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すれちがう星たち



 いつものようにヴァルデミールが天城研究所に弁当を届けに行くと、天城博士がソファに仰向けに横たわって、ぴくりとも動かなかった。

「ええっ。そんニャ」

 彼はあわてて、その場にひざまずくと、両手を合わせて頭を下げた。

「あれほど元気だったのに。惜しい人をニャくしたものだ」

「こら。真面目にボケるな」

 ユーラスはヴァルデミールの頭を、ねこじゃらしで叩いた。

「おまえは毎日ぼーっとしていたから覚えておらぬだろうが、アマギは三日間一睡もせずに、研究に没頭していたのだ。余は毎日、小学校から飛んで帰って、トイレに連れていったり食事を食べさせたり、大変だったのだぞ」

「へえ、そうニャんだ」

 ヴァルデミールは天城の鼻の穴を覗いて、白髪の鼻毛が寝息でふるふる震えているのを確かめた。

「それほど熱心に研究してたものって?」

「なんでも、アラメキアと地球との位置関係についての計算らしい」

 ユーラスは立ち上がり、半ズボンから伸びたしなやかな脚で、床に散らかっている実験道具を、ひょいとまたいだ。

 棚に置いてあった太陽系の模型を、片手でつかむ。

「今までアマギは、アラメキアと地球を、同じ太陽の周囲を巡る惑星のようなものだと考えていた」

 根元のハンドルをくるくる回すと、色とりどりの星は各々の軌道をゆっくりと回り始めた。

 小学四年生は、理科で月や星座について学ぶ。だが、ユーラスの知識はすでに、それらを追い越しつつあるようだった。

「こうやって回っている惑星は、互いに近づくときと遠ざかるときがある。確かにアラメキアと地球は7年ごとに、近づいたり遠ざかったりしているように見える」

「ああ、わたくしも博士から、そう聞いたよ」

 ヴァルデミールはうなずいた。

「だから、地球の暦では7年に一度、アラメキアの暦では56年に一度しか、行き来ができニャいって」

「だがアマギは、このねこじゃらしを使って、まったく新しい理論を構築した」

 ユーラスは、持っていた草を振ってみせる。

「根元の揺れは小さいが、先端は大きく揺れている。これが地球とアラメキアの関係だと言うのだ。だから、揺らぐことによって、互いの位置関係が変わっても、地球とアラメキアをつなぐ道はつながるはずだと」

 ヴァルデミールは、きょとんとしている。

「さっぱり、わからニャいよ。それが、何の役に立つんだ?」

「今は理論だけで、役には立たぬ。理論を応用した機械を完成させて、初めて有用なものとなる」

「機械ってニャんの?」

「新しい【転移装置】だ」

「転移装置?」

「それが完成すれば、7年待たずとも、いつでもアラメキアに帰れる」

「いつでもアラメキアに――」

 ヴァルデミールはユーラスのことばに、ぶるっと体を震わせた。

「でも、その機械を動かすためには、途方もない電気が必要ニャんだろう?」

「東京二十三区の供給量に相当する電力だそうだ。普通ならとても無理な話だが、アマギには何か考えがあるらしい」

 ユーラスは、深い溜め息を吐いた。「アラメキア……か」

「もし転移装置が完成したら、あんたは帰るつもりニャのか?」

「わからぬ」

 ユーラスは重々しく首を振った。

「魔王との決着がまだ着いておらぬ。今アラメキアに帰れば、余は地球で何も果たせなかったことになってしまう」

「でも、ニャブラでは、国民みんニャがあんたの帰りを待ってるんだろう?」

「誰も、待ってはおらぬ」

 少年は苦々しげに言い捨てると、藍色の瞳を虚空にこらした。

 王子たちも家臣団も、ユーラスとは気持の通じ合わぬ存在だった。思い浮かべるべき女性の面影すら、彼にはない。

 国中で一番美しい女たちを、正妃と妾妃たちとしてめとった。望む女性を思うままに手元に呼び寄せることができたのは、彼が君主であり、かつてアラメキアを救った勇者だったからだ。

 だが、本当の意味で心まで結びついた女性は、ひとりもいなかった。

 ユーラスは魔族の若者を見て、寂しげに笑った。

「たかが女のことで、それだけ落ち込めるおまえがうらやましいな。ヴァル」

「どうしてだよ?」

 ヴァルデミールは不服そうに、上目づかいで彼をにらんだ。



「新しい転移装置?」

 ヴァルデミールはその足で坂井エレクトロニクスに急ぎ、このことをゼファーに報告した。

「どうニャさいます、シュニン」

「なにがだ」

「アラメキアにいつでも帰れるとしたら、です」

 ゼファーは彼の話には興味なさそうに、ベルトコンベヤで運ばれてくる部品を手際よく組み立てている。

「もう言ったはずだ。俺はアラメキアに帰るつもりはないと」

「ニャブラ王も、そう言っていました。シュニンとの決着が着いてニャいから、まだ帰れニャいって」

「あいつも、しつこい奴だ」

 ゼファーの口調は、どこかうれしげだった。

「おまえはどうなのだ。ヴァルデミール。アラメキアに戻りたいか」

「わたくしが、ですか」

 忠実な従者は、口ごもった。「シュニンがお帰りにニャらぬのに、従者のわたくしだけ戻れる道理がありません。……姫さまをお連れすることにでもニャれば、話は別ですが」

「雪羽をアラメキアに、か」

 ゼファーは手を止め、じっと考え込んだ。

「……それもよいかもしれんな。あの子は、アラメキアに強く惹かれるものがあるようだ」

「それニャらば、いっそ、ご一家で里帰りをされませんか。魔王城の塔から見える美しい氷河の山々を、ぜひ奥方さまや姫さまにも見せてあげたいです」

 ヴァルデミールは、その楽しい計画にたちまち夢中になった。このところ、つらい思いばかりしていただけに、アラメキアに帰りたいという気持はどんどん膨らむ。

「だがアラメキアに戻れば、俺はおのれの意に反して、かつての魔王の体を求めてしまうだろうな。そんな異形の姿を見れば、佐和も雪羽も卒倒する」

 ゼファーは、恐ろしい地獄絵図を思い浮かべて、苦笑いした。「やはり、やめておこう」

「そうですか……」

 ヴァルデミールは肩を落として、すっかりしょげかえった。

 確かに、主の言うとおりだ。地球の人間にとって、アラメキアの魔族の姿かたちは、お化けや妖怪より恐ろしいのだ。魔族に戻ったヴァルデミールを見て、雪羽が激しく泣き出してしまったのは、つい数日前のことだった。

(魔王の血を引く姫さまでさえ、そうだったのだから、まして相模社長があれを見たら、心臓が停まってしまうだろうニャ)

 魔族である自分と、人間である理子の間に横たわる距離の大きさを、あらためて知らされたような心地だった。

 その距離は、決して埋まることがないのかもしれない。たとえどんなに相手を想っていても。



 理子が仕事を終えて家に戻ると、納戸から、ごそごそと人の気配がした。

「ヴァル?」

 急いで靴を脱ぎ捨てて駆け上がり、納戸の扉をがらりと開ける。

「何をしている」

 ヴァルデミールは驚きのあまり跳び上がると、おずおずと振り返った。その腕には、小さなふろしき包みが抱かれている。

 理子が彼と面と向かって話をするのは、三日ぶりだった。

 工場でも、いつも彼は理子を避けてしまう。まるで叱られるのがわかっている子どものように。

「あ、あの」

 気おくれした顔で、ヴァルデミールは答えた。

「荷物を取りに来たんです。また、これまでみたいにコインロッカーに入れておこうと思って」

「ここを出ていくつもりか」

「……そのほうが、いいと思うんです。社長にご迷惑ですから」

 理子は怒鳴り出したい気持を抑えて、ぷいと視線を反らせた。

「私は別にかまわないが、父ががっかりするだろうな」

「会長には、もうお暇を申し上げました」

「おまえの肩もみは誰よりも気持がいいと、せっかく喜んでいるのに」

「それだったら」

 彼はこわばった笑みを漏らした。「ときどき会長の肩をもみに来ます。そのときだけ、ここに来るのを許していただけますか。ニャるべく、社長のいらっしゃらニャいときを選びますから」

 その最後のことばを聞いたとたん、理子の内部で膨張してはち切れそうだったものが、一瞬のうちにはじけた。

「……そんなに、私の顔を見るのがいやか」

「え?」

「私と一緒にいるのが、それほどいやだったのか。だから、黒猫に変身するなどという手品を使って、私を驚かそうとしたのだろう」

「そんニャ……」

 浅黒い肌の男は、ぶるぶると首を振った。

「手品じゃありません、驚かすつもりニャんか全然」

「じゃあ、催眠術か!」

「信じてもらえニャいかもしれませんが……」

 ヴァルデミールは、ぎゅっと肩をすくめて、うなだれた。

「わたくしは、アラメキアという別の世界から来た魔族です。本当は人間じゃありません」

「……」

「坂井エレクトロニクスで働いておられるシュニンが、わたくしの仕えるご主人で、わたくしはシュニンの後を追って、アラメキアから地球に来ました。リレキショでは一応21歳ということになっていますが、本当は96歳です。ごめんニャさい。うんとサバを読んで」

 理子はぽかんと口を大きく開けたまま、ヴァルデミールのことばを聞いている。

「わたくしは普段は猫の姿でいます。そのほうが楽だし、お腹も空かニャいし、だから夜はいつも猫にニャって、公園で寝ています。でも、人間のほうが走るのも早いし、シュニンのお役に立てるので、でも人間にニャったら、お腹も空くし、着るものも買わニャくちゃいけないし、それで相模屋弁当で働かせていただいて……」

「ニャにを言ってるか、さっぱりわからん!」

 怒り心頭に発した理子は、ことばが移っているのも気づかない。

「よくもぺらぺらと、口から出まかせが言えるものだな」

「いいえ、出まかせじゃありません。本当のことです」

「そんな見えすいた嘘をついて、そこまでして私から逃げたいのか。ああ、わかってるよ。こんなデブのブスに好かれたら、男はさぞ迷惑だろうな」

「社長……」

「おまえなんかに関わりあうんじゃなかった。バカヤロー、おまえに費やした私の気持を返せ! どうせ私は一生、会社や家族の犠牲になっていくんだ。人並みの女の幸せなんか、望んじゃいけなかったんだ!」

 顔じゅう、くしゃくしゃにしてわめく理子を前にして、ヴァルデミールの両目から、どっと洪水のように涙があふれた。

「……それほど怒らせてしまって、悲しませてしまって、ごめんニャさい。わたくしが悪いんです。魔族のくせに、人間のことを好きにニャるなんて。最初から間違っていたんです。……もう二度と、社長にはお会いしません」

 ばたばたと廊下を駆けていく音がする。

「ヴァルよ!」

 父親の四郎が、奥の間の障子をがらりと開けて、ヴァルデミールを追いかけようと出てきた。「ヴァル。待て。戻ってこい」

「お父さん!」

「ばかもの。おまえには、あいつの良さがわからんのだ」

 よろよろと裸足のまま玄関に下り、ドアの取っ手をつかんで、外の暗闇に向かって叫んでいる父親の後姿を見て、理子は張り詰めていたものが崩れたように、その場にぺたりと尻餅をついた。

 家を出て行くヴァルデミールを引き止めたいのは、お父さんだけじゃない。

 ヴァルがいなくなって、悲しいのは私だ。寂しいのは私だ。

 捨てられて住むところをなくした子猫のように、どうしたらいいかわからないのは、私の方なのだ。



「ヴァユーッ」

 瀬峰家の玄関が開くと、パジャマ姿の雪羽が飛びついてきた。

「遅かったね。もう雪羽、ねんねの時間なんだよ」

「すみません、姫さま」

 ゼファーはまだ帰ってきていなかった。奥の六畳には、ふとんが三つ敷きつめられていた。

「ご本、読んで」

 ヴァルデミールの手を引っぱって、奥の部屋に行こうとした雪羽は、つぶらな瞳でじっと彼を見上げた。

「ヴァユ。泣いてるの?」

「泣いてニャんか、いませんよ」

 彼は、わざと大きな声を上げた。「さあ、何を読みましょう」

「にんぎょひめのお話! 雪羽が話してあげる」

 少女はふとんにもぐりこむと、かたわらに胡坐をかいた従者相手に絵本を読み始めた。

 途中からハッピーエンドに変わる、「人魚姫・雪羽バージョン」である。

「にんぎょひめは、お船から落ちた王子さまを助けました。そして、大好きになりました。ある日、にんぎょひめは、にんぎょのままで王子さまにあいに行きました。王子さまは、にんぎょひめが海から出てくるのを見てびっくりしました。にんぎょを見たのが、はじめてだったからです。はじめてのものは、とてもこわいのです。……でも、王子さまはすぐに、やさしくて元気なにんぎょひめが大好きになりました……そして」

 雪羽はいつのまにか、すやすやと寝息を立てていた。

「ふたりは海のそばにおうちをたてて、幸せに暮らしました」

 ヴァルデミールは小さな声でお話の結末を言うと、雪羽の手をそっと、ふとんの中に入れた。

「ヴァルさん」

 佐和は台所から、彼の背中に向かって、呼びかけた。

「ゼファーさんは今日は残業で遅くなるの。あなたのことを心配していたわ。もしかして何か悩みがあるの? 私で代わりになれるなら、何でも相談して」

「奥方さま」

 若者は、暗がりの中で光る不思議な瞳で、佐和に振り向いた。

「奥方さまが最初にシュニンと知り合ったとき、アラメキアから来た魔王だというシュニンのお言葉を、お信じにニャれましたか?」

 佐和は、静かにほほえんだ。

「いいえ。とても信じられなかった」

「でも、今は信じておられるのでしょう?」

「もちろんよ。でも……ほんのときたま、わからなくなるときがあるの」

 考え深い目を伏せて、佐和はゆっくりとしゃべった。

「ゼファーさんがアラメキアから来たことを、素直に信じられることもある。でも……病気のせいで、そう思い込んでいるだけじゃないかと思うこともある」

「わたくしやアマギ博士やニャブラ王の悠里が、いっしょにアラメキアの話をしているのに、ですか?」

「ごめんなさい。あなたたちまで疑うようで悪いんだけど……それほど、地球の人間にとってアラメキアの存在を信じるのは、むずかしいことなのよ」

「やっぱり、そうニャのですね」

「でも、私、こう思うことがあるの」

 佐和は目じりをちょっと下げて、少女のように笑った。

「ゼファーさんのことを信じている自分も、疑っている自分も、まるごとの自分全部が、ゼファーさんのことを大好きなんだって」

 ヴァルデミールは目をぱちぱちと瞬き、怪訝そうに首をかしげた。

「……そんニャむずかしいこと、できるのですか?」

「人を好きになると、どんなむずかしいことでもできるのよ」



 屋根を打つ雨音に気づいた。

 ソファに座って、うとうとしていた理子は、はっと立ち上がる。

 ヴァルデミールは今晩泊まるところもないはず。また公園の遊具の陰で夜露をしのごうとしているのだろうか。

 秋の雨は、野宿をする者にとって、どれだけ冷たいだろう。

 矢も盾もたまらず、理子は毛布と傘を持って、家を飛び出した。

 向かったのは、同窓会の夜、彼と偶然出会った公園だ。

「ヴァル!」

 理子は必死でヴァルデミールを探した。木の下やベンチを探した。小さな茂みの中や、すべり台の下まで探した。

「……ヴァル」

 彼が、長い髪の毛をぼとぼとに濡らして、雨の中で膝をかかえて、うずくまっているような気がして、仕方がなかった。

「どこへ行ったのよ、バカ……」

 理子は、毛布をぎゅっと抱きしめて泣きながら、公園の中にいつまでも立ち尽くしていた。



 相模屋弁当工場の軒先から、音もなく一匹の黒猫が姿を現した。

 つやつやとした毛並みに水滴を星のようにいっぱいちりばめて、社長宅の玄関前まで来ると、家から漏れてくる温かそうな明かりを見上げる。

 銅像のように雨の中にたたずみながら、猫はひと声、さびしげに「にゃおん」と鳴いた。





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