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天気雨



 五月に入ってから、目まぐるしく天気が変わる。朝に晴れていると思うと、昼には雨がぱらついてきたりする。

 陽射しのふりそそぐ中、雲の速さに追いてけぼりにされた雨が、光の糸になって落ちてくる。

「高瀬くん。どうだね、具合は」

 段ボールの山を搬入している雄輝の肩を、坂井社長がぽんと叩いた。社長が近づいてくる気配がすると、その場を逃げ出したくなるのだが、雇われている身ではそうもいかない。

「はあ、なんとか」

 視線をそらしながら、頭を下げた。

「最初は訳がわからんだろうけど、じきに慣れる」

「はあ」

「赤ん坊だって、首が据わるのに三か月かかるだろう。わっはっは」

 この一カ月、まったく感心するほど一字一句、同じセリフと同じ笑い声を聞かされる。

(アホ、ここは何かの劇団か)

 テレビで見る漫才のように、社長の禿げ頭をぺしっと叩く光景を頭の中で想像して、少しだけ溜飲を下げていると、

「おい、高瀬。急げよ」

 外から、資材係の重本のガラガラ声がした。

 搬入口に運び込まれてきた段ボールに、ぽつぽつと水滴がついている。また雨が降ってきたらしい。



 雄輝は高校を卒業してすぐ、母親が事務員として働いている「坂井エレクトロニクス」に入社した。三か月の見習い期間を経て、六月末には正社員になる。

 3Kと言われる製造業は、彼の就きたい職業ではなかった。だが、未曾有の不況でほかに就職の当てがなく、ここに入れたのも、いわばコネだった。

 ともすれば、惨めな気分に陥りそうな自分を奮い立たせて、なんとか頑張ろうとしている。

「よかったじゃないか。自宅から通えるところだし」

 バンド仲間たちは、家庭の事情を含めて雄輝のことを知りつくしている。大学生も社会人もいるので、広い見地からいろいろなアドバイスをくれた。

「とにかく、これからの時代は学歴じゃない。資格がものを言うんだ。しっかりとした資格や技術を身につければ、有利な転職に結びつくし」

(そうか。資格と技術か)

 仲間の言葉に励まされ、勇んで出勤してみれば、初日に配属されたのは、検査係。資格が取れそうな旋盤や研磨や、工作機械は触らせてももらえない。

 おまけに働いているのは、中高年の熟練工ばかり。一番若い重本や水橋のグループでさえも、25歳を過ぎて30歳近い。

 話の合いそうな人間は、ひとりもいなかった。

 昼休みを告げるチャイムが鳴り、二階の事務室から、足の怪我もすっかり治った奈津が階段を二段飛ばしで下りてきた。

「ほら雄輝、これ、あんたの分」

「お、雄輝くん、母ちゃんの手作り弁当か」

 組立係の横田がからかうような声を挙げたので、雄輝はひったくるようにして包みを受け取った。

「おっきな弁当箱だな。俺にも覚えがあるよ。あいつの年頃の男は、一日五回食っても、すぐに腹がすくもんだ」

「けっ。おめえはそんだけ食って、それしか背が伸びなかったのかよ」

「へっ。しっかりと髪に栄養が行ったんだよ。おまえと違ってな」

 組立係の横田と小西は仲が悪く、暇さえあればいつも互いを罵っている。そのくせ、休憩時間も片時も離れず、背中合わせにいるのが不思議でしかたない。

 いたたまれなくなった雄輝は、外に出て、花壇の縁石に座って弁当を広げた。

 先輩の工員たちは、みんな学歴がなく下町育ちだ。いっしょにいると、その口の悪さと話題の下品さに閉口することがある。どう見ても元ヤン上がりの重本に指図されるときも、心の底にむらむらと怒りが湧いてくる。

 雄輝の通っていた高校は地元でも有数の進学校だった。同級生の大半は大学に進学している。

 四年後は大企業に就職するだろう仲間たちから見れば、高卒で零細工場に勤めている俺は、あいつらと同類なのだ。そう思うと、自分がたまらなく惨めだった。

「高瀬。もう食べ終わったか」

 顔を上げると、瀬峰主任が彼をじっと見下ろしていた。

「今のうちに、いろいろ教えておく。ついて来い」

「は、はい」

 雄輝はあわてて弁当の包みを結び直すと、立ちあがった。

 工場の55人の従業員の中で、この人だけは毛色が違うと感ずることがある。何か命じられたら、体が自然に動いてしまう。命令の仕方が、ごく自然なのだ。

 昼休みでラインの止まった工場内は、天窓から初夏の陽射しを浴びて、しんと静まり返っていた。

 「いろいろ教える」と言ったくせに、瀬峰主任はただゆっくりとラインのそばを歩いて回るだけだった。

 最後まで行ってしまうと、ふたたび最初に戻って、同じことを繰り返す。

 沈黙にいたたまれなくなった雄輝は、目についたひとつの工作機械を指差した。

「あの、この機械は何ですか?」

「ブローチ盤の一種だ。サーフェス加工用で、小型部品の表面の切削に使う」

「……はあ」

「触ってみるか」

「いいんですか?」

 主任はレバーを解除すると、機械の一部をはずして、そっと引きだした。

「分解して掃除してみろ。手を切らんように気をつけてな」

「はい」

 雄輝は、ひとつひとつの歯車やビスを、ウェスの上に順番に並べて拭いていく。

 もともと子どもの頃から、プラモデルいじりが好きだった。指先がたちまち油で真っ黒になるが、次第にそれも気にならないほど夢中になる。

「うちの工場にはもったいないほどの高性能の機械だ。値段も高い。壊れたら、もう二度と買えんだろうな」

 主任の何気ない呟きに、思わず手元が狂いそうになった。「ほ、ほんとに?」

「ひとつひとつの機械や部品が、うちの財産だ。よく『社会の歯車』などという言葉が悪口として使われるが、俺は歯車になれるほど、すごいことはないと思っている」

「……」

「ひとつの歯車が欠ければ、機械全体が使い物にならん。それは人間も同じだ」

 ゼファーは、そこでいったん口をつぐむと、今度は「組み立ててみろ」と雄輝に促した。

 はずすときは簡単だった部品が、今度はなかなか元通りに嵌まってくれない。汗がたらりと耳のそばを伝うのがわかった。

「検査や計量ばかりでは、つまらんか」

「……つまらなくはないけど」

 雄輝は、口の中でもそもそと答えた。「もっと他のこともやってみたいです」

「たとえば?」

「CNC加工のプログラムを作ってみたい。熟練工になるには何十年もかかるけど、コンピュータ制御なら熟練工と同じ技術が簡単に再現できるはずです。それにCNCなら人間と違って、短時間に大量の部品を受注生産できると思います」

「機械製造業のことを、かなり勉強してきたな」

「ここへ就職が決まってからは、それなりに」

 瀬峰主任は軽く息を吐くと、背筋を伸ばして天井を仰いだ。

「俺の率いていた軍隊では、将校候補と見込んでいるヤツも、まず歩兵から配属した」

「は?」

「歩兵での経験を積んだあと槍兵になる。次は重装歩兵に、ある者は弓兵や騎馬兵へと昇進する」

 そう言えば、母親が言っていたっけ。瀬峰主任は、ときどき突拍子もない異世界の空想話を大真面目にすることがあると。

「最初から馬に乗ると、歩兵の目線で戦いを把握することはできない。弓しか経験しなければ、歩兵の武器が届く範囲が予測できない」

 主任は上から吊るされている天井クレーン用のチェーンに手を伸ばし、まるで馬の手綱を握るような手つきで触った。

「プログラムを組むには、現場のナマの生産情報が必要だ。その日の気温によって金属の性質も溶接の温度もすべて違う。熟練工員たちが経験と勘でこなしていることを、コンピュータの数値にどうやって組み入れるつもりだ?」

「え……」

 頭がくらくらする。西洋中世を思わせる軍隊の話と、現代の工場の話が、この人の頭の中ではどうやって結びついているんだろう。

「検査工程でしか見えないことが、必ずある」

 主任は彼の肩を、ぽんと叩いた。「それを全力で探ってみろ。それができたら、次の工程に行かせてやる」

「は――はい」

 雄輝は、黒く汚れたウェスをぎゅっと両手で握りしめて、しょんぼりとうなだれた。

「あの……主任」

「なんだ」

「分解した歯車が――元通りの位置に嵌まらなくなりました」



 工場内に終業のチャイムが鳴り響き、機械の騒音と入れ替わりに、従業員たちの楽しそうなおしゃべりが始まった。

「よっしゃー。飲みに行くぞ」

「わたしはパス。今日は、お花のお稽古の日なんだ」

「待っててくれよ。ここ片づけちまうから」

 ぞろぞろとロッカールームに引き上げていく人ごみから取り残されたように、雄輝ひとりだけが、作業台に張りついていた。

 着替え終えた奈津が、息子に声をかけようかどうか迷っていたが、何も言わずそのまま扉を出て行った。

「おい、どうしたんだ」

 組立工の小西が見かねたのか、近づいてきて覗きこむ。

「最後の箱の計量が合わないんですよ。くそ、規格より25グラム軽い」

 雄輝は舌打ちをしながら、箱の中の部品をひとつずつ、計量台の上に乗せて計りなおしていたのだ。

「おいおい、辛気くさいな」

 仲間の横田が呆れたような大声を出す。「それでも一流高校出かい。ひとつの欠陥品を見つけ出すのに、それじゃ最高ニ十回計らなきゃならねえだろ」

「え?」

「こうすんだよ」

 年輩の工員は、箱の中に部品を十個だけ戻し、計量台に乗せる。

「目方はどうだ」

「正常です」

「それじゃ、そっちの十個の中に欠陥品がある。次は五個ずつ計って、軽いほうを今度は二個と三個に分ける。そうすりゃ、多くてもたった五回計るだけで、一個の欠陥部品が見つけられる」

「はあ」

「なんでえ。そんな常識を、とくとくと偉そうに」

 そばで同僚の小西が悪態をつく。

「何を。わざわざ親切に後輩を指導してやってんのに、文句つける気か」

「け。てめえの善意には、悪意が透けて見えるんだよ」

「あ、あの」

 雄輝は、神妙な面持ちで言った。彼らに対する侮りの心は、すっかり消え去っている。

「すみません、あの、教えてもらえませんか」

「うるせえ、なんだ」

「欠陥品が出るのは、なぜですか」

「え」

 ふたりの組立係は、言い争いをやめて顔を見合わせた。

「そ、そりゃあ。欠陥と言えば、誤りというかミスというか」

「昨日も、終業時間の間際に欠陥が出たような気がします。どうしてですか」

「どうしてって――」

「そりゃ、早く帰って酒が飲みてえっていう人間の自然な欲求がだな――」

 真剣なまなざしで食い下がってくる新人に、ベテランたちは顔色をなくす。

 機械の影から見ていたゼファーは、笑いをこらえるのに必死だった。



 外はすっかり日が落ち、澄みきった濃紺の空には、すでにいくつかの星が瞬いていた。

「今から、音楽の練習か」

「はい」

 工場の門のところで瀬峰主任といっしょになった雄輝は、自転車を押しながら、肩のギターケースを背負い直した。

 今からリハーサルスタジオに行って、深夜までバンド仲間と練習する。

 家に帰ると力尽きて布団に倒れこむ毎日。こんなハードな生活がいつまで続くかわからないが、自分の夢を易々とあきらめたくはなかった。

 納得のいくまで、足掻いてみたかった。

「音楽のことはさっぱりわからん。俺のいた世界とは、音階からして全く別ものだからな」

 隣を歩きながら、主任が夜空を見上げた。

 母親が「瀬峰主任は、すごくオンチなのよ。絶対にカラオケにさそっちゃだめ」と言っていたことを雄輝は思い出し、にやつく口元をシャツの立てた襟で隠した。

「仲間は何人だ」

「五人です。俺以外に、ギターがもうひとりと、ベースとドラムとキーボードとボーカル」

「みな、それぞれの役割が違うのだな」

「ひとりひとり違います。だから互いの音を聞き合いながら、ひとつの曲を作り上げる」

「そうか。大切な仲間たちなのだな」

「はい。すごく」

 雄輝は胸が高鳴るのを感じた。主任に『大切な仲間』だと言ってもらえたことが、無性にうれしい。

「おお、魔王ではないか」

 小学生の少年と、その祖父らしき白髪の老人が道の向こうからやってきた。

「ナブラ王。アマギ博士」

「久々だな、きさまと会うのも。五十余人の生存を懸けた戦いは、首尾よく行っておるか」

「まあな」

 偉そうな態度の小学生は、暗がりで蒼く光って見える瞳を、雄輝に向けた。

「初めて見る顔だ。ヴァルが新婚ボケで使えなくなったゆえ、新しい従者でも手に入れたか」

「じ、従者?」

 おそろしく古風な少年の口調に唖然とする雄輝の隣で、瀬峰主任は穏やかに笑った。

「そんなところだ」

「果たしてヴァル以上の男に育てられるか、余も楽しみにしておる」

 ふたりが通り過ぎていったあと、雄輝は思わず主任の横顔をまじまじと見た。

(この人は、いったい誰なんだ)

 魔王と呼ばれていた。ただの零細工場の製造主任のはずなのに、まるで大会社の社長――いや、それ以上の威厳をもつ存在。

 従者扱いされたというのに、なぜか悪い気はしない。むしろ、その反対だった。

 歩みを強めながら、口から自然に笑みがこぼれてくる。

 主任と並んで、晴れた夜空を見上げながらずんずん進むと、きらきらと輝きながら星が落ちてきそうに思えた。




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