表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。  作者: ヴァンドール


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

8話

 日が落ちかけ、庭の噴水が夕陽を受けて淡くきらめいていた。

 水音は穏やかで、昼間の社交のざわめきが嘘のように、侯爵邸は静けさに包まれている。


 その静寂の中、ルカはわたくしに声をかけるため、何度も足を止め、ようやく覚悟を決めたように近づいて来た。


「ジョアンナ……少し、お話があります」


 わたくしは、たった今気づいたかのように振り向き、少し疲れた笑みを浮かべた。

 それは、今日一日、侯爵とクリスティアナの振る舞いに晒され、心が張りつめていたせいでもあった。


「ルカ。今日は、本当にお疲れさまでした。貴方まで巻き込んでしまって……」


 そう言った瞬間、胸の奥に、ほんのわずかな弱さが滲んだのを、自分でも感じた。

 それを隠すようにわたくしはルカを見た。


「巻き込まれたなんて思っていません」


 ルカは、はっきりとそう言った。


「寧ろ、当事者なのですから」


 その声は、いつもの穏やかさとは違い、芯の通った強さを帯びていた。

 それだけで、わたくしは思わず息を飲む。


 ルカは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 夕暮れに照らされたその横顔には、迷いも、遠慮も、もうなかった。


「ジョアンナ。僕は……ずっと、貴女に伝えたいことがあったんです」


「……ルカ?」


 名前を呼び返したわたくしの声は、かすかに震えていた。


「僕は、貴女を愛しています」


 その言葉が放たれた瞬間、風が止まったように感じた。

 噴水の水音さえ遠くなり、時間そのものが止まったようだった。


 それは、衝動的な告白ではなかった。

 何年も、何年も胸の奥で育て、抑え、守り続けてきた想いが、ようやく形を持った声だった。


「初めてこの屋敷に来たときのこと、覚えていますか」


 ルカは、視線を逸らさずに続ける。


「本来なら、憎まれても仕方のない僕に、貴女は感情を押し殺して、当たり前のように接してくれた。優しくて、静かで、決して弱さを見せないその姿に……僕は救われました」


 彼の声は、次第に熱を帯びていく。


「貴女が笑うたびに、この家が少し明るくなる気がして。貴女が悲しむたびに、胸が締めつけられた。何もできない自分が、情けなくて」


 ルカは、震える指先で、そっとわたくしの手を包んだ。

 その温もりは、あまりにも真っ直ぐで、逃げ場がなかった。


「父のことで、貴女が誰かに傷つけられるたびに、守れない自分が悔しかった。それでも……」


 一瞬、彼は言葉を詰まらせ、それから正直に続けた。


「白い結婚だと知ったとき、僕は……正直、嬉しかった。最低だと思われても構いません。でもその時、心のどこかで誓ったんです。いつか、必ず僕が貴女を幸せにすると」


 わたくしの瞳に、静かに涙が滲んだ。


「ジョアンナ。貴女を愛しています。誰よりも、何よりも。だから……」


 彼は、少しだけ声を落とした。


「貴女が解放されるその日まで、僕は待ちます。何年でも。せめて今だけは……貴女の、本当の気持ちを聞かせてください」


 沈黙が、優しく、しかし重く流れた。


 わたくしは、深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。

 涙で視界は揺れていたが、心は不思議なほど澄んでいた。


「……ルカ。わたくし……わたくしも、貴方を愛しています」


 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


「けれど、わたくしは貴方よりもずっと年上ですし、立場も、状況も……。心ない者は、必ずそのことで、わたくしたちを傷つけようとするでしょう。それでも貴方は……」


 そこまで言って、声が詰まった。


 ルカは、そんなわたくしをまっすぐに見つめ返す。


「そんなことで、僕は傷つきません」


 きっぱりと言ってくれる。


「もし貴女が傷つくのなら、その全てを引き受けます。だから……どうか、僕の気持ちを受け止めてください」


 その瞬間、堪えていた涙が溢れ落ちた。


「ルカ……」


 わたくしは、震える声で言葉を紡ぐ。


「貴方が側にいてくれたから、わたくしは、この家で孤独を感じずに済みました。貴方が笑ってくれたから、わたくしも笑えた。貴方が守ろうとしてくれたから……わたくしは、この侯爵邸で頑張ることが出来た。そう、いつか恥じない侯爵家を貴方に渡せるように」


 涙は止まらなかったが、顔は悲しみに歪んでいなかった。

 そこにあったのは、長い孤独の果てに得た、温かな幸福だった。


「ルカ。わたくしも、貴方を心から愛しています。身分も、年齢も、婚姻の枷も……すべてを越えてしまうほどに」


 ルカは、繋いだ手を強く、しかし大切そうに握った。


 二人は、夕暮れの庭で、寄り添うように立ち尽くす。

 沈みゆく太陽が、二人の影を長く地面に落としていた。


「……ありがとう、ジョアンナ」


 ルカの声は、とても嬉しそうだった。それがわたくしの心を温かくした。


「その言葉だけで、僕は何年でも待てます。いつか、堂々と貴女を迎えに行ける日まで」


 わたくしは、そっと微笑む。


「わたくしは、ずっと待っています。今までだって……心のどこかで、ルカを待っていたのかもしれません。貴方の言葉は、わたくしを強くします」


 ルカは、その言葉を、宝物のように胸に刻んでいるようだった。


 夕暮れの噴水は、変わらず静かに水を落とし続けていた。

 そしてその水音はいつまでも穏やかだった。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ