46話 乙女たちの語らい2
5月の最終日。ほとんどのクラスメートが夏服へ移行し始めた頃。
蘭童空は親友のあいちゃんと一緒に、教室を出た。終礼を終え、部活動へ行くためである。空は体育館であいちゃんが茶道室に向かうため階段で分かれてしまうが、それでもこうして行動を共にしていた。
そして今日もいつものように階段部分へ差し掛かったとき、顔を合わせたくない人物と鉢合わせることとなった。
名取真宵。金髪のロングヘアーが特徴的な2年の先輩である。
その容姿に少なからず圧を感じるというのもあるが、それ以前に空はこの先輩から嫌がらせまがいのちょっかいをかけられていた。
少し前までは愚痴を言われる程度で済んでいたがつい先週、トイレの個室に入ったところで上から水をかけられている。名取真宵が犯人かは分からないが、この人以外に実行する心当たりがないのも事実だ。
そのせいで前より臆病になっている自分がおり、その元凶と顔を合わせるというのははっきり言って抵抗があった。
「……ちょっといい?」
もしかしたら自分に用ではないのかと思い通り過ぎようとしたが、真宵から声を掛けられてしまう。
「……何ですか?」
空が対応に困っていると、2人の間に割って入るようにあいちゃんが反応した。表情からは怒っているのが容易に読み取れた。空は親友の気遣いに心の中で感謝する。
「……えっと、その……」
だが空は、真宵の雰囲気がいつもとは違うことにすぐに気が付いた。普段の高圧的な態度はどこへやら、どこかもじもじしながらこちらの様子を窺っていた。
そして――――――
「ごめんなさい!!」
覚悟を決めたように表情を引き締めると、真宵は思い切り頭を下げてそう言った。
唐突な行動に空は、振り返ったあいちゃんと口を開けたまま目を合わせた。
「その、悪態ついてた件と、水をぶっかけた件。ガキみたいなことして怖がらせて本当に悪かった。すごく反省してる、申し訳ない」
――――嘘みたいだと思った。決して相容れない関係だと思っていた名取真宵が、自分の行いを悔いて謝ってくれている。こんな日がくるなんてとてもじゃないが想像できなかった。
そして、いつか茶道室である人がかけてくれた言葉を思い出す。
『1週間くれ、それで全てを解決してみせる。だから蘭童殿は気にせず今まで通り頑張ってくれ。キツいかもしれないが、これ以上は何も起こらない。約束する』
自分を励ましてくれた心強い言葉。その場ではその程度にしか思っていなかったが、目の前の光景を見て確信する。
この現実は、廣瀬先輩が生み出してくれたのだと。
泣きそうになった。本当にあの人は、あの状況を解決してくれた。どうしようもないと思って打ちひしがれていた自分に救いの手を差し伸べてくれた。こんなに嬉しいことはない。
目元を拭い、空は頭を下げ続ける真宵に目を向けた。
この人は自分に酷いことをした。人によってはずっとトラウマとして抱えるようなことだと思う。そんな簡単に許していいのかと思わなくもない。
でも今は、他人の目に晒されることも厭わず、後輩の自分に頭を下げている。反省してくれている。
空にとっては、その事実だけで充分だった。
「頭を上げてください、先輩」
空が優しく声を掛けると少し呆けた表情で顔を上げる真宵。その瞳はじんわりと潤んでいた。
「先輩にされたこと、多分ずっと忘れません。それだけ自分にとっては衝撃的でした」
「そう……だよね……」
「でも、これ見よがしに引きずるつもりはありません」
「えっ……」
「だって先輩、こうして謝ってくれたじゃないですか」
「……っ!」
空が笑いかけると、真宵は感極まったのか表情を歪ませた。泣くのを必死に堪えているように見えた。
「反省してくださってるのも伝わりました。だからこの件は終わりです、先輩もこれ以上は気になさらなくていいですからね」
「……うん……ありがとう」
真宵は右手を目元に当てて、ボソリと感謝の意を空へ伝えた。こうしてお互いにわだかまりがなくなったことを心の底からホッとしていた。
空も空で、あいちゃんと目を合わせて微笑み合う。これからは先輩といがみ合うことなく学校生活を送ることができる。その事実は間違いなく空を安堵させていた。
「そ、それじゃあこれで」
少し沈黙が生まれ気まずくなった空は、泣いているように見える真宵に気を遣ってそう切り出した。自分が泣いているところなんて見られたくない、茶道室のことを思い出して空は余計にそう思った。
「ちょ、ちょっと待って」
だがしかし、真宵は目元を拭って空を引き留めた。
「これとは別に、1つだけ言いたいことがあって」
そう言うと、大きく深呼吸を始める真宵。どうしたことだろうと空がその様子を窺っていると、次に真宵は自分の両頬を思い切り叩いた。
――――そして、空に向けて右手の人差し指を向ける。
「あ、青八木のこと、あんたには負けないから! さっきの話とこれは別だから! 絶対負けないから!」
最終的に頬を真っ赤に染めた真宵は、それだけ告げると逃げるように階段を下りていった。
ポツリと取り残された空は、少ししてようやく宣戦布告されたことに気が付く。
心が高揚した。ライバルが増えて困るはずなのに、空の表情には笑顔が溢れていた。
「私だって負けませんから!!」
すぐさま空は階段の手すりに寄り添い、下に向けて大声で宣言した。他の生徒に何事かと注目を受けるが、知ったことではない。嫌がらせのような邪魔立ては嫌だったが、こういう正々堂々とした展開ならば望むところであった。
「空ちゃん、なんか大変なことになっちゃったね」
「全然。前に比べたらたいしたことないって」
「それはそうかもだけど」
心配するあいちゃんをよそに、空は1つだけ疑問に思っていたことがあった。
どうして今更、真宵は自分に宣戦布告をしてきたのだろうか。
真宵が雨竜を好きであることは察していたが、自分のようにアプローチができないため、ああいった行為に及んでいるのだと思っていた。それがどうして、今になって動こうと決意したのか。
少し考えて、あっと言う間に結論が出た。
この一連の事件、もう一人大きく関わっている人物がいた。そしてその人は、簡単に優しい言葉をかけられる人だ。それが優しいだなんてまったく自覚を持たないまま。
「はあ、私の応援をしてくれるんじゃなかったんですか……」
「どうしたの空ちゃん?」
「ううん、これからもっと大変だなぁと思って」
そんなことを溜息と同時に零すが、思ったより嫌な気分ではなかった。
それもこれも、根本の問題が解決して晴れやかな気持ちになったからだろう。
今は放課後、これから部活を欠席して感謝を伝えるのはさすがに厳しい。そんな中途半端な真似は恐らく望まれていない。部活は部活で集中すべきである。
だから空は、来週の朝1番にはその気持ちを伝えようと、今の内からひっそり決意するのであった。




