒だけ待ってください……」
目元を一生懸命拭う梅雨を見て、僕は少しずつ冷静になる。
そして、ことの重大性を理解し始めた。
あれ、これって普通によろしくないことなのでは?




