10話
婚姻無効から半年、侯爵領は静かな熱を帯びていた。
街を歩く領民たちは、侯爵が連れ帰った女クリスティアナを完全に忘れ、自分たちの未来を担う二人に心を寄せていた。
「ルカ様、今日もジョアンナ様と一緒に領地の視察におい出くださっていたぞ」
「あのお二人、早く一緒になればいいのにな」
「確かに。そうなればこの侯爵領も安心だ」
そして、王都の貴族社会もまた、二人の関係を『必然』として見つめていた。
侯爵家を十年の間守り抜いたジョアンナと、彼女によって完璧に後継者として育て上げられたルカ。彼らの結びつきこそが、侯爵家の未来を、領地の安定を保証する唯一の道だと。
ある冬の朝。雪が窓を叩く音とともに、ルカはジョアンナの部屋の扉を叩いた。
ジョアンナはすでに独身であり、形式上は客室に滞在していた。彼女はルカを招き入れた。
「ルカ、どうかしたのですか?」
ルカは、胸の奥の思いを決めたように小さく息を整え、いつになく真っ直ぐで真剣なまなざしをジョアンナへ向けた。
そしてその手には、領主の証である紋章が刻まれた箱が握られていた。
「ジョアンナ。貴女が侯爵家を、この領地を、そして僕を救ってくれた」
ルカの声は真摯で、尚且つ揺るぎなかった。
「貴女が十年かけて蒔いた、領民への義務と愛情の種は、領民たちの心にしっかりと根付いています。僕は、貴女と共にこの領地を治めていきたい」
ジョアンナは静かに微笑んだ。
「そのための教育でした。貴方は私の誇りなのです」
ルカは一歩踏み出し、箱を開けた。中には、侯爵家の当主が代々、正式な求婚の際に贈るという、古い金細工の指輪が収められていた。
「僕にとって、貴女が『侯爵家を守った妻』という立場から解放された今こそが、ずっと僕が待ち望んでいた瞬間です」
ルカは指輪を手に取りジョアンナの前に跪いた。
「ジョアンナ。僕は貴女の夫になりたい。侯爵家を、そして未来を、隣で、僕と共に歩んで欲しい」
真剣な眼差しを向けたまま彼は続けた。
「貴女が私に与えてくれたもの、それは義務や役割ではない。真の家族の温もりです。愛です。どうか、僕の生涯の伴侶として、この屋敷へ、再び迎えさせてください」
ジョアンナの瞳に、涙が浮かんだ。十年の孤独も、侯爵への礼節も、領地を守る重圧も、この瞬間にすべて報われた気がした。
「……ルカ。私は、貴方のために生きてきたのです」
彼女はそっと手を差し出した。
「喜んで、貴方の妻となります」
その知らせは、またたく間に領地全体へと広がった。
領民たちは心から喜び、貴族たちは『最良の選択』だと静かに称賛した。前の侯爵夫妻の婚姻無効は悲劇ではなく、新たな、より確かな運命への布石だったのだ。
結婚式は、雪が解け、花が咲き始める春の日に執り行われた。
ジョアンナは十年前に着ることのなかった、真新しい純白のドレスを纏った。
ルカは侯爵家の正式な衣装に身を包み、その姿は侯爵というよりも、新しい時代の王子のようだった。
教会の扉が開く。
ジョアンナは自身の亡き父の後、彼女がこの十年最も頼りにしてき老執事のジョゼフの腕を取り、バージンロードを歩いた。
祭壇で待つルカの顔には、迷いも翳りもない、清々しい愛が満ちていた。
王都の司祭は、祝福の立会人として、静かに二人の手を重ね合わせた。
「ここに、神の祝福のもと、正式な婚姻を宣言いたします」
その瞬間、教会の外では、領民たちが打ち鳴らす祝福の鐘の音が、侯爵領の全土に響き渡った。
ルカは、ジョアンナの唇にそっと口づけを落とした。それは、侯爵家の未来を、領民の信頼を、互いへの深い敬愛を象徴するものだった。
そして、優しく、しかし確かな愛をもって、二人は見つめ合った。
侯爵家は、十年という月日を経て、ついに、愛と信頼に満ちた、真の夫婦を得て、新たなる時代へと船出したのだった。
この先どんな困難が待ち受けようとも二人手を取り合えば、怖い物などありはしない。
二人には着実にあらゆる困難を乗り越えたという自信があるのだから。
こうして侯爵家は、静かに、確かに、新しい季節へと歩き始めた。
そこには争いも不安もなく、ただ、二人が手を取り合って進む光に満ちた未来だけがあった。




