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人魚姫の見る夢



 扉が開け放たれた瞬間、血が凍りそうになった。

 そこに立っていたのは、まぎれもなく、このアラメキアを四百年間、蹂躙し続けてきた魔王だったからだ。

「精霊の宮殿とは、まったくもって無防備なところだな」

 彼は喉を鳴らして笑いながら、近づいてきた。「俺を阻む者など、無きに等しい。近衛兵を今司っているのは、誰だ」

「おまえの後を継いだモレネー伯だ。かつて近衛隊長であった者よ」

 厳かに玉座から立ち上がった精霊の女王の真珠色の顔に、魔王は憎悪に満ちた紫の目を投げかけた。

 長い黒髪の頂には、まがまがしい二本の角。肌は鱗で覆われ、口には鋭い牙が覗く。背中からは黒い翼が生え、全身を暗黒の光輪が包んでいる。

 汚らわしい悪魔のごとき風貌なのに、なぜかその美しさに心奪われる。

 何もかも忘れて、その足元に我が身を投げ出したくなる。

 精霊の女王は自分を取り戻すと、キッとまなじりを吊り上げて、彼を睨み返した。

「何の用だ。魔王よ」

「人間の四人の覇王とやらに、聖なる剣を与えたそうだな」

「それが何か」

「中立を保つと言いつつ、ひそかに人間に加護を与える――昔からおまえのやり方は変わらぬな。精霊の女王」

「そなたのやり方が、あまりに卑劣だからだ」

 玉座に歩み寄ろうとする魔王に、勇敢な護衛兵が叫んだ。

「それ以上、女王陛下に近づくな!」

 魔王は、ちらりと兵に視線を向けた。息を飲む間もなく、護衛兵はその場に崩れ落ちた。

 紫の目を見てはならぬと、あれほど命じたのに。

 自らの無力を感じながら、精霊の女王は玉座を離れた。階を降りる裳裾が揺れ、きらきらと光を撒き散らす。

「俺を滅ぼすつもりだろうが、そうはいかぬ」

 魔王は彼女の顎に長い爪を伸ばしながら、ささやいた。

 かつて、やさしい愛撫を与えてくれた指は、今は氷よりも冷たく、棘よりも鋭い。

「何をしに来た。わたしを殺すつもりか」

「殺しはせぬ。今はまだ、な」

 昏い喜びに口元を引きつらせながら、魔王は答えた。

「おまえの愛する美しいアラメキアを徹底的に壊し、人間どもをひとり残らず家畜にするまでは生かしておいてやる。その有様を、おまえに見せつけることが、俺の切なる望みだ」

「そんなことは、命に懸けてもさせぬ」

「必ず、そうしてみせる」

 魔王は、己のたくましい胸をすっと指差した。青黒い唇から呪術のことばが漏れた。

「この身から出る者の命をしろとしてでも、俺はこのアラメキアを滅ぼす」



 精霊の女王ユスティナは、はっと跳ね起きた。

 朝の陽光がきらめき、小鳥の声がするばかり。悪夢の中の過去とは違い、今の精霊の宮殿には平和な静けさが満ちていた。

 女王は激しい動悸が収まるのを待って、寝台から立ち上がった。

「大変だ。こうしてはおれぬ」



 ヴァルデミールが『相模屋弁当』に出勤してくると、入口に立って従業員たちを挨拶で迎えていた理子は、さっと笑顔を消した。

「……おはようございます」

「……」

 おずおずと彼がそばをすりぬけるのを、無言で見送る。

(私は、どうかしている)

 髪をかきむしりたくなるのを、かろうじて堪えた。

(あんなの、夢に決まってるじゃないか。人間が黒猫に変身するなど。私は疲れて、いつのまにか夢を見ていただけなのだ)

 そう思えば思うほど、あのとき感じた猫の柔らかい毛並み、その直後にのしかかってきた裸の男の重みが、現実のものとしてよみがえってくる。

 気が遠くなりそうになり、あわてて理子は事務室に引き上げた。

 朝礼で専務の訓示があり、工場はいつものように暖かい湯気と、秩序ある喧騒に包まれた。

(もうやめよう。私は気弱になっていただけだ。こんなデブでブスの私が、好きな男の胸にいだかれるなどという夢を見たのが、そもそもの間違いだったのだ)

 理子はぼんやりと工場の様子を見つめながら、何度も自分に言い聞かせた。



「ヴァル」

 老会長が、ちょいちょいと工場の隅から手招きする。

「理子の様子はどうだ」

「それが……目を合わせてもくれません」

「そうだろうな。家でもひどく荒れとったぞ」

 ステッキで、ことんと床を突く。

「おまえさん、少しことを急ぎすぎたな。理子はあのトシでまだ、おぼこ娘だ。いきなりああいう恰好で迫っては、女は魂消るだろうて」

「そ、そうじゃニャくて」

 ヴァルデミールは、あのときの状況を弁解しようとして、口をつぐむ。猫に変身した拍子に服が脱げただけなのだと、どうやって説明すればいいのだろう。

「まあ、わたしが頃合を見て、なだめておいてやる。おまえさんは、しばらく大人しくしていなさい」

 どうも、ふたりの成り行きを面白がっているらしい相模会長の横顔を盗み見て、ヴァルデミールは小さな溜め息をひとつついた。



「相変わらず、景気の悪い顔だな」

 天城研究所に入ってくるなり、椅子に座って膝をかかえてしまった魔王の従者に、ユーラスは肩をすくめた。

「本当に何も聞こえていないのか」

「ほれ」

 天城博士が目の前で、ねこじゃらし草を振るが、ヴァルデミールは、ぼーっとあらぬ方を見ている。

 ユーラスと天城は、心配そうに顔を見合わせた。

 ヴァルデミールは、「帰る」とひとこと言って、さながら亡霊のような生気のなさで出て行った。

「いよいよ、恋の病の末期症状だな」

 吐息をついた天城は、ふと手の中でもてあそんでいたねこじゃらしを見下ろした。

 手元はわずかしか動かしていないのに、先の部分は大きく揺れている。

「この根っこが地球で、穂の部分がアラメキア――」

 ぼさぼさの白髪の下の目が、にわかに鋭い光を帯びた。

「――共振によって揺らぎを増幅させるのか!」

 天城博士は、壁にかけられた黒板に駆け寄り、チョークを握りしめて猛烈な勢いで計算式を書き始めた。

「やれやれ。アマギはこうなったら、三日は戻ってこぬな」

 ヴァルデミールの持ってきた弁当を手に、ユーラスは鷹揚に微笑んだ。

「余が食事を、横から口に入れてやるとするか」



「ヴァユ。ご本読んで」

 雪羽は、絵本を持ってくると、ちょこんとヴァルデミールの膝の上に座った。

 瀬峰家にやってきても、ちっともいつもの調子で遊んでくれない彼に、業を煮やしたらしい。

「でも、わたくし、あまり上手に読めませんが」

「じゃあ、雪羽が読んであげるね」

 雪羽は、表紙の文字をひとつずつ指差して、言った。「に・ん・ぎょ・ひ・め」

「人魚姫?」

「そう。ヴァユはお魚が好きだから、このご本も好きでしょ」

「そう言えば、魚がいっぱいいますねえ」

 雪羽の気持がうれしかったヴァルデミールは、ちょっと元気を出した。

「この人は、どニャたですか。半分女の子で、半分魚ですよ」

「これが、にんぎょひめなの」

「へえ。お姫さま。そういえば、姫さまと似ていますね」

「父上は、おひめさまが出てくるお話が大好きなの。でも、このご本は悲しいからって、あまり読んでくれない」

 雪羽はページをめくりながら、読んでくれた。とは言え、字を追っているというよりは、両親に読み聞かされたとおりに、話してくれていると言ったほうが正しい。

「にんぎょひめは、お船に乗っていた王子さまが海に落ちてしまったので、いっしょうけんめい助けました。そして、王子さまのことが大好きになってしまいました。王子さまのそばにいたいとおもったので、にんぎょひめは、海の底の魔女のところへ行って、きれいな声とひきかえにお薬をもらいました。それを飲むと、にんぎょひめは足が生えて、にんげんになることができました」

 雪羽の言うとおり、そのあとは、とてもとても悲しいお話だった。

 人魚姫が泡になってしまったページで、ヴァルデミールは、おいおい泣き出してしまった。

「ああん。ヴァユ。ご本がぬれちゃうよ」

「す、すみません。だって……これじゃ人魚姫が、あんまりかわいそうです」

 すべてを捨てても人間になって、王子のそばにいたいと願った人魚姫の心が、今のヴァルデミールには、とてもよくわかるような気がした。

「もうご本はやめて、公園に行こ」

「はい」

 雪羽に引っぱられて、ヴァルデミールは立ち上がった。

「ヴァルさん、大丈夫なの?」

 彼の様子を気づかう佐和に見送られて、ふたりは外に出た。

(わたくしも人間にニャれるように、精霊の女王さまにたのんでみようかニャ)

 雪羽と手をつないで道を歩く途中、ヴァルデミールは空を見上げて思いに耽った。

 精霊の女王の計らいで人間の体を与えられたゼファーと違い、ヴァルデミールは魔族の体のまま地球に来た。

 アラメキアから遠く離れたせいで魔力が薄れ、元の魔族の体に戻ることはあまりなくなったが、それでも、ひどく動揺したり興奮したりすると、自分の意志に反して猫の姿になってしまう。これでは、人間の女性と寄り添って生きることなど、絶対にできないだろう。

 もう理子に「化け猫」などと呼ばれたくはない。

 だが、魔族の体を捨てて人間になっても、とても大事なものを失ってしまうような気がするのだ。

 本来の姿を捨て、海での生活を捨て、声を捨ててまで王子のもとにいたいと願った人魚姫のように、そこまでして理子のそばにいたいのだろうか。

(いったいどうすればいいんだ)

 ヴァルデミールは、自分の気持が全然わからなくなってしまった。



 工場での仕事を終え、帰宅しようと外に出たゼファーは、ふと空き地で揺れるコスモスに目を留めた。

「精霊の女王」

 花の中に、紫の髪を半開きの扇のように広げて立つ女王は、夕暮れの光の中で、よく目を凝らさねば見えなかった。

「どうした、なんだか影が薄いぞ」

「すまぬ。起きてすぐに、こちらに来たのだ」

「ふうん。アラメキアは今、朝か」

 ゼファーは口元をゆるませた。「昔からおまえは、朝が弱かったな」

「それどころではない。魔王よ」

 精霊の女王は林檎のように顔を赤らめたが、気を取り直して叫んだ。

「明け方に、昔の夢を見たのだ。もうすっかり忘れていた99年前のことだ」

「99年前?」

「そなたは精霊の宮殿にやってきて、私の目の前でアラメキアを必ず滅ぼすと誓った。その呪術の代償に、自分の身から出る者の命をそなたは担保とした」

 にわかに、ゼファーの表情が変わった。

「……覚えておらぬ。確かか」

「確かだ。そなたはアラメキアを滅ぼすという誓いを果たすことはなかった。だから、その代償としての担保が、百年以内に払われねばならないのだ」

「俺の身から出る者……雪羽か」

「うかつだった。私がもっと早くに気づいて、呪いを解いておけばよかったのだが……」

 女王は後悔に唇を噛みしめた。

「今となっては、もう遅い。呪いの効力が消える百年が来るまで、あと数ヶ月――だが地球では、あと数日のはずだ。そのあいだ、雪羽のことを気をつけていてほしい。私もできうる限りの見張りをしよう」

「わかった。頼む」

 ゼファーは家に向かって全力で走り出した。

 胸中に黒雲のような不安が湧いて来る。

 自分が蒔いた種を刈り取ることは避けられない。だが、娘の命が取り去られることだけは、何としても許してはならなかった。

 たとえ、おのれ自身の命を引き換えにしても。



 すべり台に夢中になっている雪羽を見守りながら、ヴァルデミールは花壇にちらちらと目を注いでいた。

 主であるゼファーが、このベンチに座りながら、花々の中に現われる精霊の女王と語らうのを、ときどき見る。

 秋の風情となった花壇には、ハゲイトウ、センニチコウ、サルビアといった花が、夕焼けに映えていっそう赤い色を強めている。

(精霊の女王さまニャら、お願いすれば、きっと人間にしてくださる)

 ヴァルデミールは花壇の前に立って、ぼんやりと自問自答した。

(でも、人魚姫みたいに、ニャにかを捨てろと言われるかも。……どうしよう。足が痛むのは困るニャ。弁当の配達に必要だし。それに、声も捨てたくニャい。ちゃんと自分の気持を口で言いたいときもあるはずだよ。かと言って、髪も切りたくニャい。だってタテガミはわが一族のシンボルで……ああ、これじゃ塩鮭を捨てるしかニャいか。それも悲しいニャあ)

 理子と塩鮭を天秤にかけながら、もんもんと頭を抱えていると、突然、雪羽の悲鳴が聞こえてきた。

 ヴァルデミールが、考えに気を取られているあいだに、公園の中に、まるで子牛のような大型犬が入ってきたのだ。

 土佐犬という種類だろう。誰かが飼っているのが逃げ出したものか、首輪からは太い鎖が垂れている。そして、とても興奮しているようだった。

 雪羽は、すべり台をすべろうとしたまさにその時、犬に気づいたものと見える。体はすでに、すべり台のてっぺんから離れてしまっている。両手で手すりをつかみ、なんとか体を押し戻そうとしているが、つるつるしたすべり板の上では逆に、だんだんとずり落ちていく。

「ヴァ……ユ……」

 もう大声を上げる力もなく、雪羽は命の戦いを必死に戦いながら、ヴァルデミールのほうを頼りなげに見た。

 猫にとって、犬は天敵だ。だが ためらう余裕などあるはずはなかった。

 次の瞬間、すべり台と土佐犬とのあいだに、高速の影がしなやかに躍り出た。

 ヴァルデミールは、さっきまで捨てるかどうか悩んでいた魔族の体へと変化したのだ。長い角を高々と上げ、長いタテガミを鞭のように振り、牙を剥き出して、ひと声吼える。

 彼我の力の差を本能で感じ取った土佐犬は、急におびえはじめた。尻尾をまたぐらの間にはさみ、後ずさりしていく。

 ちょうどそのとき、佐和とともに公園に駆けつけたゼファーに、先回りしていた精霊の女王が呼びかけた。

「魔王よ」

「どうなった!」

「雪羽は無事だ。たった今、ヴァルデミールが死の危険を追い払ったところだ」

 そうは聞かされても、自分の目で確かめずにはいられなかったゼファーは、ようやく安堵の吐息をついた。

「……そうか」

「これで呪いは完全に解けた。そなたは、良い家臣を持ったな」

「ああ」

 ゼファーたちが来ているのを知らないヴァルデミールは、すべり台のほうを振り返って、大きな目に涙をいっぱい貯めている少女に笑いかけた。

「姫さま。もうだいじょうぶです」

 ところが、雪羽は身をこわばらせて、彼から離れようとした。

「……いやあ。こわい」

 そして、堰を切ったように泣き出した。

「ヴァユ、いやだ。ヴァユ、こわいー」

「……姫さま」

 ヴァルデミールは呆然と、異形と化した我が身を見つめた。



 近所の人の通報で警察がやって来て、土佐犬は捕獲された。飼い主らしき男もあたふたと現われ、ぺこぺこ頭を下げた。檻の掃除をしている間に、逃げ出してしまったという。

 騒動が終わって、野次馬たちも引き上げていった公園には、すっかり夜の帳が降りていた。

 幸いにして、魔族に変身していたヴァルデミールを見た人は誰もいなかったらしい。いっしょにいた佐和も、何も見ていない様子だ。もしかすると、精霊の女王が、霊力でうまく誤魔化してくれたのかもしれない。

 人間に戻ったヴァルデミールは、すっかり放心した様子でベンチに座っていた。地球で魔族の体に変じるためには、大きな魔力を消費するのだ。

「ヴァユ」

 見ると、雪羽がひどくしょげた顔で、彼の前に立っていた。

「ごめんなさい。こわいなんて言って。ヴァユは助けてくれたのに」

 自分の内側を見つめるようにして、ひとことずつ言葉をしぼりだす姿は、とても四歳の女の子には見えない。生まれながらに高貴な王女そのものだった。

「父上に叱られたの。ちゃんと、あやまりなさいって。だから、ごめんなさい。もうこわくないから。ヴァユのこと大好きだから。助けてくれてありがとう」

 雪羽の目にも、ヴァルデミールの目にも、涙が浮かんでいた。

「姫さま」

 彼は、雪羽の前に両膝をついた。そして頭を垂れ、その手をとって接吻をした。

「わたくしは生涯、姫さまの臣下です。姫さまをお助けするためニャら、命も惜しくありません」

「雪羽をずっと、ずっと助けてくれるの?」

「はい」

 ヴァルデミールは、こっくりとうなずいた。

 魔王閣下と奥方さまと姫さまをお守りするために、命をささげる。そしていつか、アラメキアに三人をお連れする。その役目を果たすためには、魔族である自分を捨てることなどできない。

 人間となって理子と寄り添うことなど、考えるまでもなく、最初から不可能だったのだ。

 悲しい誓いを心に刻み込みながら、ヴァルデミールは理子をあきらめようと思った。

『ヴァユ。ライ・イルシュ(おんぶして)』

「え?」

「だって、眠くなっちゃった」

 大きなあくびをしながら、彼の背中にもたれかかってくる雪羽に、ヴァルデミールは思わず、こわごわと主のほうを見た。

 ゼファーは素知らぬ振りをして、佐和といっしょに歩き始めた。その背中は、「褒美として、おんぶを許す」と言っているようだった。

「それじゃあ。姫さま、どうぞ」

 ふたりは、虫が盛んに鳴いている秋の夜の中を、ゆっくり家路についた。

「ねえ。ヴァユ」

「はい、姫さま」

「雪羽ね、にんぎょひめのお話、少しちがうと思うの」

「どう、違うんですか」

「にんぎょひめはね、にんぎょのままで、王子さまにあいに行くの。そして、にんぎょのままで、好きですっていうの。そして、王子さまも、好きですって言ってくれるの。ふたりは海のそばにおうちをたてて、しあわせにくらしました」

「……ああ。そのお話のほうが、ずっとずっと素敵です」

「そうでしょ」

 街灯にぼんやりと照らし出された夜道が、人魚や魚たちが行き交いながら、ゆらゆらと揺れる海の底に見えてくる。

 ヴァルデミールは、うとうとと微睡みはじめた雪羽を起こさないように、そっと背負いなおした。

 



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