57話 前払い
「お前それ、どういう意味か分かってるのか?」
僕は慌てず、つとめて冷静に梅雨に返答する。あまりに現実離れした問いかけのおかげで、少しだけ頭をクリアにすることができた。
「馬鹿にしないでください。そこまで子どもじゃないです」
「だとしたら、冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ」
僕だからこそ何気なく振る舞うことはできているが、並大抵の男であればこんな美少女を目の前に先ほどのような言葉を掛けられて平静でいられるはずがない。
今のうちに矯正してやらなければ、追々悪い男に騙されるかもしれない。知人として、僕は梅雨の間違いを正してやろうと思った。
「だって雪矢さん、お兄ちゃんと電話で話してたじゃないですか。『淫らな夜を過ごしても文句は言うな』って」
「あっ」
どうして梅雨がやけに積極的だったのか、今の言葉でようやく理解した。
この子はきっと、この状況に対して自分なりに責任を取らなきゃいけないと思っているんだ。
僕が望むことを自分なりに模索して、返そうと思っているんだ。だからこうもふざけた展開ができあがっているのである。
あれは雨竜を困らせるためだけに言った言葉であって、その行為自体を望んで言ったわけではない。
そう説明してやるのは簡単だろうが、頑固な梅雨が納得するとは思えない。自分に遠慮して僕が我慢していると解釈したら、否定するのは面倒な方向に話が進むだけだ。
――――ならば、梅雨の言葉を受け入れる方がよっぽど楽である。
「何かしてもいいんだな?」
何もしないのかという梅雨の問いに問いで返すと、梅雨は大きく目を見開いた。不安で揺れる瞳を大きく揺らすと、覚悟を決めたように目を閉じ、小さく頷いた。
梅雨なりに、僕を受け入れる体勢ができたということである。
しかしながら、気持ちと身体が一緒になっているわけではない。現にギュッと目を瞑る梅雨の表情が強張っているのが分かるし、身体は僅かに震えている。僕の言葉の意味が分かっているというなら、この後どういう展開になるのか予想がついているのだろう。でなければ、梅雨の身体はここまで正直に反応していないだろう。
僕は正直安心する。真意を読み取れる前の梅雨の行動は大人びていて、少し圧倒されていた。だが、心の内が明らかになった今、恐れることは何もない。人生経験乏しい中学三年生の少女にこれ以上無理させないよう行動するだけである。
僕は布団の中に隠れていた右手を梅雨の方へと伸ばしていく。
そして――――――震えるその身を安心させるように梅雨の頭を優しく撫でた。
分かりやすくその身体は硬直する。塞がっていた瞼がゆっくりと開かれていく。僕の行動がそれほど予想外だったのか、梅雨は驚いて僕から目を離さなかった。
「……どうして」
梅雨の言葉を無視して、僕は何も言わずに頭を撫で続ける。さらさらと流れていく髪の毛を撫でるのは案外気持ちよかった。手櫛というのは案外くせになるのかもしれない。
それなりに満足した僕は、手を元の位置に戻して梅雨に語りかける。
「何かしていいって言ったのは梅雨だろ?」
「そ、そういう意味じゃなくて!」
「約束したしな、頭撫でるって」
「それは、お父さんとの話がうまくいったらって……」
「そうだ。だからこれは前払いだ」
そう前置きして、僕は言葉の意味を理解できていない梅雨にはっきり言った。
「今度お父さんに進路の相談をする機会があったら必ず納得させろ。成功報酬は払ったんだ、失敗は許さん。まあ僕が助言したんだ、失敗なんてあるはずもないが」
「雪矢さん……」
「それでも失敗するようなドジを踏んだら、その時はお望み通り淫らな夜を体感させてやる。立派な違約なんだから、お前に拒否する権利はないからな。嫌なら全力で両親と向き合うことだ」
「……」
「……い、以上だ! 理解したならグダグダ言ってないで寝ろ! 目覚まし鳴っても起きなかったら、容赦なくたたき起こすからな!」
僕は真っ直ぐ注がれる梅雨の視線から逃れるように、これ以上会話に応じるつもりはないと言わんばかりに彼女に背を向けた。
はあ、どっと疲れた。こんな状況でも冷静でいられる僕はやはり素晴らしいな。まあ梅雨が無理してるって分からなかったら若干余裕がなかったかもしれないが。もちろん若干だ。若干だけど。
梅雨が責任を感じてる部分を先延ばしにすることで、この場は何とか凌ぐことができた。梅雨がお父さんとの相談を無事終わらせれば、引きずらなくていいよう言ってある。万が一失敗するようなことがあれば、それはその時考える。こういう状況さえ作らなければ梅雨だって無理に言ってくることはないだろう。この場さえなんとかなれば以降はどうとでもなる。
――――そう思って、完全に油断していた時だった。
「なっ……!」
突如腹部辺りに手を回され、背中から柔らかい感触が伝わってきた。呼吸をする音が先ほど以上に近くで感じて、僕は呆気に取られていた。
梅雨が、僕を後ろから抱きしめていたのだった。
「ちょ梅雨、何を……」
「分からないです。分からないですけど、すっごくこうしたくなりました」
梅雨の腕に力がこもり、僕らの密着度が増していく。この馬鹿、自分が今下着をつけていないこと忘れてるんじゃないだろうな。服越しとはいえ、以前事故で触れた時よりも感触が伝わってきている気がする。これはまずい、とてもよろしくない。
「えへへ、雪矢さんの匂いがします」
「変態みたいなこと言ってないで離れろ! 眠れないだろ!?」
「嫌です。今日はこのまま寝ちゃいますから」
「はいっ!?」
梅雨は僕の首元に頬を埋めて、本当にこの体勢で眠ろうとしていた。ちょっと待て、お前は抱き枕感覚で眠れるのかもしれないが、僕は絶対に無理だぞ。そもそも普通に狭くて寝苦しいし。
「おい梅雨いい加減にしろ! マジで淫らな夜にされたいのか!?」
「そうなったらなったで仕方ないです。元々そういう覚悟はしてましたし、頑張って受け入れます」
「ぐぬぬ……!」
ダメだ。性的な脅しにもまったく屈しない。今日のやり取りで肝が据わったのか、まったく動揺する気配がない。僕が何もする気がないのを理解していてこの行動なら、とんだ悪魔だぞこの子は。いや、受け入れようとしている姿勢にも問題があるんだが。
「それじゃあ雪矢さん、お休みなさい」
「待て待て、ホントにこのまま寝るのか? 絶対に寝づらいと思うがいいのか?」
「すぅぅ……」
僕への返答が煩わしくなったのか、わざとらしく寝息を立てる梅雨。離れる気はないというはっきりとした意思表示をされてしまった。
勘弁してくれ、僕だって疲れて眠りたいのにとてもじゃないがそんなことできない。兄貴分ってこんなに大変なのか、そもそも兄貴分の役割かこれ。雨竜も随分苦労していた気がするが、明らかに僕とはベクトルが違うだろ。
目が冴えてしまった僕は、寝たふりをする妹分に聞こえるよう溜息をついた後、早く4時間が経過しないかと思うのであった。




