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確率1%のキセキ



「毎度ありーっ」

 天城研究所に元気よく飛び込んだヴァルデミールは、くんかくんかと鼻をうごめかした。

 開け放たれた窓から、初夏のさわやかな風が入ってくる。

 このいい匂いはたぶん、庭のフェンスで咲いている白いジャスミン。紫のライラックと競い合うように、たわわに垂れさがっている小さな花々は、大好きな人の髪に飾ってあげたくなるほど愛らしい。

 以前なら、窓を開けたとたんに散乱してしまっただろう書類やメモは、きれいにバインダーで閉じられマグネットで留められて、机の上や壁のコルクボードや、それぞれの場所に置かれている。いちいち用心して床をまたがなくとも、実験器具は棚の所定の位置にきちんとある。

 マヌエラが来てからというもの研究室の中は、整然と片付いているのだ。心なしか、全方位に向かってピンピン跳ねていた天城彰三博士の白髪でさえ、きちんとなでつけられているのだから、すごい。

「まったく、おぬしは嫁をもらったとたんに、すっかり出現率が低くなったな」

 相変わらず幸せいっぱいの笑顔をふりまいている浅黒い肌の青年を、天城博士はからかった。「おまけに、元々ゆるんでいた顔が、以前に増してゆるみっぱなしだ」

「ほめてくれて、うれしいニャ」

「ばか、ほめとらん」

 保冷パックから、三人分の特製弁当を取り出しながら、ヴァルデミールは首をかしげた。「ところで、今言ってたシュツゲンリツって、ニャんのこと? アラリリツの親戚?」

「ほう。粗利率などとは、むずかしい言葉を知っているではないか」

 ヴァルデミールは、相模家の婿養子になってからというもの、将来の相模屋弁当社長となるべく、経営学の猛特訓をさせられているのだった。

 最初は、本が上下逆さまでも気づかないくらいチンプンカンプンだったのに、この頃は少しずつ専門用語も覚えてきた。

「まあ、親戚かどうかは知らぬが、今言ったのは、おまえがここに現れる確率のことだ」

「カクリツ?」

「サイコロを知っておるか。ひとつの目が出る確率は六回に一回、つまり六分の一だ」

「あ、知ってる。スゴロクで上がりにニャるのは、とってもむずかしいんだ。ぴったりのサイコロの目が出ないと上がれニャい。『偶数だと一回休み』には、しょっちゅうハマるのに」

「偶数は、二、四、六のどれかが出ればよい。確率は六分の三、つまり二回に一回は偶数が出ることになる」

「ふうん、カクリツって面白いんだニャ」

「で、さっきの続きだ。おまえは以前は用がなくとも毎日顔を見せに来たのに、今はせいぜい週に二回。出現率は、以前の三分の一か四分の一に下がったというわけだ」

「ああ、そうか」

 思い当たることがあるのか、彼はなで肩を、ますますガックリと落とした。「面目ニャい」

「新婚生活が楽しくて、わしらのことなど忘れておったろう」

「うん、忘れてた」

「はは。正直なヤツだ」

 博士は、壁の黒板に書き散らかした計算式を、げんこつでトントン叩いた。「おもしろいことに、アラメキアの出現率が、おまえに反比例するように大きくなっておる」

「ハンピレイ? それはハワイの花かざりの親戚?」

「虚数空間にあるアラメキアが実空間と交差するタイミングは、月に二回程度と決まっておった。ところが、このところ、その間隔がどんどん狭まり、その分、交差時間が増えてきたのだ。とは言え、今はまだ数分単位の話だがな」

「えっ。じゃあ、うんと未来は、アラメキアと地球が、つニャがってる時間がもっと増えるんだ」

「まあ、何百年も先の遠い未来はそうなるかもしれないな」

 天城博士は白いひげを引っ張りながら、期待をこめてつぶやいた。「アラメキアがまるごと実空間に転移してくるなどということになれば、さぞ面白かろうに」



 アパートの扉を出て下を覗くと、雪羽はにっこりと手を振った。道の向こうから、お迎えの騎士がやってくる。

「ユーリおにいちゃん!」

 天城悠里は、手を振り返した。四月から中学生になった彼は制服を着ている。紺色のズボンにブレザー。まるで会社に出勤する大人のようで、見るたびに雪羽はちょっぴりドキドキしている。

「マナおねえちゃんは?」

「今日は日直で、先に登校した」

 彼らの通う中学校は、小学校よりもさらに高台にある。通学路が重なっているのは、最初の三百メートルほど。そのわずかな距離をいっしょに歩くために、ユーラスは毎朝、雪羽を迎えに来るのだ。

 雪羽の後から、ゼファーが階段を降りてきた。今朝あらたまった服装をしているのは、工場に行く前に銀行に用事があるからだそうだ。

 いつもの見慣れた作業着の代わりに、ネクタイを締めてスーツを着ている父親の姿にも、雪羽はドキッとした。

(やっぱり父上のほうが、ちょっぴりお兄ちゃんよりもカッコいい)

 ユーラスは笑みを消して、階段のゼファーに会釈をした。ゼファーも厳しい表情で少年を見下ろす。

 ふたりが昔、敵同士だったことを雪羽は知っていた。アラメキアにいるとき、雪羽の父は魔王で、ユーラスは勇者。激しい戦いのすえに、父上の率いる魔王軍が敗れたのだと聞かされた。

 今でもふたりが、互いを敵だと思っているのかどうかは、わからない。けれど、キライがスキになるのは、とても時間がかかると思う。雪羽も、幼稚園で彼女をいじめていた男の子や女の子たちは、今でもちょっぴりキライだから。

 でも、ずっとキライのままでいるのは、やっぱりよくない。どこかでスキに変わらないと、大人になったときに、回りはキライな人ばかりになってしまう。

「じゃあ、いってきます」

 玄関から見送る母親に大声で叫んでから、雪羽はふたりの護衛に挟まれて、さっさと歩き始めた。

 護衛は脚が長いので、急いで歩かないと待たせてしまう。小走りになるとカタカタとランドセルが鳴る。けれど、その音が聞こえると、ふたりは余計に歩みを遅くする。だから、ランドセルを鳴らさないように気をつけながら、思い切り大股で歩く必要があるのだ。

 分かれ道の角は、あっけないほどすぐにやってきた。

「ありがとう。お兄ちゃん、父上。いってきます」

「ああ」

「気をつけて」

 雪羽は勢いよく走りだした。ふたりが立ち止まって見送ってくれているのがわかるから、元気な背中を見せなきゃ。

 きっと今日も一日、元気でいられる。



 あとに残った魔王と勇者は、どちらともなく無言で歩き始めた。彼らの行く道はもう少しだけ重なっている。

「いつまで続けるつもりだ」

 ゼファーは不機嫌を装って、言った。「たった五分のために、わざわざ二十分も遠回りをして」

「余の勝手だろう」

 ユーラスも負けずに無愛想に答える。

「気遣ってくれるのはありがたいが、二年になっていじめっ子とはクラスが分かれた。もうだいじょうぶだ」

「余はそうは思わぬ。あの子はまだ無理をしている」

「そうだとしても、おまえには関係のないことだ」

 ゼファーは曲がり角で立ち止まり、少年の蒼い瞳をじっと見つめた。マヌエラがいない今日は、話し合いには絶好のチャンスだった。

「ナブラ王。おまえは雪羽のことを、どう思っている」

 ユーラスは奥歯をぐっと合わせ、魔王の漆黒の眼差しを真正面から受け止めた。

「正直に言えば……わからぬ。余とあの子では年が違いすぎる。見かけですら五歳違うが、実際は九十歳と七歳だ」

「それを言い出せば、俺と佐和は七百歳以上離れているぞ」

 ゼファーは薄く笑んだ。「学校で雪羽をいじめから守ってくれたことには感謝している。だが、われわれはずっと敵同士だった。おまえとて、地球までやってきたのは俺を殺すためだろう」

「ああ」

「あの子は幼い。人を恋うる気持ちなど、いまだ知らぬ。だが万にひとつの話、雪羽が将来おまえを愛するようになるとしても、俺は認めない。おまえに殺された何百人の俺の部下たちのためにも、おまえと融和するという選択肢は、俺にはない」

「わかっている」

「雪羽がほしいのなら、俺を殺してからにしろ」

「わかっている」

 ユーラスは笑いを含んだ息を吐いた。「つくづく、互いに不器用な性分だ」

「そうだな」

 ふたりの男たちは、なごみかけた視線を逸らせて、それぞれの行く方角を見つめた。

「さっき万にひとつの話と言ったな、魔王よ」

 ユーラスは手に握っていた学校カバンの取手をぐいと握りしめた。「万にひとつとは、0.01%だ。決してゼロではない。十分に起こりうる確率だ」

「忘れていたよ」

 ゼファーは背中越しに、柔らかな声を投げかけた。

「おまえの、そのあきらめの悪さに、俺は敗けたのだったな」



 銀行の前で坂井社長や工場長と待ち合わせてから、彼らは中に入り、カウンターの後ろ、仕切りの奥の応接室に通された。

 用意してきた工場の決算書、納税証明などを机の上に並べる。

「今後の事業見通しですが」

 銀行側の担当者は書類に目を走らせながら、言った。「今のところ、新しい主力製品の【コンパクト乱切り機】が好調なようですね。価格も今までのものと比べて手ごろで、小さな事業者でも買いやすい。増産すればするだけ、増収が見込める状態ですね」

「そうなんです!」

 坂井社長は蛍光灯を反射してテカテカ光る頭を、ぐいと銀行員に近づけた。

「その増産体制を整えるために、どうしても広い工場が必要なのです」

「わ、わかりました。それでは、次は登記簿謄本を見せていただきます」

 坂井エレクトロニクスはついに、新工場への移転を決断したのだ。

 このままでは、注文を受けても納品が何ヶ月待ちという事態に陥りかねない。ブームはやがて去る。もたもたしているうちに、大手企業や海外メーカーが似たような製品を開発して売り出せば、小さな工場にはもはや太刀打ちできない。

「今のうちに知名度を上げろ」と、営業の春山は社長にしつこいくらい発破をかけた。「今なら特許を持っている俺たちに勝機がある。この分野に本格的に大企業が参入する前に、【乱切り機のサカイ】というブランドイメージをつけるんだ」と。

 尻込みしていた社長や工場長も、とうとう熱意に負けた。

 運よく適当な物件も近くにあり、大きな改装費用をかけずに工場を移転する見通しもついた。彼ら三人は、その移転費用のための融資を受けに、銀行に来たのだった。

 正直に言えば、今でも彼らには、ためらいがある。月々の資金繰りさえ綱渡りなのに、数千万円という新たな借金を作りたくはない。

 けれど、新しい工場候補地を見つけてから、従業員たちは何度も何度も出かけていっては、ああだこうだと議論し合いながら図面を引いた。製造ラインの配置が、瞼の裏にくっきりと浮かぶようになった。

 いつしか新工場は、53人全員の夢になっていたのだ。

 三人の熱意のこもった説明を表情をゆるめて聞いていた担当者も、いよいよとなると表情を引きしめた。「一ヶ月くらいの審査を経て結果をお知らせします」という事務的なことばを最後に、面談は終わりとなった。

「どうだ。手ごたえはあったような気がするが」

「まだわからんよ。担当者が好感を持ってくれても、ひとりの一存ではどうにもならん。行内の審査会議というのに通らんとな」

「未曽有の不景気だ。とは言え大企業は国がつぶさせない。業績が悪いところには公的な特別融資制度がある。結局、うちのような、中途半端にがんばっている中小企業だけが、何の恩恵もないんだ」

 などと話しながら応接室を出ると、隣の部屋から「お役に立てずに申し訳ありません」という声が聞こえてきた。

 ちょうど、ひとりの男が出てくるところだった。

 その男の顔を見たとき、ゼファーたちはあっと叫んだ。

 『リンガイ・インターナショナル・グループ』のかけいだった。数年前、坂井エレクトロニクスに提携話を持ち込み、人員の削減案を無理に押しつけようとし、さんざん揉めたあげく、結局、提携は白紙に戻った。

 筧のほうも、ゼファーたちのほうを見たとたん、たちまち気まずい表情になった。このあいだ会ったときは、まだ三十代の若々しさにあふれていたのに、今は口元もたるんで、髪にも白いものが目立つ。

「お久しぶりです」

「こちらこそ。こんなところでお会いするとは」

 動揺を押し隠して、丁寧に頭を下げ合う。銀行の外に出て、そのまま何ごともなかったかのように左右に別れると思っていた。

 だが、駐車場に行きかけた筧は振り向き、最後尾のゼファーに向かって言った。

「春山に会いましたよ」

 ゼファーは立ち止まり、筧をじっと見つめた。社長と工場長には、『先に行け』と手で合図する。

「驚いたことに、あの春山が、あんたのもとで働くのは楽しいと。やりがいのある仕事だと言っていた」

「あんたのほうは今、何をしてる?」

 ゼファーは平静を装って訊ねた。「二年前『リンガイ・インターナショナル』は倒産したと聞いたが」

「さっきの様子を見て、うすうす感づいてるんでしょう? 自分で事業を始めたが、うまく行かなくてね。融資してくれと頭を下げに来たが、断られた」

「……」

「もう、首をくくるかと覚悟していたところですよ」

 筧はひとごとのように言うと、五月の晴れ上がった空を見上げた。

「……うちへ来る気はないか?」

 ゼファーは言った。「ベテランの営業がもうひとり欲しいと春山がずっと言っている。あんたに会いに行ったのはたぶん、その話を持ちかける気だったはずだ」

「ふん、そんな話はまったく出なかった。たとえそうだとしても、丁重にお断わりするね」

 筧は鼻でせせら笑うように答えた。「本気だとしたら、あんたらは甘すぎるな。ライバルに情けをかけている余裕などないだろう。そんな甘っちょろい会社に将来性などない」

「皮肉に聞こえるかもしれないが、俺はおまえに感謝している」

「はっ! 皮肉じゃなかったら何だ」

「あんたたちが俺たちを引っかき回してくれなかったら、うちは早晩つぶれていた。あのときあんたが、ひとつの戦略を示してくれたからこそ、俺たちは確信をもって反対のほうに進むことができたんだ」

 彼は、苦い唾を吐き捨てるときのように唇をゆがめた。

「あんたのことは、だいたい初めから気に食わなかった。殺してやりたいよ」

「そうか。残念だが、殺されてやるつもりはない」

「不思議なものだな。人間、怒りが湧くと、思いがけないパワーがみなぎるものだ。そういう意味では、今日あんたに偶然会えたことを神に感謝する」

「ああ。俺もだ」

 筧は身をひるがえして、大股で自分の車に向かった。ゼファーはその後ろ姿を見送った。



 残業を終えて家に戻ったとき、パジャマ姿の雪羽がものすごい勢いで駆けてきて、ゼファーに飛びついた。

「おかえりなさい!」

「ただいま。どうした」

「えへへ。けさね、父上といっしょに歩いてたのを、クラスの友だちが見てて、『お父さん若くてカッコいい』ってほめてくれたの」

「へえ」

 七歳の子どもたちの言うことだが、まんざら悪い気はしない。

「それから、ユーリお兄ちゃんのことも、『カッコいいカレシだね』って」

 ――そっちは、あまり聞きたくなかった。

 その夜の夕食は、カレーだった。カレー自体は美味いのだが、鮭のおにぎりにかけて食べようとすると、ちょっと技術が要るのだ。

「ねえ、父上」

 雪羽は卓袱台にぴたりとくっついて頬杖をつき、父親の遅い食事をじっと眺めている。

「なんだ」

「父上と母上が会ったのって、すごいカクリツなんでしょ」

「確率?」

 ゼファーは、スプーンの動きを止めた。「二年生になると、そんなむずかしいことを学校で習うのか」

「ううん。ヴァルに教わったの。すごろくでサイコロを振るたびに、カクリツ、カクリツって言ってるよ」

 ヴァルデミールは、忙しいとこぼしていながら、きっちり雪羽のところには遊びに来ているらしい。

「でね、母上が教えてくれたの。アラメキアにいた父上と、地球にいた母上が出会って結婚するのは、ふつうは絶対にないんだって。カクリツ1パーセントより、もっともっとないキセキなんだって」

 佐和は、夫の湯のみにお茶を淹れながら、恥ずかしそうに笑っている。

「そしたらね。雪羽が父上と母上の子どもに生まれたのは、カクリツ1パーセントよりも、もっともっともっとないキセキなんだね」

 雪羽の細くてさらさらの髪の毛の上に、ゼファーの大きな手が乗った。

「俺はそうは思わん」

「え?」

「俺と佐和が出会うのは、必然だった。どんな道をたどっても、それ以外の選択肢はありえん。確率100%だ。だから、雪羽が生まれたのも100%決まっていたことだ」

「そうなの?」

 幼い少女は、きょとんと首をかしげた。「父上と母上のいうことは、ぜんぜんサカサマなんだね」

「いいえ。雪羽」

 母は、夫の愛情のこもった視線を受けとめて返した。そして、ほんのりと頬を染めながら娘の肩を抱いた。

「ふたりが言っているのは、同じことなのよ」






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