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予期せぬ客人



 ユーラスが小学校から帰ってくると、天城研究所の建物のほうからモクモクと煙が上がっていた。

「げえっ。アマギのやつ、何をやったんだ」

 驚いた彼は、通りの野次馬たちを掻き分けて、走る。

「おお、あそこはまだやっとるのか。なつかしいな」

「そう言えば、初孫が生まれた日も、やっぱり煙が上がっていましたね」

 ありがたがって、手を合わせて拝んでいる近所の人たちもいた。

 扉を開け放つと、研究室の中は水蒸気と埃で真っ白だ。

 入口近くで、何かを踏んづけた。

「うわ、アマギ」

「うーむ、出力を上げすぎた」

 白髪の老人は歯ぎしりをすると、また床にのびてしまった。怪我はなさそうだ。

 そう言えば、今日は月に二回、アラメキアとのゲートが開く日に当たっていた。まさか実験に失敗して、とんでもないものを召喚してしまったのではあるまいか。

 グリフォンやゴーレムが、この世界に出現したら大変な騒ぎになる。

 煙の向こうに、果たしてうごめくものがいた。ユーラスは壁に架けてあった愛用の剣を右手に握ると、用心深く近づいた。

 けほけほと咳が聞こえたかと思うと、か細い声が続いた。

「陛下……陛下はどこ?」

「な、なに?」

 ユーラスは思わず剣を取り落としそうになった。その声に聞き覚えがある。

 覚えがあるどころではない。毎朝、寝台にいる彼にやさしく呼びかけて、起こしてくれた声。

「マヌエラ!」

「陛下」

 白く煤けてはいるが、紛うことなき豊かな藍色の髪。深い湖の色をたたえた瞳と、みずみずしい果実のようなピンクの唇。

 そこにいたのは、ナブラ王ユーラスにとっては三番目にして最後の正妃、マヌエラだった。



「お久しゅうございます。陛下」

 ドレスの裳裾を正し、床に膝をついて、マヌエラは王の前で拝跪はいきした。

「大賢者さまのご命令を聞いていれば、きっといつか陛下のもとに行けると信じておりましたわ」

「それでは、アマギが言っていた助手というのは、そなたのことだったのか」

「はい。崖を登って山の頂に住むトール神のもとに使いに行ったり、それはそれは大変なご注文ばかりでしたけれど」

 そんな大切なことを、今の今まで隠していた天城を思い切りにらみつけたが、博士は素知らぬ顔で、煤だらけになった転移装置を磨いている。

 幸い、装置に大きな故障はないと見える。

「それにしても」

 マヌエラは、床まで届きそうな長い髪をふわりと揺らすと、窓に駆け寄った。

「ここが地球なのですね」

 窓から見えるのは、天城家のわずかな庭。その向こうに広がる住宅街。遠景には都市部の林立するビルディング。

 アラメキアとは微妙に色の違う空を仰ぎ、微妙に匂いの違う空気を心ゆくまで味わってから、彼女は振り向き、うるんだ目でにっこりと微笑んだ。

「陛下。お会いできる日を、一日千秋の思いで待っておりました」

「う、うむ」

 ユーラスは懐がもぞもぞするような居心地の悪さを感じる。なぜならば、地球へ来てからというもの、彼女を思い出したことは、ほとんどなかったからだ。

 妃とはいえ、ユーラスが彼女と暮らしたのは一年半あまり。ほどなく、全てを捨てて魔王ゼファーを倒すため旅立ったので、彼女と連れ添った思い出はごくわずかだ。

 国中の妙齢の女性から選びに選び抜かれ、平民階級の出だった彼女が正妃として王宮に上がったのは、18歳のとき。ユーラスはそのとき88歳だった。まるで、祖父と孫娘のようだと、市井では陰口がささやかれたという。

 もちろん、夫婦とは名前だけ。年老いた王の身にあれこれと気配りをすることが、妃となった彼女の役目だった。

「大賢者から聞いてはおりましたが、本当に陛下は子どもになられたのですね」

 十歳の少年の姿となった夫を、ついジロジロと見てしまい、彼女は恥らうように目を伏せた。

「ああ、80年若返ったぞ」

 旧理論に基づく古い転移装置では、アラメキアの暦で56年に一度しか地球を結ぶことができなかった。ユーラスは地球に来るために、自分の齢を身代わりに差し出して時を早めたのだ。

「わたくしは逆に、歳を取りました。お別れしてから八年が経っておりますから」

 ユーラスが地球に来た一年の間に、アラメキアは八倍の年月が流れている。まだぽっちゃりとした少女だったあの頃とは違い、マヌエラは成熟した大人の女性になっていた。

「そなたは……ますます美しくなった」

 妃は、ぽっと頬を染める。「陛下、おたわむれを」

「ニャるほど。いい男は、そういうふうに女をほめるのか。勉強にニャるなあ」

 いきなり背後から聞こえた声にユーラスが飛び上がると、ヴァルデミールがうずくまって、手帳に何やら書きつけていた。

「ヴ、ヴァルか。驚かすな」

「毎度あり。弁当持ってきたよ。その人は?」

「……余の正妃だ」

 むっつりと、ユーラスは答える。

「ええっ。アラメキアから来たの?」

 ヴァルデミールは興味津々ながらも、理子の半分ほどにか細い女性の前に立つと、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。

「はじめまして。お妃さま。わたくし、魔王の従臣でヴァルといいます」

「ま、魔王の従臣だと」

 とっさに身構えて、懐剣を取り出そうとするマヌエラを、ユーラスはあわてて止めた。

「大丈夫だ。今は、魔王と休戦協定中なのだ」

「休戦協定? あやつが、そんなものを守るものですか」

「後で、詳しく説明する。それにヴァルは今、我が軍の食糧調達係として働いてくれている」

 マヌエラは見かけによらず、けっこう男勝りで正義感が強い。

 王宮で一緒に暮らしていたときも、ナブラの政治について意見を言うことがあって、控えめながらも、かなりの強硬派だった。

 ユーラスが肘で小突くと、ヴァルデミールは「そ、そのとおり」と調子を合わせた。

「お妃さまもごいっしょにいかが? 今日は特別に無料にしておくから」

「なんですか、これは」

「相模屋、相模屋のお弁当だよ。一個五百円。もしお気に召せば、明日からお妃さまの分も合わせて毎日三つ配達するからね」

 毒でも入っているのではと、差し出された弁当をおそるおそる開いたマヌエラは、卵焼きを口に入れたとたんに目を輝かせた。

「おいしい」

「そうでしょう。地球の食べ物はアラメキアのより美味いんだから。特にこのアジのフライは、取れ取れの最高のアジを使った絶品だよ」

 ヴァルデミールも、すっかり商売がうまくなった。

「そう言えば、例の100円弁当はどうなったのじゃ」

 装置の手入れを終わった天城が、近づいてきて口をはさむ。

「それニャんだよね」

 ヴァルデミールは、溜め息をついた。

「今、150円の攻防に入ってるんだ」

「150円の攻防?」

「本当は、100円にしたいんだけど、どうしても無理だと社長に猛反対されてる。大量生産するとニャると、どうしても残り物だけでは足りニャいし、栄養のバランスを考えて肉や魚を入れると高くニャるし」

「確かにな」

「おまけに、環境のことを考えてプラスティックをやめて紙容器にすると、仕切りを作らないとご飯やおかずがごろごろ片寄ってしまうし、保温や断熱効果のためには分厚さが必要で、そうすると全然採算が合わニャくニャるし」

「ニャるほど」

 思わず言葉が移ってしまうほど、ヴァルデミールの100円弁当に懸ける熱意はすごい。

「あの、少し伺いたいのですが」

 マヌエラは半分ほど食べ終えた弁当を、卓上に置いた。

「お話に出てくる『環境』とは何のことですか」

 男たちは顔を見合わせた。

「環境は、環境だよ」

 ヴァルデミールが代表として、口ごもりながら答えた。「人間の住む場所と、その回りにある自然のこと」

「なぜ、その環境のことを考えなければならないのですか」

「だって、考えニャいと、人間が環境を汚してしまうだろう?」

「どうやって、自然を汚すことなどできるのです」

 若き妃は、身を乗り出すようにして矢継ぎ早に訊ねてくる。

 アラメキアは人口も少なく、自然を汚すような形の文明は発達していない。何よりも地球と違うのは、精霊たちが自然を守ってくれていることだ。

 アラメキアに住む人間にとって、環境という言葉は、なかなか理解のできないものなのだ。



 ヴァルデミールは相模家に帰ると、開口一番に今日のことを理子に話した。

 四郎会長の厳しい指導のもと、彼女に対してなんとか敬語を使わないでしゃべれるように訓練しているが、なかなかうまくいかない。

「アマギ博士のところに、ニャブラ王の悠里を訪ねて、女の人が来てるんです」

「ふうん、悠里くんのお母さんか?」

「いいえ、奥さんというか」

「ええっ」

 ユーラスが本当は九十歳であることを、順序だてて説明するのは大変な手間がかかる。そのあたりをヴァルデミールはいつも適当にごまかしてしまうのだ。

「と、とにかく、肉親というか親戚というか、そんニャもんです。すごく好奇心のある人で、ゴミや環境のことで、ずいぶんいろいろ質問されました」

「なんと説明したんだ」

「今のうちにゴミを減らす努力をしニャいと、人間はこの地球に住めニャくなってしまうって」

 相変わらず発音は下手だが、ヴァルデミールの話は、この頃変わってきた。

 最初は路上生活者のために安い弁当を作りたいと言っていただけなのに、いつのまにか生産コストや栄養のバランスや、環境などという用語がぽんぽん飛び出すようになった。

 理子の父はヴァルデミールに、将来の相模屋を背負って立つ後継者という途方もない夢を託しているが、案外それは不可能ではないかもしれない――理子はそんなことを心の中で思い始めている。

 うれしそうに未来の夫を見つめる彼女の視線に気づき、ヴァルデミールはユーラスとマヌエラが交わしていた粋な会話を思い出した。

「理子さん、そニャたは、ますます美しくニャったニャ」

 理子は、目をまんまるに見開いた。

「バカ、何をいきなり、訳わからんことを言ってる」

 こういうセリフは、付け焼刃ではうまくいかないのだった。



 研究室の掃き出し窓に腰を下ろし、夕暮れの庭をぼんやり眺めていたユーラスの背後に、王妃マヌエラが静かに立った。

「陛下」

「ああ」

「もしかして、私を避けておられるのですか」

 彼女は彼の隣にそっと腰をおろすと、悲しげに微笑んだ。「地球へ来てもう数日が経つのに、今なお私とまともに目を合わせてくださいません」

「五年生になると六時間授業が増えて、何かと忙しいのだ」

「私が勝手に地球に来てしまったこと、怒っておいでなのですか」

「そんなことはないが――」

 ユーラスは膝の上に顎を乗せ、くぐもった声で言った。

「妃。そなたがここに来た本当の理由は何だ?」

「いいえ何も。ただ理由もなく不安で、いてもたってもいられなかったのです」

 マヌエラは、遠くを見るような眼差しを庭に向けた。

「陛下がおられなくなったあと、最近のアラメキアは、どこかおかしいのです。何かが少しずつ狂い始めているような気がします。今日みなさんがおっしゃっていた、自然や環境というものかもしれません」

「まさか――地球ならともかく、精霊の加護を受けているアラメキアに限って」

「わかりません。気のせいであってくれればよいのですが」

 初夏の夜風が吹きぬけ、庭の隅に群生したラベンダーの甘い香りを運び、さらさらとふたりの藍色の髪をなぶっている。

「大賢者さまのお手伝いをするかたわら、少しずつ家の回りを歩いています。地球も美しいところですが、アラメキアとはずいぶん違うような気がいたします。生き物がすべて狭いところに押し込められて、今にも窒息しそうに見えます」

「都会とは、そういうものだ」

 彼女が来てからというもの、研究所の中は隅々まで掃除が行き届いている。鏡のように磨きぬかれた床に、ユーラスはごろりと仰向けに寝ころんだ。

「陛下は、異世界に来てお変わりになりましたわ」

 マヌエラは穏やかな微笑を隣に向けた。

「魔王を倒しに行くとおっしゃって旅立ったはずなのに、魔王の従者をお抱えに召しておられるなんて」

「おかしいか」

「いいえ。拙い私の目から見ても、あの男は善人であるような気がいたします。とても邪悪な魔王の配下と思えません」

「ああ、最初は何も考えていないお気楽な男に見えたが」

 ユーラスはくすりと笑った。「何度失敗しても挑戦し続ける、あのひたむきさは、すごい」

「そんな暖かい目で人をご覧になる陛下は、やはりお変わりになりました」

「そうか、余はそんなに冷たい目をしていたか」

「己にも人にも厳しいお方だと、みな思っておりました」

「それでは、今の余はまるで別人だろうな。見てのとおり、何の力も持たぬ十歳の子どもとして学校へ通いながら、平和そのものの毎日を過ごしている。仲間とドッジボールをしたり、教室で漢字の書き取りをしていると、ふとナブラ王であったことすら忘れそうになるときがある」

 月明かりに照らされた天井を見つめながら、ユーラスはぽつりと問うた。「そなたの目に、余の姿はどう映っている? みじめか」

「そんな小さなことをお気になさるなんて、陛下らしくない」

 正妃は唐突に口をつぐんだ。次に話し始めたとき、声音が冷えて硬いものに変わっていた。

「ご存じでいらっしゃいましたか。王宮への召しを受けたとき、私には決まった殿方がおりました」

「え……」

「私は、その人を心から好いておりました。正妃に決まったときは自害しようと思ったものです。ですが、家にふりかかる不名誉を思えば、できませんでした」

「……」

 ユーラスの喉が、ビー玉のような塊にふさがれる。

「陛下は気まぐれゆえに身分の低い私を召し、わずか一年あまりで、周囲に何のご相談もなく異世界に飛び出してしまわれた。それ以来、私は王宮にて陛下のお帰りを待つことを強いられています。宿下がりをすることもかないません。巷を自由に闊歩する代わりに王宮の奥に閉じ込められて。おそらく一生、処女のまま飼い殺しにされて」

 彼女はにっこりと笑んだ。それは内に怨嗟を含んだ、凄絶な笑みだった。

「私は何としても、陛下を追いかけようと決意しました。追いかけて――そして、陛下を一発ぶちのめしてやると」

「なに」

 拳を振り上げ、突然すっくと立ち上がった正妃に、ユーラスは度肝を抜かれた。

 寝ころんだままの体勢で、反射的に両腕で頭をかばう。

「ハハ」

 マヌエラは、平民の育ちを思い出させる、はすっぱな嘲笑の声を上げると、清楚なドレスの長い裳裾をくるりとひるがえした。その拍子に、ショールの小鈴がちりちりと鳴った。

「でも、そんな気もなくなりましたわ。先ほどの問いにお答えしましょう。ええ陛下の今のお姿は、みじめですわ。魔王の討伐も果たさず、子どもになって無為に生きているなんて――!」

 暗闇の中で金色の斑をちりばめたように見える藍色の瞳から、ひとすじの涙が伝い落ちる。

「私の目的は果たしました。もうここに用はありません。次の最接近日が来たら、アラメキアに帰ることにいたします」

 彼女が去ったあと、ユーラスは暗闇の中で、いつまでも頭をうなだれていた。



「雪羽ちゃん、雪羽ちゃん」

 天音先生が園庭の向こうから、ぱたぱたと走ってきた。

「また、あの男の子が来てるよ。『垣根の君』」

「ユーリおにいちゃんのこと?」

「光源氏みたいでステキだわー」

 先生は、ひとりでロマンティックな空想に浸っている。

 果たして、イチイの垣根の陰に隠れるようにして立っていたのは、ユーラスだった。

「今日も、しょくごのおさんぽ?」

「ああ」

 ユーラスはいつものように垣根のすき間から手を伸ばして、雪羽の頭を撫でた。アラメキアの最高位の魔女に習った、『元気のでる魔法』なのだという。

 雪羽が幼稚園の友だちから無視されて遊んでもらえないことを知ってから、彼は昼休みになると、こうして小学校を抜け出して雪羽に会いに来る。

「どうしたの。今日はユーリおにいちゃん、元気がないね」

「そうか」

「『元気のでる魔法』が必要なのは、おにいちゃんのほうだよ」

 雪羽は思い切り背伸びをして、ユーラスの頭に手を伸ばした。指先がちょんちょんと、彼の前髪に触れた。

「余は、ひとりの女を傷つけてしまった」

 十歳の少年は、懊悩のあまり落ちくぼんだ目と蒼ざめた頬をしていた。

「これまで、仕える者たちの気持など想像したこともなかった。臣民は王に喜んで仕えるのが当然だと思っていた。まさか余のせいで、歩もうとしていた人生をめちゃくちゃにされた者がいるなどとは。……いったい余は、どうすればよい?」

 90年の歳月を重ねた男が、わずか五歳の子どもに頭を垂れて教えを乞おうとしている。

 雪羽は不思議そうに首をかしげた。「おにいちゃんは、おかあさんに教えてもらわなかったの?」

「なにを」

「悪いことをしたら、『ごめんなさい』。うれしかったら、『ありがとう』。それでもまだ足りなかったら、『だいすき』って言うんだよって」



 一目散に走って、天城研究所に戻ったとき、マヌエラ妃は、転移装置の前にたたずんでいた。

「もうすぐゲートが開くそうです」

 このあいだのことが夢かと思うほど、彼女の口からは、飽くまでも淑やかな言葉が流れ出る。

「お健やかな様子を見て、安堵いたしました。短いあいだですが、お世話になりました。陛下のご武運を、かの地からお祈り申し上げております」

「しばし待て」

 ユーラスはカバンから国語の学習ノートを取り出すと、一枚ちぎって突き出した。

「これは――」

「余の署名入りの離縁状だ。戻ったら侍従長に見せるとよい。そなたのこれからの暮らしについても、こまかに指示してある」

「……」

「そなたのことに今まで頭が回らなかった。すまぬ」

 ナブラ王は片膝を床について、深々と頭を下げた。「そして、余をこれまで支えてくれたことを感謝する」

「……陛下」

「それから――そなたの幸せを祈っている。これからは、好いた男と睦まじく暮らすがよい」

 天城は転移装置のかたわらで、何か言いたげな不満顔でうつむいている。

「わかりました。仰せのとおりにいたしましょう」

 彼女は、すまして答えた。

「ただ、最後にひとつだけ、申し置きたいことがございます」

 マヌエラは、長いドレスの裾を両手でぐっと持ち上げた。そしてすたすたと軽やかな足取りでユーラスに近づくと、いきなり彼の顔を殴りつけた。

「わっ」

 拳とは言え、女の細腕。さほど痛みを感じるわけではない。

 ユーラスが驚きのあまり叫んだのは、彼を見下ろす彼女の顔に浮かんでいた晴れやかな笑みのゆえだった。

「あの男のことなら、ご心配なく。私が王宮に上がると知って、さっさと別の女と結婚してしまいましたわ。今ではすっかり、でぶでぶのはげはげです」

「そ、それでは――」

「陛下をちょっぴり脅かしてやりたかったのです。私がお恨み申しあげていたのは、陛下がひとことの相談もなく私を捨てていらしたことです。王宮に上がってからの毎日、あれほど御そばにいて、陛下のことだけを見つめていましたのに」

「き、妃――」

「ああ、言いたいことを言って、せいせいしましたわ」

 彼女は埃を払うような仕草をして、つんと肩をそびやかした。「それでは、お暇いたします。ごきげんよう」

 彼女が転移装置に入り、機械の振動音とともにその姿が消えたとき、こらえきれなくなった天城博士は、体をくの字に折って笑い始めた。



 それから一ヶ月ほどしたある日。

 本鈴とともに教室の席に座ったユーラスは、担任教師が見慣れない生徒とともに入ってきたのに気づいた。

「あー。転校生を紹介する。天城あまぎ麻奈まなさんだ」

 ユーラスはカバンから取り出そうとしていた教科書やノートを、どさどさと床に落とした。

 そこに立っていたのは、ピンクのパーカーシャツとショートパンツ姿の五年生の少女だった。短く切った藍色の髪と金色の斑点のある藍色の瞳。

「天城さんは、天城悠里くんの遠縁にあたるそうだ。悠里くんの家から通うことになる」

 クラス中の生徒がどよめいた。特に女生徒たちの声は悲鳴に近かった。

「ま、ま、まさか」

 口をぱくぱく開け閉めするナブラ王に、マヌエラは講壇から降りてきて、低くささやいた。

「時間神セシャトのもとに行き、髪と引き換えに陛下と同じ年齢にしてもらいましたわ。だってそうしないと、妃が十八才も年上というのは、おかしいでしょう?」

「そ、そんな大それたことを」

「精霊の女王さまのお許しもいただいてまいりました。大賢者さまには、この学校も含めて、いろいろな手続きをしていただきました」

 今朝、彼を送り出すとき、妙に天城博士がにやにやしていたはずだ。

「……かえすがえすも、アマギのやつ!」

「ご不満ですの?」

 アラメキアからやって来た美しき客人は、十歳の子どもらしく無邪気な、それでいて、どこか艶っぽい笑みを浮かべた。

「だって、好いた男と睦まじく暮らせと命じられたのは、陛下ですのよ」




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