40話 慟哭・憤怒
僕は小走りするあいちゃんに追走しながら、これまでの経緯を聞いていた。
「お昼休みにトイレで空ちゃんと別れた後、私は教室に居たんです。でも空ちゃん……グスッ、5限ギリギリになっても、戻ってこなくて」
話しながら気持ちが膨れ上がったのか、泣きじゃくってしまうあいちゃん。それでも僕に伝えようと、必死になって言葉を紡いでいた。
「そしたら空ちゃんから、『体操服持ってトイレに来て』って連絡がきて、何のことかなって思ってトイレに向かったら、向がっだら……!」
「……いいよあいちゃん、もういいから」
言葉に詰まるあいちゃんへ、これ以上は不要だと僕は伝えた。
ここまで聞けば、さすがに内容を察することができる。これまでの経緯を聞いていれば尚更のこと。
そこからあいちゃんの鼻を啜る音だけが響き、目的地へと辿り着いた。
「空ちゃんを落ち着かせる場所、ここしか思いつかなくて。私なら鍵も借りられますし」
そう言ってあいちゃんは目的地――――茶道室の入り口に手をかける。
「空ちゃん、入るよ?」
震える声で呼び掛けてから、あいちゃんはゆっくり襖を開けた。
そこには、体操服に着替えた蘭童殿の姿があった。体育座りで身体を丸める彼女は、普段よりさらに小柄に見えた。
そして頭には、白いタオルを被せている。言わずもがな、髪の毛は濡れていた。横に置かれた湿った制服が、何が起きたかを如実に表していた。
「……廣瀬先輩」
タオルの隙間から覗く虚ろな瞳が、ぼんやりと僕を捉えていた。いつも元気な蘭童殿とは思えないほど、まるで生気を感じない。見慣れない体操服姿ということもあり、本当に別人だと疑うほどだった。
「廣瀬先輩、怒らないで、聞いてくださいね?」
小さな声なのに、やけに明るい口調に聞こえてしまった。よく見ると、蘭童殿の口角は上がっていた。状況を鑑みれば笑える要素など何もない。それでも蘭童殿は口元を緩ませて話を進める。
「私、そんなに青八木先輩のこと、好きじゃないのかもしれません」
蘭童空から出た言葉だと到底思えず、僕はギョッと目を開いた。言葉の真意を少しでも早く知りたくなった。
「接点を持つ前から、格好いい人だと思ったんです、笑顔が素敵で。でも親切に道案内してくれたときから、優しい人でもあるんだって心奪われたんです。これが恋なんだって、私の初恋なんだってそう思いました」
一言一言、雨竜との思い出を語っていく蘭童殿。あまりにも日常的な語り口調で、隣にいるあいちゃんも呆気に取られているようだった。
「私が恋した先輩は、学内でもとても人気な人だとすぐに知りました。告白した人は数知れないのに、付き合った人は誰もいない。告白できずにくすぶってる人は多数、ライバルは女子生徒の数だけいる。そんな本当かどうか分からない噂を聞きながら私は思いました、負けるものかって」
そうだ。僕の知ってる蘭童空はそういう人間だ。周りには決して惑わされず、雨竜との関係を積極的に詰めようとする。そういう人間が今までいなかったからこそ、僕は蘭童空を尊敬していた。
「だから私は頑張りました。少し照れくさかったし緊張もしたけど、青八木先輩の教室に通うようにしました。部活だって同じ部に入りました。重いのは自覚してましたが、これくらいやらないと私を見てくれないって思ったから。それだけ私は、青八木先輩のことが好きだったんです。好きで好きでアプローチして、周りがどう思おうが気にせず突き進んで、そんな時間が本当に幸せで、崩れることなんてないって、本気で、思ったんです」
軽やかに進んでいた蘭童殿の話が、詰まるようになった。受け入れたくない現実から目を背けるように言葉が進まない。
「本気で、そう思って、誰にも負けないって、そう思って……そう思ったのに……思ったのに……!」
その瞬間、蘭童殿の口元が歪んだ。無理に弾ませていた声は水分を含み、瞳からは涙が溢れ出していた。
「こんなことで私、あっさり折れちゃった……! 誰にも負けないって思ってたくせに、もう無理だって思っちゃった……! こんな私が、青八木先輩の隣に立つ資格なんてないんだよぉ!」
張り詰めていた糸が切れたように、蘭童殿は感情を爆発させた。小さな子どものように、それでも声を押し殺す為に顔を伏せて泣く。
「先輩! こんなことが普通にあるんですか!? なんで空ちゃんがこんな目に遭わなきゃいけないんですか!?」
蘭童殿に釣られるように、あいちゃんも自分の思いを赤裸々に吐露した。
そうだ。あいちゃんの言う通りこれは普通にあることじゃない。多くの人間が経験し得ない非日常だ。こんなことを当たり前だと言うなら、人間社会などもはや救いようのないほど腐り切ってしまっている。
だから僕は、どうしても許せないことがあった。
「――――ふざけるな」
僕は蘭童殿に歩み寄ると、タオルのかかった頭にチョップを入れた。
蘭童殿は泣くのをやめ、涙で潤んだ瞳を丸くして僕を見た。信じられないことをされたと主張するその顔に僕ははっきり言ってやる。
「こんなことって何だ? トイレで頭から水を被るのが、こんなことで済むと思うのか?」
「……先輩?」
「済むわけないだろ、こんなことで済むわけがない。蘭童殿がもう無理だって思うのが普通なんだ、泣いたって折れたって仕方ない。こうなった以上は仕方のないことなんだ」
僕は雨竜の隣の席で、懸命に励む蘭童殿の姿を見てきた。雨竜の反応に一喜一憂する彼女を見てきた。そんな僕だからこそ、誰よりも自信を持って言うことができる。
「だからさっき言ったことは取り消せ、蘭童殿は雨竜の隣に立つ資格がある」
自分の思いを告げると同時に、僕の頭にゆっくり血が上っていく。湧いてくる怒りの感情を止められそうにない。
「1週間くれ、それで全てを解決してみせる。だから蘭童殿は気にせず今まで通り頑張ってくれ。キツいかもしれないが、これ以上は何も起こらない。約束する」
「先輩……あの……」
「僕は席を外す。あいちゃんは蘭童殿の側にいてやってくれ」
「えっ、せんぱ……」
僕は2人にそれだけ言って、茶道室を出た。残念ながら今すぐできることはない、一旦教室に戻ろう。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
振り返ると、あいちゃんが僕を引き止めようと追いかけて来ていた。
「どうしたんだあいちゃん」
「いや、その、さっきの言葉の意味を聞きたくて」
「さっきの言葉?」
目元を拭うと、あいちゃんは期待に満ちた瞳で僕を見た。
「廣瀬先輩から名取先輩に止めるよう言ってくださるんですか?」
はは、一体何を言ってるんだ。僕はあいちゃんの的外れな言葉に思わず笑ってしまった。
「そんなことするわけないだろ、どうして僕が止めるよう言わなきゃいけないんだ」
「えっ……」
「そんなことは頭の悪い負け犬がすることだ、はっきり言って検討する気も起きないね」
あいちゃんの表情が一転、絶望感に打ちひしがれたように暗くなる。あまりに救いのない僕の言葉が心に刺さったのだろう。だが事実だ、僕が名取真宵に止めるように言うことはない。
――――止めるなんて、そんな消極的な手段を取るつもりはない。
「あいちゃんはさ、ハンムラビ法典って知ってるか?」
「……へっ?」
「僕はあんまり好きじゃないんだが、196条と197条に関しては最高でな、これが日本の法律にあればと思わない日がない。この教訓こそ僕の礎になってると言っても過言じゃないほどだ」
この意味があいちゃんにどれほど伝わったか分からない。だが別に伝わらなくてもいい。ここからの行動は全て僕の独断、誰かに認められたくてやるわけじゃない。
名取真宵よ、お前がもし今も雨竜へのアプローチを続けていたなら、僕はそれを全力で応援していただろう。蘭童殿の良きライバルとして、お互い鎬を削っていたはずだ。
だがお前は、絶対に選んではいけない選択肢を掴んでしまった。自分ができないことができる他者を貶めようとする行為、そんな悪道を決して僕は許さない。
――――目には目を、歯には歯を、だ。
覚悟しろよ名取真宵。僕が尊敬する蘭童殿を傷つけたこと、一生後悔させてやる。
※いつも閲覧ありがとうございます。
これより3話、過激な表現が入ります。ご了承ください。




