1話 廣瀬家の朝
「ふぁわあああ」
時刻は午前5時半。僕こと廣瀬雪矢の朝は、だいたいこの時間から始まる。夜更かししたとしても、この時間を大きく前後することはない。何故なら、僕には大切な役割があるからである。
ベッドから上半身を起こし、カーテンを開けて日光を浴びる。頭が覚醒したところで自室を出て、一度洗面所で顔を洗ってからリビングに入ると、既に台所の方から良い香りが漂ってきた。
「おはよう父さん」
料理中のその背中に声をかけると、いつもの優しい笑顔を浮かべて父さんが振り返る。
「おはようゆーくん、今日も早いね」
「いつも同じ時間だって、それ昨日も言ってたよ」
「あれ、そうだっけ?」
近所の奥様方をあっさり虜にできそうな笑みを浮かべるこの人が、僕の父、廣瀬朋矢である。今年で40歳になるというのに、それを感じさせないほど若々しく20代後半と言っても充分通用するほどである。背も高いし身体はスラッとしてるし性格は温和だし、とにかく非の打ち所がない。強いて欠点を上げるというなら、母さんに甘すぎるというところだろうか。
「何すればいい?」
「そうだね、冷蔵庫からリンゴとバナナとヨーグルト出して。リンゴとバナナは一口大に切って欲しいな。後は小皿を3つ出してくれると助かるよ」
「了解」
僕は父さんから指示を受けて、朝食準備の手伝いをする。
これが僕の朝の役割、朝食を作る父さんの手伝いをすること。父さんはいつも遠慮するが、家事の一切を受け持ってもらっているんだ、これくらいしなくては父さんに申し開きが立たない。
「父さん、他に何かすることある?」
出された指令をコンプリートして、父さんからの次なる指令を待つ僕。ここまでやると他にやることがないから、ソファ座ってテレビ見ててって言われるのがほとんどではあるんだけど。
「えーっと、じゃあお母さん起こしてきてくれる?」
「えっ……」
父さんからの頼み事なのに、あからさまに拒絶するような声が漏れてしまった。
僕が最もやりたくないお手伝いランキングトップ3に入る頼み事だ。
「……父さんが行けばいいじゃん」
「お父さん今手が放せないから、起こしてきてくれると助かるな」
「……了解」
そう言われると、僕としても断ることができない。父さんに頼られれば断れない男、我ながらとてもチョロい人間である。
階段を上がって、父さんと母さんの寝室へ向かう僕。一緒に寝てるんだから自分が起きたときに起こせばいいのにと思うが、朝食の準備時間もあるしできるだけ睡眠時間を確保してほしいのだろう。ただでさえ母さんは朝が弱いし。
一応ノックをしてから、僕は2人の寝室へ入った。すると部屋の奥にあるダブルベッドの上の布団がこんもり盛り上がっていた。
僕は大きく溜め息をつく。少しは父さんの手伝いのために早起きしてみろと思う。なんで僕がこの人を起こさなきゃいけないんだ。
まあいい、今は父さんの目はないし、多少荒々しくしても問題はない。さっさと終わらせてさっさとリビングに戻ろう。
僕は部屋の照明をつけて、被ってる布団を思い切り剥いでやった。
「起きろクソババア!!」
そこに現れた小柄な体躯の女は、僕の行動など意に介す様子もなくただただ眠り続けている。んにゃろぉ、僕を馬鹿にしてるのかぁ?
「起きろ!! もう朝だぞ!!」
近くまで寄ってその頬をぺちぺちと叩くが、まったく起きる気配がない。嘘だろ、いったいどんな夢を見てたらこの状況でスヤスヤ眠れるんだ。もうけっこう顔赤くなってるんだけど。
「おい! 父さん呼んでるんだけど!!」
その言葉で、突如電源がONになったかのように上半身を起こす母親。眠たそうに目を擦ると、脇に座る僕にようやく気が付いた。
「……何?」
おいおい、それが開口一番息子にかける言葉ですか。
「何じゃねえよ! 起こしに来たんだよ!」
「……頼んでないけど」
「父さんに頼まれたんだよ! じゃなかったら誰が来るか!」
「そう」
それで興味がなくなったのか、大きく欠伸をした後身体を伸ばし始める母親。その態度に僕のイライラは朝から頂点に達していた。
「起こしたからな! 二度寝すんじゃねえぞ!」
「雪矢」
そのまま部屋を出て行こうとすると、両手を上に伸ばしたまま母親が僕を引き留めた。
「ありがとう、起こしてくれて」
感情のこもっていない母親の声。それが余計に僕の神経を逆撫でた。
「……うっさい! とってつけたように言うな!」
結局僕は、いつものように暴言を吐いて寝室を飛び出した。
階段を強く下りて、むしゃくしゃする気持ちを発散させていく。
はっきり言って僕は、何を考えているか分からない自分の母親――――廣瀬千雪のことが大嫌いだった。
背が低いし、基本的に不機嫌そうな顔してるし、言葉数少ないし、背が低いし。子どもの頃は顔に出て分かりやすかったって父さんは言うけど、そんな昔話を語られても今の僕には関係ない。少なくとも今の母親はとにかく分かりづらすぎる。父さんはどうしてあんな女と結婚してしまったんだろうか。
「父さんはさ、なんで母さんと結婚したの?」
気になったことはすぐに調べるか誰かに訊く。僕はリビングに下りると真っ先に父さんに質問した。
「なんでって、お母さんのことが大好きだからだよ」
これは知ってる。父さんにこの質問をしたのは2桁超えてるし、その都度この回答をいただいているんだから知ってはいる。だが今日はもっと踏み込ませてもらおう。
「父さんって幼女趣味みたいのあるの?」
実の父親に何を訊いているのかと思われそうだが、母さんの容姿を考えるならこういう質問は不可欠である。
母さんは父さんと同い年、今年で40歳になるが、顔がとにかく幼い。背も低いから、こちらは下手したら女子中学生を名乗ってもバレないのではないかと思ってしまう。そんな母親を好きというなら、父さんにそういった嗜好があっても不思議ではないと思うのだが……
「もしかして、お母さんのことを言ってる?」
「うん」
「こんなこと言ったらお母さん怒るけど、お父さんが好きになった頃からあんまり変わってないんだよね」
「ああ……」
そうか、父さんにロリコン疑惑をかけていたけど、そもそも父さんがショタのときから母さんはずっとロリなんだ。何を言ってるか分からないかもしれないが、ニュアンスで察してください。
「じゃあさ、父さんって巨乳好きとか?」
小柄で顔も幼い母親だが、何故か出ているところは出ている特殊人間である。そんな容姿ならさぞ一般受けも良かったはず、そのまま誰かと結婚してくれれば父さんはもっとまともな人と結婚できたのに。
「さっきの話と被るけど、お父さんが好きになった頃はお母さんぺったんこだったんだよ」
「ああ……」
そうだった、父さんと母さんは幼なじみで、幼い頃からずっと仲良く過ごしていたんだった。
畜生、どうして幼なじみが勝利してしまったんだ。父さんは美形だし、学生時代は絶対にモテていたはずなのに。
あっでも無理か、第一父さんが病的に母さんのこと好きだったんだもんな、そりゃどうにもならんわ。
「父さん、ホントに母さんが好きなんだね」
結局具体的な理由は分からないまま、結論だけが出てしまった。幼い頃から仲が良かったからといえばそれまでなんだけど、それがずっと続いて結婚ってそうそうないと思うんだが。
「お父さんはゆーくんも同じくらい好きだけどね」
ありがとう父さん、僕も大好き。




