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鏡の向こう側



 アケロスの洞窟の内部は、浸み出した地下水で壁も地面もぬらぬらと黒く光り、歩み入る者を広大な宇宙へと陥れる。さながら鏡の無限回廊のようだった。

 精霊の女王は疲れるとときどき、ここにやってくる。

 最奥の部屋に、魔王がいた。人間との戦いに敗れ、魔方陣の上に四本の剣で手足を釘づけられたまま時を経た、肉体のみの存在。

 人の生命をたちどころに奪う紫の邪眼は固く閉じられ、憎々しげに呪詛がほとばしり出てきた口も、もはや開くことはない。

 魂はすでに彼方の世界へと去った。冷たい死の静寂をまといながらも、そのかんばせは昨日眠ったばかりのようにみずみずしく、精霊の騎士であった往時と変わることなく美しい。

「ゼファー」

 天井から落ちる雫の音よりなお、か細く女王はささやいた。

 あのとき、「そなたを愛している」と言うことができたなら、「アラメキアよりも何よりも、そなたが大切なのだ」と叫ぶことができたなら、何かが変わっていただろうか。

 今ごろは宮殿の園で、たくましい金色の騎士の腕に抱かれているだろうか。それとも、その安逸こそが、『あの者ども』の策略に堕ちることだったのか。

 ユスティナにはわからない。

 ただわかるのは、彼の魂は遠い異世界に流されて、愛する女性と巡り合い、自分の使命を見つけたということ。

 そして、自分のもとに残されたのは、この物言わぬ永遠の骸だけだということ。

「ゼファー」

 もう一度、想いをこめて魔王の名を呼んだ。

 ふわりと女王の紫の髪が揺れ、水明かりをかき乱す。薄衣のすそが床に広がり、しとどに濡れた。

 薄紅色の唇が、触れるか触れないかのやさしさで彼の頬に当てられたとき、異変は起こった。

 アケロスの洞窟を不意の揺れが襲った。その震動はアラメキアの大地を底深くまで揺さぶった。



「父上ーっ」

 洗面所で身じたくを整えた雪羽は、ふすまをがらりと開けて、布団が敷きつめられた奥の六畳間に飛び込んだ。

「起きなさい、朝ですよーっ」

「あら、お父さん、まだ起きてなかったの」

 佐和は台所のタオルで手をぬぐってから、やってきた。「ゼファーさん、早く。遅刻しますよ」

「うう、あと五分」

 くぐもった声が、布団と毛布で作った防壁の下から聞こえてくる。

(珍しい。ゼファーさんが、こういうことを言うなんて)と佐和は思った。いつもなら、気合いをこめて出陣する将のように、たちどころに起き上がるのに。

「お寝坊さんは、おしおきです!」

 雪羽は弾みをつけて、山に飛び乗った。「うわっ、重い」という悲鳴が聞こえてくる。

 やがて、夫がしぶしぶ布団をはねのけて、あくびをしながら起き上がった。いつも先が少し反っている黒髪が、今日は盛大にあちこちに跳ね上がっている。

(なんだか、今日のゼファーさん、かわいい)

 笑いをこらえながら、佐和はくしゃくしゃの毛布を畳み始めた。

「さあ、顔を洗って。味噌汁できてますよ」

「うん」

 ゼファーは、ほにゃりと笑顔を浮かべて、佐和の手を握った。「鮭のおにぎりも?」

「はい」

「じゃあ、起きる」

 夫の甘えたような舌足らずの言い方に、佐和はとうとう我慢できなくなって笑い出した。

「ゼファーさん、どうしたの。今日は変」

「佐和こそ、変だよ」

 不平そうに唇をとがらせながら、彼はパジャマのボタンをはずし始めた。「俺のこと、なんでそんな呼び方すんの。俺の名前は瀬峰正人だよ」

「え」

 佐和と雪羽は、同時に固まってしまった。

「ゼファーっていったい、何の冗談?」



「シュニーン!」

 ヴァルデミールが、ころがるように玄関のドアから飛び込んできた。「どうニャさったんですか」

「あ、相模屋弁当の」

 ゼファーは彼のことを見ても、怪訝な顔をするばかりだ。「なんで朝っぱらから? 弁当頼んでたっけ」

「お、お、奥方さま、これはいったい」

「わからないの。起きたときからずっとこんな調子で」

 佐和は途方に暮れた様子で、夫の従臣である若者に訴える。「自分がアラメキアから来たことも、魔王であることも、完全に忘れているみたい」

「だから、なんだよ。さっきから、アラメキアだの魔王だのって」

 すっかり不機嫌になって、ゼファーは鮭のおにぎりを口いっぱいに頬張り、ごくりと飲み込んだ。

「早く出ないと会社に遅刻しそうなんだ。くだらない話は、また後にしてくれるかな」

「シュ、シュニンが壊れたあ」

 主のあまりの変貌ぶりに、ヴァルデミールはへなへなと床に座りこんだ。



 目にいっぱいの涙をためている雪羽を見たとたん、ユーラスとマヌエラはすぐに異変を感じとった。きわめつけは、アパートの階段を下りてきた魔王が、

「おはよう、悠里くん、真奈ちゃん」

 と声をかけたことだ。

 ゼファーは今まで、彼のことを「ナブラ王」「ナブラ王妃」としか呼んだことはない。

 公の場所では互いの名を直接口にしないのが、アラメキアの慣習だ。魔術を行う者に名を盗まれないためだと言われる。名を呼ぶのは、目下の相手に服従を命じるとき、あるいは家族や恋人など、ごく近しい間柄だけだ。

「父上が、アラメキアのことを忘れちゃったみたいなの」

 もの問いたげな視線を受けて、雪羽が鼻水をすすりながら説明した。「自分が魔王だってことも、ヴァルのことも、おぼえていないんだって」

「なんだと」

 ひそひそと話す彼らを置いて、ゼファーはさっさと工場に向かって歩き始める。

「魔王、待て」

 教科書をつめた重いカバンを持った勇者は、あわてて後を追いかけた。

「まさか、余のことは覚えておろうな」

「ああ、覚えているよ。天城悠里くん。うちの雪羽への下心がバレバレな、近所の中学生だ」

「……う」

 ゼファーは肩越しに冷ややかな視線を寄こした。

「中学に入ってからも、登校時わざわざ遠回りして、雪羽を小学校まで送ってくれる。部活にも入らず、帰りまでついてきて、無節操に夜まで家にいりびたる。このへんでも噂になってるぞ。小学校二年生にちょっかいを出している、真性ロリコンだと」

「……うう」

 去っていくゼファーの背中を見送りながら、ユーラスは胸を押さえて、道端にうずくまる。

「陛下、だいじょうぶですの?」

「余が今までの生涯で受けた、最強の攻撃であった……」



 昼休み、移転した新工場の芝生で、無心に妻の作ったおにぎりを食べているゼファーに、工場長がせかせかと近づいてきて話しかけた。

「まったく、信じられん」

「どうしたんです?」

 珍しく丁寧なことばを使った製造主任に、一瞬とまどいながらも、工場長は頭をぽりぽりとかいた。

「石沼工業が海外に移転するんだと。これで、うちの知り合いでは三軒目だ」

「ああ、そりゃね」

「円高に節電のダブルパンチ。やっていけないのはわかるが、こんなことじゃ、日本から製造業がひとつ残らず消えてしまうぞ」

 中小企業の未来について、日ごろから熱く語り合っている者同士、きっと同じように憤ってくれるだろうと期待していた工場長だが、あにはからんや、彼は素知らぬ顔をしていた。

「まあ、うちさえつぶれなければ、そんな先の未来なんてどうでもいいですよ。それより、残業が多いのは何とかならないかなあ」

「な、なんだって」

「安月給で遅くまでこき使われて、娘と遊ぶ暇もないんだから、まったく」

 弁当箱を包みなおして、さっさと行ってしまうゼファーの後ろ姿をポカンと見つめながら、工場長はつぶやいた。

「何が一体どうしちまったんだ、あいつ」



 定時に家に帰ってきた夫を見て、佐和は驚いた。「どうしたんですか、ゼ……正人さん。こんなに早く」

「残業はことわった。たまには、早く帰らなきゃ身が持たないからな」

 久しぶりに三人で食卓を囲み、食後はトランプやゲームをした。雪羽は父親と一緒に風呂に入り、片時も離れずに、抱っこをせがんだ。日ごろ甘えられない分を取り返すような甘え方。それはどこか不安に駆られて、そうしているようにも見えた。

 娘が寝るまで、ゼファーは低い声で子守唄を歌いながら添い寝をしてやったが、それは佐和がびっくりするほど完璧な音程だった。アラメキアの音階しか知らないときの彼の歌は、聞くに堪えないものだったのに。

「あなた」

 電気を消した六畳の部屋で、夫婦は座って娘の寝顔にいつまでも見入った。

「おまえには苦労をかけるね、佐和。こんな古いアパートで、いつまで経っても貧乏な暮らしで。おまえも実家の手前、肩身が狭いだろう」

 ぽつりと呟いたゼファーに、妻は懸命に首を振った。

「苦労だなんて思ったことは、一度もありません」

「今は無理だけど、いつか必ず、もっと仕事が楽で給料のいいところに転職するから。そしたら、もっと広い家に移ろう」

「でも、工場を辞めてよいのですか」

「おまえと雪羽が喜ぶなら、仕事なんか何だってかまわない」

 佐和は喉がつまり、途中で口をつぐむ。涙があふれてきて、しかたがない。夫は黙って彼女の肩を抱き、自分のほうに引き寄せた。

 今まで夫から、こんな優しいことばをかけられたことはなかった。ゼファーの見ているのは、いつも遥かな雲の彼方に浮かぶ理想だった。小さな倒産寸前の工場を立て直し、たくさんの従業員たちが安心して働ける、りっぱな企業へと育て上げること。

 それは、かつてアラメキアで指揮官であった彼にとって、新しい、命を懸けるべき戦いの場だったはずだ。

 そのために残業や休日出勤で、家庭を犠牲にすることも一度ならずあった。佐和も雪羽も、少し寂しくはあったけれど、そんな彼の姿を誇りに思い、気持ちをなだめてきたのだ。

 その彼が、自分の戦いを忘れ、ひとりの夫、ひとりの父親として佐和と雪羽のそばに寄り添っていてくれる。魔王ゼファーとしてではなく、瀬峰正人として生きていこうとしている。

(うれしいはずなのに)

 夫の暖かい腕に包まれながらも、佐和の心のどこかに、小さなしこりが生まれていた。



 ユーラスは帰宅の途上でも、ずっと苛立っていた。

 アラメキア随一の勇者と呼ばれた存在だけあって、その全身から放たれる不穏なオーラの前では、身を刺す三月の寒風も、蝋梅の甘い香りも、避けて通りそうだ。

 転移装置の前の計器に長い時間かがみこんでいた天城博士は、ユーラスが通学カバンをどさりと置いた音に顔を上げ、研究所内に立ち込める暗雲に気づいた。

「どうしたのだ、悠里は」

「魔王が、記憶喪失になってしまったのです」

 夫のコートを丁寧にハンガーにかけながら、マヌエラは答えた。

「ほう、あの男が」

「自分が魔王だということも、アラメキアのこともすっかり忘れ、陛下を『真性ろりこん』だと罵倒する始末」

「それに関しては、当たらずといえども遠からず、じゃないか」

「ええ、確かにそうなのですけれど」

「アマギ」

 ユーラスは、殺意のこもったすさまじい目つきで、祖父代わりの博士をにらんだ。

「何か心当たりはないか。アラメキアに何か異変の兆候は」

「ああ、そう言えば、あった。あったぞ」

 天城は、計器から吐き出された記録用紙の束を、ばさばさと繰った。

「二、三日前、妙な波形が描かれておったな。地震と言えなくもない」

「地震?」

「ああ、と言っても地質学的な地震ではないぞ。何かもっと、シューマン共鳴に似たものでな。地球とアラメキアというふたつの異空間を結ぶ球殻間空洞内において発生する――」

「要するに、それが魔王の精神に異常を及ぼしている可能性はあるのか!」

 説明を途中でさえぎられた博士は、不服げに老眼鏡の奥に見える大きな目をぱちくりさせながらも、考え込んだ。

「ないとは言えんな。むしろ、あの男こそが、その共鳴の原因かもしれん」

「あ、陛下。どこへ」

 王妃の制止の声も振り切って、ユーラスは外に飛び出した。

「余の力で、アラメキアのことを思い出させてやる!」



 佐和は、今日一日、電話の前で逡巡していた。

 夫が三ヶ月に一度通院している精神科の診察券を、手に取っては離す。夫の主治医である霧島医師に相談しようかどうか、迷っていたのだ。

 ゼファーは長い間ずっと、回りから心を病んでいると思われてきた。自分が魔王だという妄想に取りつかれていると、精神科医の診断を受けていたのだった。

 だから、今の夫の状態は、病気が完治したと言うべきなのだろう。

(妻である私は、一番そのことを喜んでいいはずなのに)

 なぜか、喜べない。今の夫は、本当の姿ではないような気持ちに襲われるのだ。病気だ、妄想だとさげすまれようが、魔王ゼファーとして誇りをもって生きている夫のほうが、彼らしかった。どんなに貧しくても、迷いなく自分の道を突き進める夫のほうが、ずっと彼らしかった。

 さすがの霧島先生も、あきれてしまうだろう。『夫が回復してしまいました。どうか、元に戻してあげてください』などと言う妻なんて。

「お母さん」

 ちゃぶ台で宿題をやっていた娘の声に我に返った。気がつけば、窓が夕焼けで真赤に染まっている。

「ごめんなさい。すぐにご飯の支度するわね」

 そそくさとエプロンを身につけ、流し台の前に立つ。今晩は夫の好物の湯豆腐とおにぎりだ。

「父上、今日も早く帰ってくるかな」

 雪羽の声には、期待の中に、かすかな不安が混じっていた。

 だし昆布を浸しておいた鍋を火にかけ、豆腐を切って静かに入れる。焼いた塩鮭の身をほぐして、おにぎりの準備をする。

「ねえ、雪羽」

「なあに」

「父上は、今のほうが幸せなのかもしれないわね」

 娘が「え」と息を飲む気配を、背中で感じた。

「魔王でいる限り、父上は重たい荷物を自分ひとりで引き受けてしまう。でも、何もかも忘れてしまえば、その荷物を全部降ろすことができると思うの」

 振り返ると、雪羽は涙の膜をかけた黒い瞳を伏せて、「うん」とうなずいた。

「それとも雪羽は、魔王でない父上は、いや?」

「ううん」

 目をぎゅっとつぶり、雪羽は頭を懸命に横に振った。「それでも、父上が大好き。だって父上は父上だもの」

「そうね。お母さんも」

 エプロンの端で手をぬぐい、すばやく目もぬぐう。

 もう一度「よし」と腕まくりして、心をこめておにぎりを握ろうとしたとき、換気のために薄く開けた台所の窓から、何やら大きな叫び声が聞こえてきた。

 あわてて玄関の扉を押し開け、通路に出て下を見下ろすと、三月のほの明るい夕映えの中、道でふたりの人がにらみ合っているのが見えた。

「ゼファー。本当なのか。本気で余を忘れたと申すか」

 抜き身の剣を下げているのは、天城悠里だ。彼に行く手をはばまれて立ち尽くしているのは、ゼファーだった。

「魔王と勇者として、きさまと余は互いを不倶戴天の敵と定めて戦ってきた。最後の戦いでは、数多の屍を踏み越えながら、何時間も火花が散るほど激しく斬り結んだではないか。そのことすら、きさまは忘れてしまったのか」

「な――何を言ってるんだ、きみは。アニメやラノベの見すぎじゃないのか」

「うるさい!」

 声変わりが終わったばかりの頑なな響きの声は、泣いているようにも聞こえる。

 ユーラスの後を追いかけてきたマヌエラは、大きく息をはずませながら天を仰いだ。「まったく陛下ったら子どもみたい――子どもには違いないけれど」

 九十歳を過ぎた一国の王ともあろうものが、敵に忘れられたと言って激昂し、身も世もなくうろたえる姿は、女性にはとうてい理解しがたい。

「断じて赦さぬ。余を忘れる資格は、きさまにはない!」

 少年が握りなおした剣に仰天し、ゼファーは震え上がって叫んだ。

「ま、待て。暴力反対。どんな理由があっても、暴力はいけない」

「そのような情けなき台詞を、きさまの口から聞くことになろうとはな」

 裂帛の勢いで剣を振りかざしたとき、ゼファーの前に人影が躍り出た。

「雪羽!」

 佐和は驚愕した。さっきまで部屋の中にいたはずなのに、いったいいつ外に出たのか。

「父上に、ひどいことしないで」

 雪羽は、父親をかばう位置に立ち、両腕をいっぱいに広げてユーラスをにらみつけた。「父上は、もう魔王じゃないの。昔のことをみんな忘れちゃったの。だから、いじめないで」

「魔王の娘……」

「その呼び方も、もうやめて」

 唐突な早春の風が、ざわりと少女のやわらかな髪を乱す。まるで生き物のように。

「それでも、そなたが父上の敵であろうとするなら、もう二度とそなたには会わぬ――立ち去れ!」

 ユーラスは、目を大きく見開いた。そして雪羽の透き通るような白い額を、怒りにひそめられた黒い眉を、強い意志で結ばれた唇を見つめた。

 剣を持つ手が力を失う。思わず、背を丸めてひざまずきそうになる。

 その隙にゼファーは愛娘を腕にかかえこみ、用心深く数歩うしろに下がってから、アパートの階段を駆け上がった。

「陛下」

 王妃の呼びかけに我に返ったナブラ王は、ゆっくりと剣をさやに戻した。

「あの娘は――」

 言いさしたまま、動けない。あれは八歳の少女の持つ目ではなかった。女王の持つ目だ。

 勇者と決して相容れることのない、魔王の後継者の持つ目だったのだ。



 雪羽の規則正しい寝息を確かめてから、佐和は添い寝の布団から起き上がった。

 ふすまを開ける。夫は真っ暗な部屋で腕枕をして寝ころびながら、ガラス窓から夜半の月を見上げていた。

「正人さん」

 彼の後ろにそっと座る。月明かりの中で、ふたつの影が寄り添う。

「ときどき夜中に目を覚ますと、あなたの布団から、寝返りを打つ音やため息が聞こえてきて……今夜も眠れないのかなって思っていました」

 幾千もの敵と殺し合った戦い。果てしなき憎悪の応酬。敗戦の屈辱。

 精霊の女王との、報われない愛の記憶。

 彼の胸を去来しているにちがいない思いが、いつも佐和は恐ろしかった。

「正直に言えば、昔のことを忘れてと願ったことも、何度もあるの。普通の人間として生きてほしいって」

 佐和は話しながら、夫の肩から腕にかけてのラインを、何度も指で往復した。

 願いが叶い、夫は過去を忘れた。だが、佐和の知っているゼファーではなくなってしまった。そのことに心のどこかで失望している自分は、あまりに身勝手だとわかっている。

 そして、もう一度、自分に問い直したのだ。私は夫のどこを愛しているのだろうかと。そして、答えは簡単に出た。

 彼の硬い髪に顎をうずめながら、あまたの想いをこめて、息を吐き出す。

「私は、あなたのことが大好きです。あなたの全部が好き。たとえ、あなたが魔王であろうと人間であろうと。たとえ、今までのことを何もかも忘れてしまっても」

「誰が、何を忘れたって」

 夫は腕枕をはずし、漆黒の瞳で不思議そうに振り返った。

「あなたが……ご自分のことを」

「俺が、アラメキアから来た魔王ゼファーであることをか?」

「……え?」



「四本の封印の剣のうち一本が、アケロスの洞窟にあるそなたの身体から抜けてしまったのだ」

 淡い夜明けの光を浴びて、寒そうに背筋を伸ばしている菜の花の中から、精霊の女王が立ち現れ、ことの次第を説明した。

「あわてて封じの結界を張ったのだが、それが思いのほか強力に作用し、そなたの精神の一部にまで影響をおよぼすことになってしまったらしい」

「それで、俺はおのれの過去を忘れていたわけか」

 女王は、あいまいにうなずいた。封印の剣が抜け落ちたそもそもの原因である彼への接吻については、何があろうと口をつぐむことに決めていた。

「そのことに気づいて、すぐに結界の力を弱めた。剣も元通りに魔方陣に突き刺した。面倒をかけたな」

「別にかまわん」

 だいたい、彼自身は何も覚えていないのだ。もっとも、妻や娘、ヴァルデミールの喜びようを見れば、どれほど皆に心配をかけたかは想像がつくのだが。

「だが」

 暁の空を映し出したゼファーの瞳は、一瞬、黄金色に光る鏡のように見えた。

「そのような結界をほどこさねばならぬほど、俺の存在は今も危険なのか」

 ユスティナは、そうだとも違うとも言えなかった。ゼファーの身体があのまま洞窟の底に置かれている限り、危険はない。

 だが、万が一にも、そのことを《あの者ども》に感づかれてしまったとすれば。

 ふたつの世界は、そう遠くない将来、新たなる戦いの渦の中に投げ入れられることになるのだ。

 アラメキアと地球――鏡のように、互いの姿を映し合うふたつの異世界は。





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