55話 寝る場所
「だいたいこんなもんか」
しばらく梅雨と意見を言い合い紙にまとめていると、時間は日を跨ぐ30分ほど前になっていた。どうやら2時間近く対策を検討していたようだ。
「くぅ~、疲れました~!」
梅雨は両手を組んで真上に上げて、背筋を伸ばす。パツパツになっている胸元が強調されるが、それに気付いた梅雨はすぐに体勢を戻した。
「……見えました?」
梅雨は前屈み気味で胸元を隠すと、上目遣いで僕を見た。なかなかにそそる表情だった。
「そりゃ見るだろ」
「……それだけですか?」
「ん? それ以外に何かあるのか?」
「いえ! 特に何でもないです!」
少し安心したように息を漏らすと、何度か衣服を前方に引っ張る梅雨。どうしたんだ、頭を使いすぎて言動がおかしくなったのか。『見た』じゃなく『見えた』って聞いてくるのも変だしな。どうしたって見えるに決まってるだろ。
まあいい。区切りがついたところだし話を戻すか。
「お父さんとお母さんがしてきそうな質問をまとめて、その回答はここにまとめた。次にいつ話すか分からないが、全部覚えて淀みなく答えられるようにするんだ」
「はい!」
「攻略するのはお母さんから。お母さんを味方につけて、そこからお父さんに納得してもらえるよう進めろ。お母さんが先に時間を取れそうなら、根回ししておいた方がいいだろうな」
「お母さんはお父さんほど忙しくないので、先にお話ししたいと思います!」
「よし。後はそうだな、時間が合えば雨竜も同伴させた方がいい。今の学校を知ってるのはあいつだけだし、フォローに回ってくれれば心強いだろう」
「雪矢さん、何だかんだお兄ちゃんのこと認めてくれてますよね」
「認めてない。氷雨さんや梅雨が思うほどできない奴じゃないってだけだ」
「わたしだってお兄ちゃんのこと頼りにしてますよ? 雪矢さんの方が頼りになるって思ってるだけで」
「あのな、ウチの学校来たらすぐに考え変わるぞ? お前の兄がどれだけ慕われていて――」
「――――それでもわたしは、雪矢さんに今日助けられました」
そう言った梅雨の面持ちは、いつの間にか楽しげなものから真剣なものへと変わっていた。
クッションの上で姿勢を正すと、床に手を着き頭を深く下げる。
「雪矢さん、今日は本当にありがとうございました。雪矢さんがいてくれなかったらわたし、明日も見えずにずっと泣いてたと思います。わたしと一緒にいろんなこと考えてくれて、助けてくれて、感謝の言葉しかありません」
そう言われて僕は、家の前で蹲っていた梅雨のことを思い出していた。
大雨に打たれた梅雨は笑顔だった。違和感を覚えていたがずっと明るく振る舞っていた。本当はどれほど心細く辛い状況だったか僕に知るよしはない。
だが今は、本音を吐露した上で前を向けている。本当の意味で笑顔を浮かべることができている。それがこの家に来たおかげだと言うなら、確かに僕は多少なりとも感謝されてもいいのかもしれない。
「気にするな。僕はお前の兄貴分だからな」
だから僕は、軽快な物言いでそう言った。雨竜がいつか言った、梅雨は僕を『第二の兄のように思っている』という言葉を元にフォローした。面倒くさいのであんまりアテにされても困るが、兄貴分として多少の相談は乗ってやってもいいと思う。僕は寛大だからな。
「そ、そうですね」
しかしながら、顔を上げた梅雨の表情は何とも言いがたい複雑そうなものだった。喜ぶものだと思っていたが、馴れ馴れしかったのだろうか。
「どうした、兄貴面は迷惑だったか?」
「いえいえ! そんなわけあるはずもなく!!」
「じゃあ何だその顔は?」
「それがわたしにもよく分からなくて。前は雪矢さんみたいなお兄ちゃんがいてくれたら嬉しいって思ってたのに、今はあんまりしっくりこなくて」
「なんだそりゃ」
「なんだそりゃ状態です」
2人して首を捻っていたが、結局よく分からなかった。兄貴分が嫌なわけではないというのは確かなようだが、梅雨自体よく分かっていないというのは不思議な話である。
「ふぁあああ」
しばらくして梅雨が大きな欠伸を漏らす。瞬時に口元を手で隠すがどう見ても遅い、梅雨は顔を赤らめて目を逸らした。可愛らしい反応である。
「やることはやったし、そろそろ寝るか。明日は始発に乗って帰るんだから」
「えっ、それ早すぎないですか? 5時間も寝られない気が」
「半ば強引なお泊まりなんだ、早く帰るに越したことはない。梅雨だってお母さんを安心させたいだろ?」
「それはそうですけど……」
「なら決まりだ、さっさと寝るぞ」
「はーい……」
僕は立ち上がると、若干不服そうな梅雨の頭を軽く2度叩いてからドアの方へ向かう。
「えっ、雪矢さんどこに行くんですか?」
僕が外に出て行くのを察知して、梅雨は振り向きながらそう言った。
「リビングだ。僕はテレビの前で寝るから。梅雨は僕のベッドを使っていいぞ」
この家にベッドは3つしかない。父さん用、母さん用、そして僕用。2人の寝室にあるものを借りるわけにもいかないので、梅雨には僕のベッドを進呈する他ない。我が家にソファでもあればもう少し快適に眠れたのだろうが、今日はフローリングの上で勘弁してやろうじゃないか。
「そんなのダメに決まってるじゃないですか!!」
しかし梅雨は、僕の腕を取って制止させた。首を左右に振って僕の案を否定する。
「なんだ、僕のベッドは不満か? そりゃ男のベッドなんて使いたくないだろうが……」
「そういう意味じゃなくて! わたしが勝手に押しかけたんですから、床で眠るならわたしがそうします!」
「何を言ってるんだ、客人にそんなことさせられるわけないだろ。僕のベッドが嫌じゃないなら使え」
「嫌です!!」
「えっ、嫌なの?」
「いやだからそういう意味じゃなくて!!」
話がループしていることに気が付いた梅雨は、少し冷静に呼吸をしてから僕を見据える。
「雪矢さんがベッドを使わないなら、わたしも使いません」
「それはダメだ。お前を預かってる身として青八木家に安全に返す義務がある。床に寝かせて万が一首でも寝違えたらお前の家に顔向けできん」
「なんでそんな真面目なんですか!? 普段はもっと適当じゃないですか!?」
「適当言うな! 僕はいつだって真面目で真剣だ!」
「とにかくわたしはベッドを使いません! 雪矢さんが使ってください!」
「それは許さん。ベッドを使わないって言うなら今すぐ帰らせる。電車ならまだ出てるしな」
「そしたらわたしは駅前で野宿します! 野宿して首を寝違えて帰ります!」
「寝違えるな! すぐ帰れ!」
「帰りません!」
「ぐぬぬ……!」
この妹分め、余裕が出てきたのか随分頑固じゃないか……!
床で寝ろと言って楽になりたいが、客人を持て成すのは当たり前だと父さんに教わっている。来たときよりも快適な気持ちで帰ってもらうことこそがおもてなしであり、それを実行できるのにしないのは父さんの言葉に反する。それは絶対にあり得ない、何か折衷案を出さなくてはいけない。
「じゃあ梅雨。どうしたらお前がベッドで寝るか教えてくれ」
そう質問して、僕はとても厄介な事実に気付いてしまう。
梅雨は先ほど、僕がベッドを使わないなら自分も使わないと言った。つまるところ、僕がベッドを使えば梅雨もベッドを使うということである。
――――それが指し示す折衷案は1つしかない。
嘘だろ、本当にそれしかないの? 唐突に梅雨から妙案が出て回避できるパターンがあるんだろ、そうだと言ってくれ。
「……えっと、その……雪矢さんも一緒ならわたしは……」
だがしかし、僕の祈りも空しく、事実に気付いて顔を真っ赤にした梅雨の結論も僕と同じだった。
梅雨がベッドに入るには、僕も一緒のベッドで眠るしかないのである。




