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《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。  作者: ヴァンドール


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9/11

9話

 翌朝。

 侯爵家の広間には、重々しい空気が満ちていた。

 場所を移し、侯爵とジョアンナは、婚姻無効の条件として定められた手続きに従い、王都の教会裁判所において立会人を立て、正式な婚姻無効の手続きが司教によって執り行われた。


 白い結婚。

 十年の不在。

 侯爵不在の間、屋敷を守りきったのは誰か。

 侯爵家の後継者ルカを育てたのは誰か。


 すべての記録は公的に揃えられ、儀式は粛々と進んだ。


 司教が静かな声で告げる。


「……以上の証言と書類の通り、侯爵夫妻の婚姻は、無効と見なすのが妥当と判断いたします。

 侯爵夫人ジョアンナ殿は、婚姻によるすべての義務から解放されます」


 その瞬間、広間の空気がほんの少し震えた。

 だが、表情を変えたのは、侯爵だけだった。


「……これで、よいのだな」


 かつて戦場を指揮した男とは思えぬほど、静かで疲れた声。

 ジョアンナは丁寧に頭を下げた。


「はい。長い年月、ありがとうございました、旦那様」


 その言葉には恨みも皮肉もない。

 ただ、侯爵家を十年守り抜いた女の誇りと礼節だけがあった。


 侯爵は視線を落とし、何も言えなかった。


 婚姻無効が正式に発表されると、侯爵領の街は一気にざわめいた。


「ついに……侯爵家、あの夫婦別れたってよ」


「いやいや、十年も旦那がほっぽってたんだろう? むしろ遅いくらいだ」


「侯爵夫人様、立派だったよなあ。あの人のおかげで領地は平和だったんだ」


「本当にな。税の取り扱いも公平だったし、祭事もきっちり復活してくれた」


「それに比べて、侯爵様は……クリスティアナとかいう女連れて帰ったんだろ?」


「戦地で色香に迷ったのかねぇ」


「いや、それにしてもねえ……」


 噂は侮蔑と溜息を交えつつ、あっという間に広がっていった。


 そして最後には必ず、こう付け加えられた。


「次の侯爵は、ルカ様だろうな」


「ジョアンナ様が育てた、立派な若君だ。あのお方なら安心だ」



 一方、王都の貴族たちの間では、もっと攻撃的で鋭い会話が交わされていた。


「白い結婚……。形式上は綺麗に整っているわね」


「侯爵が十年も不在となれば、むしろ夫人の婚姻無効は当然ですわ」


「問題は後継よ。ルカ様は……あの未亡人の子だとか?」


「それが不思議なの。侯爵夫人ジョアンナ様は、彼を侯爵家の息子として完璧に育て上げられた。

 出自に関しては曖昧な部分もあるのに……でも彼の振る舞いはすでに正統嫡子そのもの」


「しかも、ジョアンナ様とルカ様は、たいへん親しいらしいわよ?」


「でも随分とお年が離れているのでは?」


「尤も、見た目はジョアンナ様、ずいぶんとお若くお綺麗だし、ルカ様は実際のお年より落ち着いて見えるわ」


「そうね、お似合いではあるわね」


 ひそひそと扇子の奥で囁く。


「まあ……! でも、あの二人なら……」


「悪くない組み合わせね。むしろ侯爵家の再建としては最良かもしれないわ」


「それにしてもクリスティアナとかいう女……。侯爵夫人の座に収まるつもりだったのに、結局は領地の端の屋敷暮らしだなんて」


「身の程知らずには相応しい末路ですわね」


「だいたい、未亡人になった後で子供を産むこと自体考えられないことですわ」


「まあ、その話本当なの?」


「噂の範囲は出てませんけれどね」


「では、その子供が……」


「しー、聞こえますわ」


 貴族たちは涼しい顔で扇をぱたぱたと動かしながら、クリスティアナの話題を肴にして笑った。


 ーーーー


 領地の外れの寂れた屋敷。

 かつて華やかな衣装に身を包んだ女は、鏡の前で泣き叫んでいた。


「どうして……どうしてわたくしが……! あの女は何もしていない! ただ出がいいだけでしょう……!」


 しかし、自分でも本当は気づいていた。ジョアンナがなした十年の働きを、己こそが何一つできなかったことを。どれだけ飾っても、彼女の内側にある虚しさは拭いきれなかった。


 侯爵はただ、静かに背を向けた。


「クリスティアナ。……これからここが私たちの居場所だ」


 その声にはもう、愛の欠片も残っていなかった。


 クリスティアナの嗚咽だけが、寒い廊下に響いた。


 

 正式な婚姻無効決定の翌日から、貴族も領民も、誰もが自然と次の領主へ視線を向け始めていた。


 ルカは二十歳の若さでありながら、背筋は真っ直ぐ、顔には迷いがない。

 ジョアンナもまた、独身にしてなお気品に満ち、美しく凛としていた。


 二人が並ぶ姿は、誰の目にも


「……まるで夫婦だ」


 そう映った。


 領民も家臣も、そして運命そのものが、二人に向かってゆっくりと動き始めていた。


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