30話 お荷物
朱里とのデートを終え、家に帰ってきた僕は、手洗いうがいを済ませて自室のベッドに横になった。
夕食はすでに準備ができているようなので父さんには悪いが、1人で頭を落ち着かせる時間が欲しかった。
『廣瀬君、好きだよ』
彼女の気持ちは分かっていたし、だからこそデートを計画して実行に移した。恋愛感情はともかく僕だって朱里は好きだし、今日のデートだって楽しかった。彼女らしい暴走があって、僕が諌めて平和に落ち着いて、馬鹿話をして進む2人の時間。いつものやり取りの延長に、あらためて想いを告げる時間があっただけ。
それなのに、僕の感情はこうも揺さぶられている。その理由が分からない。僕の中で何かが変わったのか何も変わらなかったのか、それさえ見えてこない。
……いや、何も変わらないならこうして戸惑うことはないだろう。僕の中で何かが変わったから、その答えを探り出したいのだ。
「あっ」
ふと、朱里と撮影したプリクラのことを思い出した。彼女が恥ずかしがってその場で見ることはできなかったが、一体何が書かれているのか。
机の上にある財布を開き、その中からプリクラ用紙を取り出して写真を見た。
『初プリ記念』
『ゆきや&しゅり』
『BIG LOVE』
『ずっといっしょ』
デコレーションが多かったが、それでも読み取ることのできたフレーズがいくつもあった。そしてそれは、朱里の気持ちがそのまま乗っかったものなのだろう。
それらのフレーズと写る僕らの姿は、さながら本当の恋人のようだった。
プリクラを初めて経験できると喜んでいた僕とは違い、朱里にはもっと特別な想いがあったんだ。このプリクラ用紙からは、その気持ちが伝わってくるようで、ますます彼女の想いを意識させられる。
もしや、これが恋愛感情というものだろうか。だとしたら、とても素直に嬉しいものとは言い難い。困惑しすぎて大好きな父さんとのやり取りも覚束ない、落ち着けばなんとかなると思いたいのだが。
しかしながら、よくもまあ今日明日のデートで決着をつけようと思ったものだ。たった1回のデートでここまで揺さぶられて、明日には結論が出ている気がしない。正直言って、心を落ち着かせるために梅雨のデートは来週以降に回したいくらいだ。
ただ、受験生の彼女に予定変更で振り回したくはない。彼女だって朱里と同様楽しみにしてくれているのだ、僕の都合で延期などできるはずがない。
これに関しては僕の目論見が大きく誤っていた、梅雨に呆れられないようさっさと気持ちを切り替えなくてはならない。せっかくのデート、楽しめないのであれば彼女に悪い。
「ん?」
まずは夕食にありついて頭をリセットでもしようと思ったところで、スマホが震えていることに気が付いた。
表示はなんと梅雨、明日のデートの相手である。
「もしもし」
『夕食時にごめんなさい、今大丈夫ですか?』
梅雨との電話では開口一番のトーンで彼女の機嫌をなんとなく把握できるのだが、今日は少し元気がなさげだ。
「大丈夫だ、何かあったか?」
『何か、というわけではないのですが、1つお願い事がありまして』
「お願い事?」
煮え切らない言い回しをする梅雨に聞き返すと、若干の間を置いてから彼女は言った。
『明日のお出かけなんですが、わたしの家に寄っていただいてもよろしいですか?』
弱々しい声で何をお願いしてくるのかと思いきや、全然大したことではなかった。現地待合せを止めたいというだけである、そんなの改まって言うことじゃない気がするんだが。
「問題なし、通り道だしな」
『ありがとうございます。ホッとしました』
「なんだ、大きな荷物でもあるのか?」
『大きな荷物というか、お荷物があるというか……』
「はっ?」
『いえいえいえ! こっちの話です!』
慌てた様子の梅雨に疑問が浮かんだが、大きな声は出ていたのでこちらも安心する。彼女の不安が払拭できたなら良しとしよう。
「用件は以上か?」
『は、はい』
「そうか。じゃあ明日はよろしく頼むな」
『あの、雪矢さん』
「ん? どうした?」
先程の件は解決したと思っていたが、梅雨はまだ何か不安要素があるらしい。焦らず彼女の言葉を待っていると、
『明日、雪矢さんにはいっぱいご迷惑を掛けちゃうと思いますが、それでも許してくれると嬉しいです』
明日に対しての梅雨の思いを聞くことができた。
そうか、どこからしくない彼女を見せられているとは思ったが、梅雨にとっても大切なデート、緊張していないわけではない。
そうだ、いくら青八木さん家の血液が流れていようと緊張するものはするのである。化け物染みた姉や兄のように扱ってはいけない、自分より2歳も年下な訳だし。
「心配するな。寛大な心を持つ僕なら仏の3倍は許してやれる。だから気楽に楽しもうじゃないか」
というわけで僕なりに梅雨のフォローをしてみせる。緊張してしまうのは無理もないが、もう少し心に余裕を持ってほしい。デートは楽しんでナンボだろう。
『はい、雪矢さんの顔を9回殴らないよう善処します』
しかし彼女は不穏な言葉を残して通話を切ってしまった。いや、仏だって顔にグーパンチ決められたら一発でブチ切れると思うんだが。
結局、朱里への気持ちと梅雨への不安が残ったまま、明日を迎えることとなってしまった。
ー※ー
翌日、僕は父さんチョイスファッションを身にまとい、電車で青八木さん家へ向かった。
今日は池袋でデートを予定している。先週の視察は渋谷だけだったが、同じ場所で同じルートを回ったんじゃ2回目になる梅雨に悪いと思ったからだ。
渋谷程ではないが視察はできているしルートもバッチリ考えている。早々に梅雨の不安を払拭できれば良いのだが、僕の腕の見せ所だ。
一旦途中で電車を降りて、青八木家へ向かう。もはや通り慣れた道となっており、迷うことなく進むことができる。
見慣れた広い庭を横切り、入り口の横にあるチャイムを鳴らす。そういえば今日雨竜はいるんだろうか、ああ見えて暇人だからいるかもしれない。揶揄われるのはウザったいが仕方ない、完全無視して乗り切ることとしよう。耳を通らなきゃ揶揄いなんてノーダメージだ。
「ゆ、雪矢さん、いらっしゃいです」
「おう、おはようさん」
少しすると、ゆっくりとドアを開けて梅雨が顔だけ外に出した。
表情は笑っているが疲れているように見える、本当に大丈夫だろうか。
「それじゃあ上がってもらっていいですか?」
「上がる? まだ準備できていないのか?」
梅雨の手荷物でも持ってそのまま出る流れかと思いきや、まだ準備が終わっていないらしい。まあ別に細かいタイムスケジュールを組んでるわけではないので良いんだが、ここまで梅雨はズボラだっただろうか。
「いえ、準備は完了してるんですが逃げ道はどこにもなく」
「逃げ道?」
「せめてわたしの部屋で時間稼ぎをしたくてタイミングを窺っているというか」
「時間稼ぎ?」
とてもこれからデートに向かう人間の語彙ではないのだが、彼女は一体何と戦っているのだろうか。
ーーそして、その相手はあっさりと姿を現した。
「もしもし梅雨さん? ドアから頭だけ出してどうしたんですか?」
女性の声だった。その瞬間、梅雨はどこか諦めたかのように眉を落とし、玄関のドアを大きく開けた。
「あらあら、いらっしゃるなら言ってくれないと。貴方が廣瀬雪矢さんね?」
玄関の先に立っていたのは、雨竜や梅雨と似た明るさのミディアムヘアを携えた、佇まいさえ美しい女性の姿。
柔和な笑みは美晴より引き込む力を持っており、そこいらの男どもなどワンターンで瞬殺してしまうレベルである。
ウチの母親とはまた別の意味で年齢詐欺をしているこの女性の正体、流石に僕でも分かってしまう。
「初めまして、青八木雨音と申します。雨竜さんや梅雨さんの母です」
恭しく頭を下げられ、僕も反射的に会釈を返した。
梅雨とのデートを実行するはずだった日曜日の朝、僕は青八木さん家で青八木さんのお母さまと挨拶を交わしていたのだった。




