世界で一番ふしぎな魔法
相模理子は、同窓会が大嫌いだ。
なのに、絶対に欠席はしない。どこでどんな商談のチャンスが生まれるかわからない場所には、マメに足を運ぶ。それが商売人の鉄則だ。
「理子ったら、昔はおとなしかったのに、見違えたわあ」
「社長ですって、すごいじゃない。私たちの出世頭よ」
「毎日三時起きですって。充実しててうらやましい。私なんて、子どもを幼稚園に連れてって、おしゃべりするだけで一日が終わっちゃう」
いかにも苦労知らずの主婦といった風情の同級生たちは、理子をやんわりとからかって、優越感を楽しんでいるのだ。
「あはは」
心の中が煮えくり返っても、理子はいやな顔ひとつ見せない。経営者となって以来、肌にしみついた習性だ。
けれど、たいていの場合は帰り道で忍耐の糸がぷっつり切れ、そこらにあるものに当り散らす羽目になる。
今夜も公園の入口にある車止めのポールをげしげし蹴っ飛ばしていると、一番会いたくない人間にばったり会ってしまった。
「あ、ヴァル」
「相模社長」
浅黒い肌の男は、気の毒そうな顔で近づいてきて、よしよしとポールを撫でる。
「かわいそうに。痛かっただろ」
「こら、私の足を心配せんか」
理子の工場で働く日系移民。理子より十歳以上若いし、いまだに正しい日本語を覚えないし、おつむも弱い。
「ところであんた、なんで、こんな時間にこんなところにいる」
「そろそろ寒くニャってきたから、こっちへ移ろうかと。ここの公園は木が多くて風除けにニャるし、鉄製の遊具の下は、夜でもあったかいんですよね」
「まだ公園で寝ているのか!」
理子はヴァルデミールの首根っこを、むんずと掴むと、豪然と歩き出した。
「ひゃん、ニャ、ニャにをするんです」
「従業員が公園でホームレスしてるなんて風評が立ったら、うちの信用にかかわるんだよ」
自分の家に連れて帰ると、理子は彼を、タンスの詰まった真っ暗な納戸に放り込んだ。
「当分ここで寝ろ。お父さんの知り合いにアパートの大家がいるから、空き部屋がないか聞いておいてやる」
「ええっ。アパートの家賃ニャんかが払えるほど、給料もらってませんよ」
「人聞きの悪いことを言うな!」
彼の頭を小突きながら、理子は心の中で悪態をつく。
(私もヤキが回ったな。こんな男に関わりあってる暇があれば、売り上げを一円でも伸ばすことでも考えればいいのに)
ころんだはずみで唇を重ねてしまうという、わが生涯最悪のアクシデント。それ以来、理子は彼のことが気になって、しかたがないのだ。
彼の頼りない姿を見るたびに、母性本能が刺激されるのか、つい世話を焼きたくなってしまう。
ふたりの会話を聞きつけて、父親の相模四郎が自室から顔を出した。
「おお、ヴァル。ちょうどよかった。さっきから背中が痒くてたまらん。掻いてくれんか」
「はい。会長」
ヴァルデミールはすぐさま駆け寄って、畳の上にうつぶせに寝ころんだ四郎の背中を、爪を立てないように拳を丸めて、そっと掻き始めた。
「いい気持だ。ヴァル。おまえは背中掻きのプロだのう」
目を細めてうれしそうな父親の顔を見て、とりあえずはよかったかと自分を納得させる。
台所に入り、インスタントコーヒーをマグカップに放り込んで、お湯を注いだ。
ひとくち啜って、ほうっと溜め息をつく。
理子の三十三年の人生は、家のためにあったようなものだった。
彼女とて、全く男に縁がなかったわけではない。OLをしていた頃は、けっこう異性にも誘われたし、彼女を想ってくれる男性も現われた。
だが、彼との結婚を真剣に考え始めた頃、母親が倒れ、そのまま他界してしまった。家と工場の雑用に忙殺されているうちに、結婚の話はいつのまにか立ち消えになった。
父も病に倒れ、工場の経営は理子が双肩に担うしかなかった。
寂しさも何もかも忘れるくらい、がむしゃらに働いた。ストレスで体重が二十キロも増えた。
それでも、これが自分にぴったりの人生だったと信じることにしている。親や、何の手助けもしてくれない兄姉たちを恨みながら生きたくはない。
だが、特に今夜の同窓会のように、あったかもしれない別の未来を見せ付けられるときは、何とはなしに心が乱れるのだ。
ヴァルデミールがいつものように、お昼の弁当を坂井エレクトロニクスに売りに行くと、ゼファーと工場長が頭を突き合わせて、なにごとか真剣に相談していた。
「目ぼしい弁当工場は、もうすべて当たったぞ。もっと他に需要のあるところはないのか」
「小学校はどうだ。学校給食でも使うだろう」
「そっちも難しそうだな。このところ、学校、病院、介護施設と言ったところの給食は、民間の大手企業への業務委託が増えている。入札の時点で従業員数や予算まで決まってしまうから、そう簡単には、大型の機械を売り込む余地があるとは思えん」
ふたりは、天城博士の発明した【全自動高速乱切り機】の販路拡大について話し合っているらしい。
いいものを作っても、それが売れるとは限らない。大々的な宣伝や広告もできない中小企業では、地道に足で売って回るしかないのだ。
(その点、うちの社長はすごいニャあ。売店でもスーパーでも見かけたら入っていって、さっさと話をまとめてしまうもんニャあ)
やっぱり理子は、アラメキアの最高位の魔女に匹敵する魔力を持っているのだと思う。手料理は美味だし、体もふかふかで、あったかくって……。
ヴァルデミールは夢見心地になって、はっと我に返った。どうも、ソファの上で理子に押しつぶされそうになってからというもの、頭のどこかがおかしくなっているみたいだ。
「ヴァルデミール」
打ち合わせが終わったのか、ゼファーが近寄ってきた。
「シュ、シュニン、おはようございます」
主の深い色の瞳を見ると、ときどき頭の中を覗かれているようで、ドキッとする。
「今日は塩鮭の特売日だぞ。夕飯を食べに来ないのか」
「もちろん、うかがいます!」
このところ、ヴァルデミールの毎日はけっこう忙しい。
このあとは、天城研究所に弁当を届け、ユーラスが小学校から帰ってくるまで、暇そうな天城博士と少し遊んでやる。それから、あちこちの公園や高架下を回っては、おなかを空かせている人を見つけて、売れ残りの弁当を食べてもらう。
佐和が買い物や夕飯の支度で忙しくなる頃、雪羽と公園で遊ぶのも大事な日課だ。
『ヴァユ。ソディ クルト(ここに座って)』
『ラァラァ(はいはい)』
雪羽は、このところよくアラメキアの言葉を話すようになった。くるくると走り回っては、ヴァルデミールの前の葉っぱのお皿に、せっせと花びらの料理を盛り付けている。
(やっぱり、姫さまはかわいいニャあ)
その様子を、ヴァルデミールはうっとりと眺める。
(アパートニャんか借りるお金があったら、姫さまに新しいドレスを買ってあげたいよ)
仮にも、高貴なる魔王の娘。従者である自分などとは、およそ身分違いであることはわかっている。
だから何も期待はしていない。ただ、見つめるだけでいいのだ。
雪羽が美しく成長して、アラメキアで女王の座に即位するとき、彼に向かって、「そなたが仕えてくれたおかげだ」とひとこと言ってくれれば、もうそれだけで死んでもかまわない。
気がつくと、雪羽がふくれっ面になって、じっとのぞきこんでいる。
「ヴァユ、お鼻の下が伸びて、変な顔ぉ。ちゃんと食べてよ」
「す、す、すみません」
あわてて鼻の下を片手で隠し、おままごとの料理を全部口の中に放り込んだ。
ある日、弁当の配達を終えたヴァルデミールが、売上金の精算のために相模屋弁当の事務室へ戻ってくると、社長の相模理子の巨体が、いつもの半分くらいに小さく見えた。
唇まで、心なしか蒼ざめている。
「ど、どうニャさったんですか」
「うちの弁当を食べたお客さまの中から、食中毒患者が出た」
「ええっ」
「まだ報告は一件だけだ。うちの弁当のせいだと決まったわけではない。私は今から保健所に行ってくる」
理子は心細げな、訴えるような目でヴァルデミールを見た。
「父を頼む。ひどくショックを受けている。従業員たちに気づかれぬよう、こっそり家に連れて帰って、面倒を見ていてくれ。血圧の薬も、忘れずに飲ませるんだ」
「は、はい。わかりました」
それからヴァルデミールは、相模会長の小脇をかかえて、工場の裏手にある家に連れて帰った。布団を敷いてから、濡れタオルで顔を拭き、寝巻きに着替えさせてやった。
「もう、終わりだ」
四郎は横になると、天井を仰いで、力なくつぶやいた。
「弁当屋は、食中毒を出したら、おしまいだ。何十年かけて培った信用が、一瞬にして失われてしまう」
「だいじょうぶです。まだ、うちのせいだニャんて決まったわけじゃありません」
ヴァルデミールは、わざと明るく答えた。
「あれだけ社長が毎日、清潔第一と言ってるじゃありませんか。材料だって一番いいものを仕入れているし。ニャにがあっても、絶対にうちの弁当は日本一です」
理子にいつも、「手を洗え、髪を縛れ、風呂に入れ」と怒鳴られていたことを思い出す。
口うるさいと思っていたが、理子は必死だったのだ。決してうちの会社から食中毒を出してはならないと。
理子がどれだけ、この相模屋弁当を愛しているかを、ヴァルデミールは今ようやくわかった気がした。
外が薄暗くなった頃、理子はころげるように家の玄関に飛び込んだ。
「うちじゃ、なかった!」
ぜいぜいと息をする合間に、きれぎれに叫ぶ。「食中毒の、原因は、三時の、おやつに食べた、古い饅頭だったそうだ。うちの弁当のせい、じゃなかった」
「ほんとうか!」
四郎は布団からガバと跳ね起きて、奥の部屋からどたどたと廊下を走ってきた。
「お父さん。あまり興奮するな。血圧が上がる」
理子は汗だらけの顔に泣き笑いを浮かべた。「私は今から工場に行って、報告してくる」
ひんやり感じられる空気を胸いっぱい吸い込むと、理子は事務室に急いだ。心配して待っていた専務に今日の結果を伝え、明日の朝、従業員たちに一層の手洗いの励行を訓示するように命じた。
「……疲れた」
建物を出て見上げると、空には星が瞬き始めていた。
保健所だけですんで、まだよかった。もし、このことがどこかから漏れ、噂が一人歩きを始めてしまえば、いくら濡れ衣だと弁解しても信じてもらえない。
そのことを考えると、虚脱感で膝の力が抜けていきそうだ。
工場の門のところで、仕事を終えたパート従業員たちが、自転車のハンドルを手に、ぺちゃくちゃ井戸端会議に興じていた。
「相模社長って、毎日元気よね。すれ違うと風圧がすごいの」
「そうそう、朝礼のときでも耳をふさぎたくなるくらいの大声」
「女を捨ててるよねー」
爆笑。
理子はぼんやりと、その会話を聞いていた。
「あっ、社長」
ひとりが後ろを振り向いて、理子がいるのに気づき、慌て始めた。
「かまわない、かまわない。本当のことだ。もう女なんて、とっくに捨てている」
理子は、蒼白になっている従業員たちの前で、あけっぴろげに笑ってみせた。従業員に恥をかかせ、恨みを抱かせてはならない。場を和やかに収めるのが、経営者の心得だ。
「しかし、風圧かあ。うまいこと言うな。あははは」
笑いながら、彼女たちに背中を向けて家に戻った。
玄関でハイヒールを脱ぐために下を向いた拍子に、涙がぽろりとこぼれる。
「……ばかみたい。女と見られてもないのに、こんな痛い靴を我慢してはいて」
「おかえりニャさい」
ヴァルデミールが彼女を出迎えた。その能天気そうな笑顔を見たとき、理子の中で何かがぷっつりと切れた。
「どうせあんたも、陰で笑ってるんだろう。私のこと、女を捨てたと思ってるんだろう」
「え?」
「何のために……何のためにいったい私が、今まで苦労してきたと思ってるんだ――!」
理子は、わめきながら彼に殴りかかった。まるで公園の車止めのポールみたいに、この細い長髪の男は叩きやすいのだ。どんなひどいことをしても、受け止めてくれるのだ。
「好きで女を捨てたんじゃない。好きで元気でいるわけじゃない。私がそうしなきゃ、こんな会社、とっくにつぶれていた。誰も助けてくれないから、悪いんじゃないかあっ」
「社長!」
ヴァルデミールは、なんとか彼女を落ち着かせようと、両腕ですっぽり羽交い絞めにした。何発も殴られたが、逃げることなど考えてもいない。ようやく居間のソファまで引きずっていき、座らせた。
「離せ……離せぇ……うわああっ」
「社長……」
ヴァルデミールは、ただひたすら理子を抱きしめる。柔らかくて熱い体が、プリンのように震えている。赤い縁の眼鏡はいつのまにか吹き飛んで、小さな黒い目が涙に濡れている。
不思議だった。理子が弱々しい少女に見える。愛おしくて、いじらしくてたまらない。
きっとヴァルデミールは、このとき最高位の魔女の魔法にかかってしまったのだ。
理子の頬にキスをすると、理子は暴れるのをやめた。
今度は涙をぺろりと舐める。理子は完全に脱力してしまった。
ぐったりとして倒れるとき、丘のような膨らみがぷるんと揺れた。
この柔らかそうな場所に顔を埋めたら、どんなに気持がいいだろう。このふわふわに包まれて日向ぼっこできたら、どんなに暖かいだろう。
じっと彼女の体に視線を定めていると、とんでもないことが起こった。
普段はお行儀がよくても、ヴァルデミールは若い男だ。欲望にいったん火がつくと、自分では止められない。理性など吹き飛んでしまい、野性に完全に支配されるのだ。
魔族にとって、それは人間の体から猫の体に変化することを意味していた。
「……?」
目をぎゅっと閉じて、次に起こることを待っていた理子は、そっと薄目を開けた。
「ぎゃああっ」
「にゃにゃっ?」
その超音波のような悲鳴で、ヴァルデミールは自分が黒猫になってしまっていることに、ようやく気づく。
あわてて人間に戻ったところへ、ちょうど折悪しく、何事かと飛んできた父親の四郎が、がらりと引き戸を開けた。
彼が見た光景は、ソファで仰向けにひっくりかえっている娘。そして全裸になってその上にまたがっているヴァルデミール。
「……邪魔したな」
するすると引き戸が閉まった。
「か、会長」
ヴァルデミールは服を掻き集めて、呆然とするばかり。
恐怖にわなないている理子と、目が合った。
「……あ、あの、社長」
「きゃああ。来ないで!」
クッションが、顎を直撃した。「妖怪! 化け猫! 向こうへ行ってぇ」
ヴァルデミールは、服をあたふたと身につけると、家を飛び出した。
こういうときには、行くところはひとつしかない。
「どうした」
ゼファーが瀬峰家の扉を開けた。ヴァルデミールが項垂れたまま中に入ろうとしないのがわかると、真顔になった。
「外に出よう」
ふたりは、宵闇の中で、アパートの鉄製の階段に座り込んだ。
「何があったんだ?」
ヴァルデミールは、かすかに首を振った。
「相模社長に……化け猫と呼ばれてしまいました」
「……」
「変ニャんです。それからずっと胸が苦しくて……ニャぜでしょう。まるで、タチの悪い呪いをかけられたみたいです」
「ちょっと待ってろ」
家に戻ってきたゼファーは、おにぎりの乗った皿と麦茶のコップを従者に差し出した。
「食え」
「はい……いただきます」
一口、頬張る。ゆっくりと噛みしめる。
佐和の握った鮭のおにぎりは、なぜか、いつもよりずっと塩の味がした。




