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木には望みがある



 坂井会長は、鏡の前できりりとネクタイを締めなおすと、靴を履いた。

 自宅から十分の場所にある坂井エレクトロニクスの工場。一年前に移転したときは威圧感を感じたつや消しの黒の外壁も、歳月とともにすっかり風景になじんでいる。

 二階の事務室へ向かう外付け階段を昇り終え、深呼吸して気持ちをととのえる。もうそれが何十年間も、古い工場が建ったばかりのときから続いてきた、彼の朝の儀式だった。

「おはよう、みんな」

 明るい大声とともにドアを開けたが、返事はなかった。

 数人の事務職員たちは全員、電話にかかりっきりで応対していたので、返事ができなかったのである。

「いやあ、朝から張り切ってるねえ」

 蚊の鳴くような小声で言って、自分の席に座る。自分の席とは言っても、デスクの上には書類も電話も何も乗っていない。手持ちぶさたで再び立ち上がり、ガラスの間仕切りの奥にある社長室に入った。

「やあ、亮司」

 かっぷくの良い息子の前では、父はますます小さく見える。「どうだい。うまくやっとるかね」

「ええ、まあまあ」

 ノートパソコンから目も上げずに、新社長は答えた。

「まだ、慣れるにはしばらくかかるだろうが、おまえなら大丈夫だ。商社にいたころも、ひとりで外国へ行って大口契約を取ってきたと、母さんに話したそうだな。そら、なんという名前だったかな、中東の、そら、バーコードだ」

「バーレーンだよ」

「ほう、そうとも言うのか。とりあえず焦ってはいかん。赤ん坊だって、首が据わるのに三か月かかるものだからな。わっはっは」

「父さん」

 キーボードから手を離すと、ぎろりと睨みつける。「僕はいそがしいんだ。会社には毎日来なくてもいいって言ってあるだろう。せっかくの隠居生活、身体を休めて、もっとのんびり過ごしたらどうなんだい」

「い、隠居だなんて、とんでも……」

「とにかく、邪魔にならないように、隅のほうにいてくれ」

 すごすごと社長室を出て、隅の自分の席で身を縮めていると、机の上に、いつもの愛用の湯飲みがコトリと置かれた。

「おはようございます。会長」

 総務主任の高瀬奈津が、にっこりと笑う。

「さっきは、すみませんでした。今日は始業前から問い合わせの電話がひっきりなしにかかってきて」

「景気がいいみたいだね」

「ええ、新社長と春山営業部長が打ち出した新聞広告が当たったみたいです」

 そいつはよかった。そう言おうとしたことばを、熱いお茶といっしょに一気に飲み込んだ。

 やけどしてヒリヒリする舌を突き出しながら、階下の工場に降りた。

 彼に気づいた従業員が、わっと取り囲んで、「わあ、どうしたんですか。その舌」と大笑いになる場面を想像してニマニマしていたら、誰も振り向かない。

 みんな、わきめもふらずに働いているのだ。

「そうか。【コンパクト乱切り機】の注文が殺到して、忙しいんだな」

 ひとりごとをつぶやき、とぼとぼと搬入口から外に出た。

「坂井社長」

 後ろから呼び止める声がした。

「……じゃなかった。今は会長だったな」

「瀬峰主任」

 坂井の顔が笑み崩れた。「……じゃなかった。今は瀬峰工場長だ」

「お互いに、なかなか昔の癖が抜けないな」

 小柄な上司と長身の部下は、握手を交わした。

「体はどうなんだ。調子を崩していたと聞いたが」

「ああ、たいしたことはないんだよ。三日ほど検査入院をしてね。何十年間病院など行ったことがなかったから、出るわ出るわ。ずらりと要注意マークが並んだ」

 明るい中庭に出て、しょぼしょぼと目をまたたかせる。「そりゃね。人間七十年も生きてると、どこかしらガタは来るもんだ」

「そういえば、俺も来年は四十歳だな」

 ゼファーは、社長の隣で歩調を合わせながら、嘆息した。「人間の一生は、本当に短い」

「この木も、とうとうガタが来てしまったな」

 庭の中央に植えてある大きなカシの木の前で立ち止まり、坂井はいとおしげに幹に手を触れた。

 妻とたったふたりで創業したとき、記念にと植えたのが、このカシの木だった。新工場に移転する際、大切な会社のシンボルを残してはいけないと、従業員総出で地面を掘り返し、担いで来て植え替えたものの、根付きが悪かったらしい。

 みるみる弱り始め、夏になる前に葉を全部落としてしまった。奈津がいっしょうけんめい回りの土に肥料を入れたりしているが、今のところ回復する様子はない。

 枯れかけているカシの木を見るたびに、坂井会長はぎゅうっと胸がしぼられるような、痛みをともなった懐かしさに襲われる。自分の五十年の仕事一筋の人生と、この木を、つい重ねあわせてしまうのだ。

 ふと隣を見て、同じように木を見上げているゼファーに気づき、坂井はあわてて言った。

「忙しいんだろう。仕事に戻ってくれたまえ。邪魔をして悪かった」

 彼は首を振った。「邪魔なんかじゃない」

「いいや、邪魔以外のなにものでもないよ。わたしはもう――過去の存在なんだ」

「社長」

「仕事もなく居場所もない。この工場にいてももう、することは何もない」

 ゼファーは漆黒の瞳で、失意の老人を見つめた。

「社長。この世で一番むずかしいのは、何かに成功するよりも、成功して得たものを手離すことだ。自分の興した事業をあんたは息子に譲った。一番むずかしいことを、りっぱにやり遂げた」

 肩にそっと、大きな手の温かみが触れた。

「あんたは俺にとって、偉大な模範だ。十年前あんたが拾ってくれなければ、俺はこの世界で新しい生き方を見つけることはできなかっただろう。破壊ばかりしていた俺が、創り、生み出すことを、あんたから教わった。いくらお礼を言っても、言い足りない」

 坂井会長はうなだれて、くしゃくしゃと顔をゆがませた。

「……ありがとう、瀬峰くん」



 陽がかげって少し涼しくなるころ、アパートの壁ぎわの地面の上に、雪羽はチョークで大きな飛行機を描いた。

「ほら、飛行機完成! ハルくん、お空へ飛ぶよ」

「ひこーき、ブーン!」

 ハルは大はしゃぎで、両腕を広げて走り回っていたが、勢い余って転げてしまい、アスファルトで鼻をしたたかに打った。

「またあ。そんなに何回もぶつけてると、お鼻、低くなっちゃうよ」

「ばんそーこー!」

 雪羽はポケットをさぐり、ハルの浅黒い顔に三枚目の絆創膏を貼ってやる。

 夏休みのあいだ、ハルと遊んでやるのが雪羽の日課だ。ハルの両親は弁当工場の経営で忙しいし、保育所はなかなか空きがない。

 一歳三か月なのに、もう五歳の体を持っているハルは、いろいろな理由をつけて保育所から敬遠されてしまうらしいのだ。

「私も、小さいころはヴァルに遊んでもらったから、今度は私がハルと遊んであげる」

 そう宣言して、毎日遊んでやっているうちに、ハルは雪羽にすっかりなついてしまい、夕方も家に帰りたがらない。雪羽も、ハルのことが実の弟のように可愛くてたまらない。

 かくれんぼやゴムとびや、お絵かき。それに飽きると、髪の毛にリボンを結んだり、クローバーの花輪を首にかけたりと、着せ替え人形扱い。それがまた、ハルのすらりとエキゾチックな容貌に妙に似合うのだ。

 長い髪の毛をたくさんの髪留めでじゃらじゃらにしてもらい、「ひめさま、だいしゅきー」と、ハルは彼女の腕にぶらさがる。

 中学の制服姿のユーラスがやってきて、その場面を目撃して、むっとした顔になった。

「あ、ユーリおにいちゃん」

 雪羽はユーラスに気づき、うっすらと頬を染めた。「学校に行ってたの?」

「ああ、図書当番だった」

 と答えながら、冷ややかにハルをにらみつける。

 ハルのほうも、本能で敵だとわかるのか、大きな目でぎろりとにらみ返し、ますます強く雪羽にしがみつく。

(は・な・れ・ろ)

 と壮絶な殺気をこめて念じながらも、にっこりと笑った。

「魔族の息子よ、余がじきじきに、飛行機ごっこをして遊んでやろう」

 ハルを荷物のように軽々と担ぎ上げると、走っていって、向こうの空き地に砲丸のように放り投げて戻ってくる。

「お、おにいちゃん!」

「魔族なら、あれしきのことで怪我はせぬ」

「でも、ハルは半分は人間だよ」

「魔族の血は、あまり受け継いでおらぬのか」

「猫にも変身しないってヴァルが言ってた。でも、体は一度に大きくなったから、もしかすると、二度目は十歳くらいになるかもしれないって」

(十歳だと? ますます、そばに置くわけにいかぬな)

 憤然と考えながら、雪羽の隣に腰をおろし、アパートの壁にもたれた。

 このごろ、ユーラスはおかしいのだ。十四歳の少年の肉体は、ときどき訳の分からない苛立ちや焦りに翻弄されそうになることがある。

 彼の思いの大半を、隣にいる九歳の少女が占めている。寝ても覚めても、女王のように凛々しく彼の前に立ちはだかった、あの日の美しい雪羽の姿が忘れられない。

 他人に心を支配されることは、とてもつらく、とても甘い。九十年の勇者の人生で、とっくに失ったはずの希望や不安、高慢なほどの自信とみじめな自己嫌悪と、そしてたぎるように熱いエネルギーが、隊列を組んで戻ってきたようだ。

「ま……雪羽」

 彼は初めて「魔王の娘」ではなく、想いを込めて名前を呼んだ。

「なに?」

「もし、明日――」

 そのとき、ものすごい勢いで、ハルが駆け戻ってきた。途中で何度もすてんと転びながら。

「ひーめーさーまー」

 飛びついてきたハルの顔に、雪羽は四つめの絆創膏を貼ってやった。ハルは彼女の腕にしがみつき、ユーラスに向かって、歯をむきだして威嚇する。

 これは、手ごわい恋敵ができたものだ。

 苦笑しながら、ユーラスは言った。「もし明日、用事がなければ、余と遊園地に行かぬか」

「え?」と雪羽は、驚きに目を見開いた。

「無料の券をもらったのだ。早く使わねば、夏休みが終わってしまう」

「でも……」

「ああ、もちろんハルもいっしょだ。きっと喜ぶぞ」

 それでも少女は困ったように眉をひそめ、口ごもりながら訊ねた。「マナおねえちゃんも、いっしょ?」

「……ああ、マヌエラもいっしょだ」

「なら、行く」

 ほっとして、晴れやかな笑顔で答える雪羽に、ユーラスは微笑みを返した。

 初戦は惨敗だ。とりあえずは14歳の中学生らしく、明るく清いグループ交際から始めねばならないのだろう。



 眠れぬ夜が明けて、坂井会長は暗いうちから家を出た。

 と言っても、行くところは会社しかない。

 街灯の明かりを頼りに歩いていくと、古い工場はすでに取り壊されて更地になり、コインパーキングができていた。

 妻とふたりで、部品を作っていたころのことを取りとめもなく思い出す。苦労の連続だったはずなのに、なぜか楽しい想い出しか浮かんでこない。

 妻は、明日食べるものもないその日暮らしの中で、あのカシの木の苗を買ってきて植えた。

 「木には望みがある」と、楽しそうにつぶやきながら。

 それは、何かのことわざだったらしい。どんなに切り倒されても、その切られたところか芽吹く。枯れたように見えても、水を与えられれば、また命を甦らせる、という意味だ。

 何度も訪れた経営の危機の中で、人間の汚い本性を見せつけられながら、それでも坂井たち夫婦は手を取り合って、歯を食いしばって、がんばった。

 坂井は、あふれでる涙を手の甲でぬぐい、新しい工場へ足を向けた。

 早朝だというのに、門はすでに空いていた。中に入ると、枯れかけたカシの木のそばに、ひとりの男が立っているのだ。

 白々と明るむ空気の中で、まるで木そのものかと見まごう男のシルエットは、黒い光輪を体にまとっていた。その光輪が幹を包み込んで、やがて枝の先までが、きらきらと淡く光り出す。

「瀬峰……主任?」

 男は大きな吐息をつくと、木のかたわらの何もない空間に向かって、ふたことみこと話しかけ、それから背中を向けて立ち去った。

(瀬峰くんに見えたのだが、見まちがいか)

 キツネにつままれたような心地で、木のそばに立った。

「社長」

 しゃがれ声がして振り向くと、近寄ってきたのは、最古参の工員、矢口だった。

「あんた、どうした。こんなに早く」

「おまえこそ、どうしたんだ」

「ちょっと眠れなくてな。いろいろ考えごとをしに、早めに来た」

「わたしもだ」

 ふたりの旧友はどちらともなく、カシの木に近い花壇のへりに腰をかけた。

「実は、工場をやめようと思ってな。亮司くんには、今日にでも言うつもりだ」

 矢口は、長く伸びた白い眉毛を、指の腹でしごいた。「定年もとっくに過ぎてるのに、これ以上は悪い」

「もうそんな年か」

「あんたより、一個上だよ」

「ずいぶん長く働かせてしまったな。うちの旋盤を一手に引き受けさせて」

「もう今は跡継ぎができたよ」

 矢口は、にまりと笑った。「樋池に、俺の技術はすべて伝えた。伝えきった」

「そうか」

「うれしかった。ひとりで祝杯を挙げて泣いた。俺が生きてきたのは、このためだったんだなって」

「そうか」

「でも、だんだんと悔しくなってきた。特に、樋池がミクロン単位の加工を、俺よりうまくこなしたときなんかな」

「ああ、わかるよ」

「俺の目は、だんだんかすんできやがる。樋池はどんどん俺を追い抜いていく」

「年をとると、そうなるな」

「うれしいんだが、さみしい」

「うれしいけど、さみしいな」

 ふたりは顔を見合わせて、笑った。

「俺はな。いさぎよくカッコよく辞めるつもりだった。こんな負け犬みてえな気持ちで辞めることになるとは思わなかったよ」

 どちらともなく、頭上の枝を見上げる。

「ああ、奥さんの植えたカシ、枯れちまったな」

 矢口がぽつりと言ったとき、坂井は心の中でつぶやいた。――木には、望みがある。

「なあ、矢口」

「なんだ」

「悔しいのは、何かをやり残したからだと思わんか」

「やり残したって、何を?」

「それは、まだわからん」

 知らず知らず、丸めていた坂井の背筋が伸びていく。「だが、このまま辞めても、無性に未練が残る」

「ああ。俺もそうなのかな」

「わたしは、ずっと心の奥底で、そう思っておったんだよ」

 カシの枝が風で揺れる。目に見えぬ小さな光がきらきらと空中に舞い上がり、あたりに降り注ぐ。

 旋盤工は、ぎゅ、ぎゅっと拳を確かめるように、何度も握りなおした。

「なあ、社長。俺とあんたで、なにか新しいことを始めてみないか」

「ふたりで?」

「ああ、ふたりでもいいが、誘えば、佐々木は乗ってくるはずだ」

 佐々木は、先月工場長を退いて、平社員に戻ったばかりだ。「それに、日浅も」

「今年、定年を迎える連中か」

「場所は、瀬峰に頼めば、工場の隅の作業台を貸してくれると思う。おはらいばこになった古い旋盤もある」

「だが、その程度では、たいしたものは作れんぞ」

「たいしたものでなくて、いいんだ。他の誰もが見過ごしていたような、小さいものを作ろう」

「小さいものか……」

 【全自動乱切り機】と【コンパクト乱切り機】のヒット。しかし、その先に来る潮流を、会社はまだ見据えていない。

「もっと、小さな【乱切り機】」

 思ってもいなかった言葉がさらりと、坂井の口をついて出てきた。

「え?」

「場所を取らず、家庭や小さな施設に置けて、安全で、力のない年寄りでも簡単に扱える調理器具」

「【家庭用乱切り機】か――」

 年老いた男たちの胸に、新しい火が熾き始めた。

「もう一度、天城博士に開発に参加してもらうように頼んでみるか」

「ついでに、相模弁当の相模会長に助言してもらうのは、どうだ」

「みごとに、爺さんばかりのチームだな」

「プロジェクト・爺さんズ、だ」

 大きな笑い声が響いた。

 男たちの再スタートを祝うかのように曙の光が射し込んで、工場の中庭を照らし出した。

 カシの木の幹から、静かに音もなく、一枚の薄緑の葉が芽吹いた。


  「木には望みがある」の出典: 旧約聖書ヨブ記14章7ー9節

    「木には望みがある。たとい切られても、また芽をだし、その若枝は絶えることがない。

    たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、

    水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」


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