Princessバレンタインの惨劇 ~実践編~
惨劇の香り(ver.磯)が漂う、台所のただ中。
そこには割烹着に三角巾のお姫様がいた。
人目に晒すことのない腕に、衛生面に考慮して薄い手袋を装着し、顔に猫さんマスクをつけて。
しかし装備した手袋の出所はリアンカちゃん。
彼女が使わなくなった、お薬の調合時用の作業用手袋である。
時にダイレクトに毒の粉を浴び、薬の粉末にまみれ、謎の液体がかかってきた。
物にはそれなりの過去と由来がある。覆しようのない、過去が。
その手袋に細かく何が付着しているのか……考えない者は幸いである。
衛生に気を付けるという、立派な観念を持つせっちゃん。
しかし彼女は肝心なところで何というか……うっかりさんだった。
「それじゃあ、リリ。後はせっちゃんのお仕事ですの。頑張りますのー!」
「主様……本当に、お手伝いは必要ないんですか? お手伝いするにしても、料理適性のない私が手を出しても惨事にしかなりはしないでしょうけれど……」
「心配御無用ですの!」
そう、心配は無用。無用なのだ、リリフ。
何故なら君が手を出すまでもなく、立派な惨事の気配がする。
既に惨劇は予約されているのも同然なのだから。
「リリ、気持ちは嬉しいんですの。でもこれはせっちゃんが、自分だけで頑張りたいんですの。だってせっちゃんの真心を込めるんですもの!」
「主様……はい、わかりました。私は主様を信じます」
「有難うですの。代わりに完成したら、リリに一番に試食してほしいですの」
「はい!」
そうして、健気ながらも行動が自覚もないまま斜め上に突き抜けた少女達は。
笑顔で手を振り、暫しの別れを決めた。
竜の強靭な胃袋と大味な味覚センスを持ってして、試食に意味があるのかは不明だが……
こうして、天岩戸(危)は閉ざされたのである。
取り残されたのは可憐な美少女が一人。
彼女はヨシュアン謹製のレシピブックを台に固定し、いつでも覗けるようにしてから作業に取り掛かる。
ちなみにあらかじめレシピを読みこむという発想はない。
実兄魔王とのお料理タイムを思い出し、感覚とフィーリングと成行きに身をゆだねる心地で製菓(謎)を開始する所存だ。
「まずは、練習に簡単そうなのから始めましょうですの」
練習、簡単なものから。
そのくらいの発想が出来るのであれば、何故に事前にレシピの研究という大事な過程を抜かすのか……。
それは、誰にもわかりはしない。せっちゃん以外には。
「あに様、リャン姉様、せっちゃん頑張りますの!」
貴女の頑張りどころは、盛大に間違われています。
そう親切に声をかける者もなく。
ツッコミ不在のまま、一人きりでのキッチンタイムが始まった。
「ええと、えーと……あ、これが簡単そうですの!」
レシピに添えられたヨシュアンの挿絵だけを頼りに、実際の工程にかかる難易度その他を無視して、やがて開いたそのページ。
タイトルには堂々とした達筆で、こう書かれていた。
「【 ダックワーズ 】」
品名を口に出して、せっちゃんは読み上げる。
品名だけを。
次いで感性のままに、手を伸ばす。
「えーと……ダック、ダック」
彼女が手に取ったモノは。
一般的に我々が知る名称では、こう呼ばれている。
北京ダック――と。
「料理は愛情ー、情愛ー? んっと、『美味しくなるように呪文を唱えながら作りましょう』ですの?」
じゅもん、呪文ー……と、考えた末。
確かに呪文を唱えながら作れば愛情も籠るかもしれない。
思い至ったせっちゃんは手を動かしながらも、笑顔で呪文を口ずさむ。
「えこえこあざらくー!……ECOなあざらく? アザラシー?」
何が引っ掛かったのか、首を傾げながらレシピとにらめっこ。
だがレシピには別に正しい呪文など書いてある訳もなく。
自分の納得のいくように思い当たる呪文を唱えながら手を動かすも、意識は呪文に気を取られて上の空。
手元がおろそかになりがちだ。
「うーんと……メレンゲ? 蓮華、蓮華……レンゲ? 食器の方ですの、お花の方ですのー? 目を生やせば、どちらでも良いんですの?」
更なる異物混入はなるか。
今更、異物混入自体は手遅れだが、更に色々なモノが混ぜられようとしている。
「え? 陛下、もう一度お願いします。ワンモア」
「だから、せっちゃんが使ってんだよ」
書類から逃げ出そうとした魔王のまぁちゃんを慣れた動作でがっちり捕獲し、必要書類に向かわせる。
今日も今日とて魔王のお目付け役というお役目を全うしながら、書類仕事の片手間に出てきた話題がりっちゃんの首を傾げさせた。
もうすぐハテノ村では、バレンタインと呼ばれる行事が行われる。
村民達の影響で、魔王城に勤める魔族達も例年その行事に乗っかって楽しんでいたのだが。
期日も近いということで、旬の話題にその話が出てくるのも当然のこと。
だが今年は、話題の内容がちょっとりっちゃんの予想を超えた。
「姫殿下が、お菓子作り……?」
あれ、あの子、料理とかできたっけ?
怜悧で優秀な印象を醸し出す眼鏡の奥で、りっちゃんの目が怪訝に眇められた。
眉間にも、微妙に難しい皺が寄っている。
果たしてせっちゃんは、一人でお菓子が作れるのか?
その疑問に対して、りっちゃんは根拠となるような心当たりが皆無だった。
一応、目の前の魔王陛下がお料理の簡単な指導は行っているらしいが……それもお手伝いレベルだと聞いている。
疑問は確認せねばならない。
でなければ、周囲の人間の胃袋に関わる。
やたらと頑丈で腹痛位では死にそうにない魔族や竜はまだ良いだろう。
だがせっちゃんが必ずお菓子を勧めるだろう従姉妹の君は、人間である。
更に言うのであれば、ハテノ村にもせっちゃんの親しい者は複数人存在する。
ただの人間であれば、腹痛も洒落にならない苦痛となろう。
「陛下、殿下の料理の腕は……その、どのくらいで?」
「最近は、包丁仕事なら任せられるようになってきたな。安心して見ていられるようになったから、そろそろ出汁の取り方を教えようかと思ってるとこだぜ?」
「包丁、出汁……」
割と真面目に、基本からしっかりと料理を仕込んでやろうという意思は伝わった。兄として魔王のその方針に、間違いはあるまい。
だが今はそういうことは、どちらかといえばどうでも良い。
難しい顔をして押し黙ってしまうりっちゃんに、まぁちゃんは面白がるような視線を向ける。
まぁちゃんとしては、妹がどんなブツを作り上げようが大して問題でもない。
何を出されようとも、笑顔で平らげるだけである。
何を出されても食う覚悟がある。
その硬い意思が、魔王の背後に気迫となって燃え上がる。
それこそが兄心、兄の誇りともいえよう。
勿論、良いところを見出して褒めてあげた後、改善の余地があれば助言くらいはするが。
「そんなに気になるんなら、ちょっと覗いてくれば良いんじゃねーの? まず間違いなく、お前の分もあるだろうしよ」
「……菓子は、愛。贈り物の最上位では?」
「別に愛っつっても恋愛的な意味ばっかりじゃねーだろ。家族愛に友愛。そんだけ大事ってことなら、相手との関係なんぞどうでも良いだろ。そんでせっちゃんは、周りの人はみんな大事にできる心の広い、大らかな子だ」
「陛下、それは博愛というやつでは……」
「博愛も、愛ってな。思ってくれる、それが一番大事だと俺は思うね。当然、一等の『愛』は俺とリアンカに注がれる『家族愛』だと信じて疑わねぇけどな!」
「今とってもナチュラルに父君と母君の存在を除外しましたね……!」
「あ? んなの実際問題、いまこの場にいねぇんだからどうしよーもねえだろ。バレンタイン当日に帰ってきてるとも思えねぇしな。贈り物も渡せない相手のことは考えるだけ無駄だ、無駄」
「陛下、御両親に対して随分と割り切っておいでですね。まあ、ご不在の方が働く側としてもやりやすいので、魔王城に中々落ち着かれない点に関して特に何かを申し上げようとは思いませんが」
「よし、結論。いない奴のことは考えるだけ無駄! あ、リーヴィル? せっちゃんの様子を見に行くんなら場所は第三厨房の予備室だから。何か変事があったら俺にも教えろ」
「……陛下。本当はご自分が気になっているんですね?」
「…………(にこっ)」
「偵察に行って来いと、いっそ口に出して言っていただけた方が私も行きやすいんですが」
「あ? んなこと言えねぇなあ……まさかこのくそ忙しい中、せっちゃんの様子見てぇから仕事さぼって良いか、なんざ……」
「誰も陛下に行って良いとは言っていませんよ!」
せっちゃんの様子が気になる、まぁちゃんとりっちゃん。
仕事漬けで行けないまぁちゃんの妥協として、さほど揉めることもなくりっちゃんの偵察が決定した。
りっちゃんは十年以上前から、まぁちゃんやリアンカちゃん、せっちゃんといった魔境の恐るべき方々の子守をしてきたベテラン世話係である。役職はまぁちゃんのお目付け役なのに、それには留まらない騒動の数々に巻き込まれてきた。「ちょっとそこまで」感覚で一週間近く魔境の方々を引きずり回されたこともある。
当然ながら出来る子守のりっちゃんは、並々ならぬ努力の結果として料理もお菓子作りも習得済みだ。
そんな彼が偵察にいくとなれば、せっちゃんの作っているブツの完成形もある程度は予測がつこうというもの。
もしもとんでもない方向に走っていたとしても、りっちゃんが何とか頑張れば軌道修正は出来そうな気がする。
本人も何だか嫌な予感を抱えながら。
りっちゃんは微妙な気持ちでせっちゃんの元へ向かった。
そうして辿り着いた、第三厨房予備室。
ここは普段は使用されていない厨房の一部で、まぁちゃんやりっちゃんといった本来自分で調理する必要のないお偉いさんが勝手に何かやる場合、こっそり使用している場所なのだが……。
そっと、軽く。
試しに扉を薄く開けて中の様子を窺うりっちゃん。
その面には常にない緊張が張り付いている。
果たして、彼が見たモノは。
「えろいむえっさいむ♪ えろいーむえっさいむ♪ ほらバランガバランガ……」
そこでは。
長く艶やかな黒髪を楽しげに左右に揺らしつつ。
うっとりするほどに美しい超絶美少女せっちゃんが。
卵白の大量投入されたビーチボールの残骸に、蛸の足を突っ込んで攪乱している姿があった。
なんの黒魔術だ。
楽しげに歌いながらちゃっかちゃっかちゃっかちゃっか。
前後左右にビーチボール(残骸)を振り回す。
あの突っ込まれた蛸の足には、何の意味があるのだろう?
磯の香り付け?
「地獄のナイフが~ 君を狙っている~♪ ゆ・う・き、を出すんだー♪」
そして厨房に反響し、高く響くせっちゃんの歌声。
戦いはこれから♪
ぱたん。
最小限に音を抑え、りっちゃんは静かに扉を閉ざした。
→ りっちゃん は こんらん した!
~ 三十分後 ~
まぁちゃんの執務室に、黒髪の青年魔族が戻ってきた。
その手に、何やら先程は持っていなかった書類を抱えて。
「――陛下」
「おう、戻ったか。リーヴィル、それでせっちゃんは……」
「申し訳ありませんが、陛下。実は急用が出来まして、殿下のご様子は見ていないのです」
「は? 急用?」
「ええ、実は。実家の方に急用が」
「実家……って黒山羊一門の里か?」
「はい。家族の問題ですので、急ではありますが……しばらく、そう、半月ばかり私と父の休暇をいただきたく思います」
「そらまた、えらく急だな? しかも親父って宰相まで連れて行く気かよ。俺の仕事が回らなくなったらどうすんだ」
「陛下の能力でしたら、本気を出されれば私や父など問題にもなりませんでしょ。とにかく、ちょっと身の危けn……いえ、どうしても外せない急用が出来まして。本当に外せない急用が。なので私と父と、それからラヴェラーラの休暇届の申請書を持って来ました。サイン下さい」
「さりげなく増えたぞ!? まあ、お前らには世話になってっし、不眠不休で働かせちまったこともあるしな。そういえば休暇も随分と取ってなかったか……よし、わかった。仕方ねぇからサインしてやるよ」
「は。ありがとうございます」
「しっかし急に家族の問題って……何があった、黒山羊一門」
「それは申しあげかねますが……
――……緊急避難という、急な用が(ぼそっ) 」
「……ん? いま、何か言ったか?」
「いえ、私がいない間は大変なこともあるかもしれませんが……どうぞお体には気を付けて」
「気を付けろっつっても半月だろ? そんな短期間で何かあるかよ」
「……陛下、何事にも万が一という場合があるのです」
「心配症だな、てめぇは。しかし、半月か……その間にバレンタイン終わっちまうじゃねーか。残念だな、リーヴィル。お前も意外とこういうお祭りごと好きなのにな」
「いえいえ、滅相もございません。確かに少々残念に思う気持ちもありますが……身体の方が大事ですしね」
「は? からだ? なんだよ、実家の用って誰か急病人でもいるのか? だったら見舞いの書状でも……」
「いえ、見舞いが必要なのは我らではありませんから。詳しくは言い辛いので、言及はどうかご容赦を」
「……まあ、部下の私用にまで踏み込むつもりはねえ。マジに急で驚いたが、半月の間に骨休めも兼ねて寛いでこいや」
「は、有難きお言葉。それでは我らは明日にでも旅立ちますので」
「マジで急だな、おい!?」
――翌日、りっちゃんとその近親はマジで魔王城を後にした。
休暇届に書かれた申請理由の蘭には「一身上の都合」という、実に不明瞭な言葉が書かれるのみだった。
お見舞いが本当に必要なひと。
それってはてさて、誰でしょう?




