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窓ひとつ分の希望


 敗北とわかっている戦いに出陣する朝には、こんな空が見られるのか。

 雨の宵から一夜明けて、ゼファーは痛いほど美しい青を目に刻みつけるように、頭上を見上げた。

 雪羽は昨夜、父親の帰りを待って夜更かししたせいで、まだ奥の部屋で寝ている。娘の笑顔にさえ、つい救いを求めてしまう自分は、相当心が弱くなっている。

「行って来る」

 妻の佐和は微笑み、こっくりとうなずいた。

「いってらっしゃい」

 『がんばって』や『気を落とさないで』や、そのほかのどんな言葉をかけても、夫に無理を強いてしまいそうで、恐い。

 今の彼女にできることは、黙って彼の帰りを待つだけ。佐和はいつものように、玄関わきの小窓から、ゼファーの後姿が角を曲がるまで、祈りをこめて見送った。

 一歩一歩を踏みしめるように歩きながら、ゼファーは工場に向かった。

 今日は、「坂井エレクトロニクス」の最後の日になるかもしれない。明日の朝になれば、小切手の不渡りが確定してしまう。それをどれほど避けたくても、今の会社には180万円の資金を明日までに調達する手段がないのだ。

 たったひとつ、自分に思いつくことのできる解決法がある。だがそれだけは、考えぬように努めていた。頭の隅に追いやられた考えは、ずきずきするような幻惑をもって、その存在を主張した。

 工場の門をくぐったとき、ゼファーはいつもと違う光景に、足がすくんだ。

 建物の正面入口にも、搬出口にもシャッターが降りているのだ。

 覚えている限り、出勤時にここが閉まっていたという記憶がない。早出の工員の誰かが、必ず一番最初に、ここを開けているはずだ。

 ゼファーは思わず駆け寄った。もしや、社長はすでに廃業を決めてしまったのか。それとも、倒産の気配を察知した取引先が一斉に押し寄せてくるのか。

 脇の小さな通用口から工場の中に飛び込むと、ゼファーはぽかんと口を開けた。

「主任、ドアを閉めて、早く早く。逃げちゃう」

 工員たちが大騒ぎしながら、暗い工場内で天井を見上げている。

「何をしている?」

「インコですよ。インコ。ほら、あそこの斜めの梁のあたり」

 工員のひとりが指差す先には、一匹の緑の小鳥が、大空を求めてうろたえるように羽ばたいていた。

「今朝、工場の入口を開けたら、飛び込んできたの」

「近所で飼ってるヤツが逃げ出したらしいです。あわててシャッターを降ろして、みんなで捕まえようとしてるんですが」

「なのに、飛び回ってなかなか捕まらないんだーっ」

 ゼファーは、隅に置いてあった巻きコイルの束の上に、がっくりと腰をおろした。

 口元をおおった片手のすきまから、止めようとしても笑い声が漏れる。

 明日から自分の仕事がなくなるかもしれないというときに。従業員たちも、そのことは、とっくに感づいているはずなのに。

 一匹のインコのために、皆でこれだけ夢中になれるものなのか。

 焼けついていた心に、スポイドで一滴の水を垂らしたようだ。笑いながら、ゼファーは彼らのことが心底から、いとしいと思った。



 結局、飼い主を捜し出して、鳥かごを持って来てもらい、ようやくインコ騒動は終わりを告げた。

 シャッターを開け、全員で朝の準備を急ぎ始めたとき、旋盤工程の樋池が近づいてきた。

「主任、あの……」

 何か話したそうにしていたが、その小声を資材係の重本の大声がかき消した。

「主任、ちょっと」

 ゼファーが思わずそちらに向くと、搬入口のほうから、強ばった顔をした重本が走り寄ってきた。

「H004のコーナー用のブラケット部品が足りねえ」

 他の工員たちに聞こえないよう、彼なりにささやいているつもりだが、すでに工場中の全員が耳をそばだてている。

 予想していたことであった。この部品の卸元からは、もうずいぶん前に現金でしか取引をしないと通告されている。

 支払う現金が尽きた以上、部品が足りなくなるのは時間の問題だったのだ。

「どうする。もう一度、注文の電話を入れてみるか」

「いや」

 ゼファーは首を振った。

「ある分だけでいく」

「ある分だけったって」

 重本の顔が蒼くなった。彼の押してきたカートの上には、わずか50個ほどの部品しか乗っていない。これでは、二時間も経たないうちに部品が尽きてしまう。

「そのあとは――?」

 ラインが止まる。

 それは、製造主任であるゼファーにとって、一番恐れていた瞬間だった。

 資材の搬入が途絶え、旋盤が鳴り止み、研磨用機械が動きを止め、そして何も流れてこないのを感知したベルトコンベアが、自動的に電源を切る。

 毎日、絶え間ない騒音に包まれていた工場が、昼間からひっそりと静まり返るのだ。息を止めて地面に崩れ落ちる巨獣のように。

 ゼファーの苦悩の表情を見て、重本も樋口も黙り込んで、それぞれの場所へ戻っていった。

「とうとう、このときが来たか」

 振り返ると、工場長がゆっくりとした足取りで歩いてきた。

「社長から今、電話があった。やはり事態は変わらないらしい」

「そうか」

 ゼファーは深い息を吐いた。「昼休み前にみんなを集めて、説明しよう」

「いや、俺から説明するよ。工場長としてせめて、それくらいさせてくれ」

 ふたりは並んで、見慣れた朝の作業が進んでいくのをじっと見つめた。もう明日から二度と見られなくなる景色として。

「なんとかならんものかなあ」

 工場長は、あきらめと悔しさが半々に入り雑じった声で、うめくように言った。

 ゼファーはそれには答えず、足元に視線を落として、また上げた。

「少しだけ、ここを頼む」

 言い置くと、搬入口から工場の裏手に出た。

 外に出たとたん夏の光に目を射られて、思わずシャッターの取っ手を掴んだ。

 空気を求めて、あえいだ。ずきずきと、みぞおちが痛む。

 アラメキアの魔王城でユーラスたちに負けたときも、これほど痛かったか。アケロスの洞窟で手足を四本の剣で釘づけられた、あのときの絶望は、これほどまでに果てしなかったか。

 搬入口から正面にかけて、建物の周囲を細長い花壇が連なっている。事務の女性が毎年春に球根を植え、この時期になるとダリアやグラジオラス、ゼフィランサスといった華やかな大輪の花が咲きそろう。

「精霊の女王」

 と思わず呼びそうになって、ぎりぎりと歯を噛みしめた。

 結局俺は、精霊の女王の力を借りなければ、ひとりでは何もできないのだ。

 あのときも、そうだった。

 佐和が転移装置の暴走で命を失ったとき、ゼファーはありったけの魔力をこめて、呪術を行なった。

 『自分は蛆虫になってもよい。佐和を生き返らせてくれ』と。

 確かにその後に訪れたのは、汚辱と侮蔑にまみれた日々だった。だが、この肉体が本当に蛆虫にならなかったのは、精霊の女王が彼をあわれみ、呪術の呪いを霊力で無効にしてくれたからなのだ。

 だが、今度同じことを行なえば、そうはいかない。

 今のゼファーの魔力は、ほとんどゼロに近い。この状態で呪術を用いるためには、蛆虫どころか生命と引き換えにするほどの覚悟がなければ、不可能だ。

 呪いによって生命を奪われるか、良くても精神の崩壊は避けられまい。

「会社が救われるなら、この命など惜しくない。だが……」

 それは佐和と雪羽を置いていくことだ。苦しみから逃げることだ。自滅への衝動と懸命に戦った果てに、ゼファーは力尽きたように苦笑した。

「やはり俺にはできないよ、ユスティナ」

 初夏の風が吹いてきて、花壇の花々を揺らした。まるで誰かが「当たり前でしょう」と微笑んだように。

「逃げるわけには、いかない」

 彼は祈るように、空を仰いだ。

「せめて俺に、運命を受け入れる勇気をくれ」



 夜の工場内は暗く、静まり返っていた。

 ゼファーと工場長が中に入ったとき、坂井社長のシルエットが、ぽつんと機械のそばに佇んでいた。

「きみたちには、苦労をかけたなあ」

 社長はふたりを見ると、やつれた顔に痛々しい笑みを浮かべた。

「どうあがいても、会社を立て直すのは無理だったよ」

 ゼファーたちは何も言うことができず、ただ社長を見つめた。

「今朝まで、博多にいるわたしの息子に頭を下げに行っていたんだ。百八十万貸してくれと頼んだら、思い切り怒鳴られたよ。何を考えてるんだ、俺たちまで巻き込んで、一家心中させる気かと。……あれで、目が覚めた」

 目尻をくしゃりと下げて、社長は微笑んだ。微笑みながら、涙をこぼした。

「わたしのやっていたことは、ただの時間延ばしだった。ますます借金を広げるだけだった。ここで止めなきゃならんと、ようやく決心がついたよ」

 その言葉を聞きながら、心臓がつぶれそうだった。

「だが、きみたち社員とその家族全部を路頭に迷わせてしまう。そう考えると、どうしても、ふんぎりがつかなくてなあ。なんとかして、この工場を続けたかった。社員のみんなには、いくらお詫びしても、お詫びしきれんよ。この汚い首を吊ったって、誰も喜ばんしなあ」

「社長」

「瀬峰主任。きみがわたしが自殺するのではないかと、毎日帰り道まで見張っていてくれたことを知っとるよ。すまなかった。だが、本当はそんな必要はなかったんだ。生命保険なんか、もうとっくのとうに解約して、運転資金に使ってしまっていたんだからな」

「……」

「ほんとうに、すまなかったなあ」

「社長!」

 ゼファーは、ぶるぶると小刻みに震えている社長の肩をぐいとつかんだ。

「もういい。もう戦わなくていい」

「……瀬峰くん」

「おまえは、よくやった。戦いつくした。もう、十分だ」

 工場長が背後で、男泣きに泣く気配がした。

 負けたとわかっていても、剣先を収められぬ悔しさを、ゼファーは痛いほど知り尽くしている。

「みんなのことは、俺たちが何とかするから」

 魔王の目から、一筋の涙がしたたり落ちる。

「あとはまかせろ。今は何も考えずに、ゆっくり休め」

「……すまない」

 それだけ言って、あとは声もなくしゃくりあげる社長を椅子に座らせると、ゼファーは持って行き場のない拳を、彼の背丈以上もあるフライス盤の機械に叩きつけようとした。

 その瞬間だった。

「みニャさん! 早まらニャいでくださいっ」

 叫び声とともに、浅黒いしなやかな身体が、風のように通用口をすり抜けて飛び込んできた。

「ヴァルデミール?」

 魔族の忠臣は両掌を膝に当てて、ぜいぜいと息を整えると、得意そうな顔になった。

「間に合いました。機械が売れたんです!」

「――?」

 『坂井エレクトロニクス』の幹部たちは、ぽかんとした顔で、ただ若者を見返す。

「何の機械だ?」

「だから、ニンジンの機械ですってば」

 じれったそうに答えるヴァルデミールの後ろから、今度は旋盤工の樋池が、年輩の矢口を引っ張るようにして、走ってきた。

「社長」

 樋池は満面の笑顔で、報告した。

「うちが作った試作品の機械を一台、正式に納入してきました」

「うちが? 試作品?」

「正確に言えば、わたしが作った機械だ」

 ユーラスに背中を押されながら、白髪をふり乱した天城博士が入ってきて、一気にまくしたてた。

「加速度センサーを利用して材料の三次元角度を計測し、水平ならびに平行移動を組み合わせた回転シャフトによって均一に切る『全自動高速乱切り機』だ」

 そして、息を整えたあとに、さりげなく付け加える。「あくまでもわたしの発明だぞ。シャフトの加工と調整には、ちょいと、ここの工員の手助けを受けたがな。――もちろん、すでに特許出願済みだ。ここの会社の名義にしてやったぞ」

 そして一番最後に、手足の不自由な『相模屋弁当』の会長、相模四郎が娘の理子に付き添われて、ゆっくりと杖をつきながら入ってきた。

「坂井くん」

「さ、相模さん」

 坂井社長はあわてて立ち上がった。

 商工会議所で会えば、挨拶くらいは交わす。だが、それ以上に親しい仲ではない。戸惑う坂井社長に、相模会長は一枚の紙片をすっと差し出した。

「額面二百万円の小切手だ。明日朝一番に支払うように、銀行には話を通してある」

「……」

「とりあえず、今日うちの工場に納入してもらった機械の代金だ。もう一台注文した方の分は、後日支払う」

「ええっ。も、もう一台買ってくださるんですか」

 ヴァルデミールは目を丸くし、疑わしそうに社長の理子のほうを見た。

「性能は、試運転を見たら明らかだ」

 理子は、ぶっきらぼうに答えた。

「たった三分で、百五十本の人参の皮を剥き、ぴったり3センチ角の乱切りにした。熟練のパートが十人がかりでも、ここまではいかない」

「この機械なら、弁当会社や食品加工会社に飛ぶように売れるぞ。あとはきみたちの営業の腕しだいだ」

 相模会長は、杖でとんと工場の床を打った。「坂井くん。いい部下たちを持ったな」

「あ……ありがとうございます」

 社長は床に正座して、泣きながら深々と頭を下げた。

 ぽっかりと円い月が天窓から光を注ぎ込み、工場内を静かに照らした。



 深夜の路地に、人々の影が躍っている。

 あれから、知らせを受けた工員たちが続々と工場に押しかけ、会社の存続を祝って乾杯した。

 インコの飼い主が、捕まえてくれたお礼だと言って、酒屋からビールやジュースをケースごと届けてくれたのだ。

「じゃ、ここで失礼する。主任」

 矢口は工場の角を曲がったところで、言った。労をねぎらうゼファーに、老工員は首を振った。

「そのことばなら、あんたを慕ってるあの若いのに、言ってやりな。それと樋池に。このふたりは幾晩も寝ないで、頭つき合わせて回転シャフトの調節をしておったんだから」

 そして、背中を向けて片手を上げた。「もう、俺のような年寄りの出る幕じゃないよ」

 次いでゼファーは、隣町の研究所に帰って行こうとするユーラスと天城博士に声をかけた。

「――何と言って感謝すればよいか。ナブラ王」

「余に礼を言うのは、筋違いだぞ」

 少年は振り向き、蒼い瞳を悪戯っぽく、きらめかせて笑った。

「わからぬか、魔王よ。これだけの人間を動かしたのは、おまえの力だ」

「え?」

「おまえとおまえの従者が、何のゆかりもない者たちの心をひとつに結び合わせた。余とアマギも含めて、な」

 天城は、ユーラスの隣で腰をとんとん叩いている。

「やれやれ、これだけ走ったのは、二十年ぶりだ。敵に弁当を届けるお人よしの男のためとは言え、面倒くさいことだ」

 彼らが遠ざかるのを見送って、ゼファーは最後まで残った従者を、優しい眼差しでじっと見つめた。

「ヴァルデミール」

「はい、シュニン」

「よくやった。礼を言う」

「何をおっしゃいます」

 ヴァルデミールは、無理に怖い顔をして答えた。「しもべが主人のために働くのは、当然至極。礼ニャど、他人行儀というものです」

「そうだな」

 ゼファーは、一歩後を歩いていた若者を引き寄せて、背中を撫でた。

「だが、俺はうれしいのだ。おまえが俺のために手を尽くしてくれたことが、何よりもうれしい」

「そんニャ、もったいニャい」

 ヴァルデミールは照れくさげに、しきりにヒゲをこする真似をした。

「ほうびを取らせる。望みのものを言え」

 つい魔王の頃の口癖で言ってしまってから、ゼファーはあわてて付け加えた。「――できれば、二千円以内だとありがたいが」

「それニャら、おことばに甘えて、塩鮭を二切れいただきとうございます。次の特売の日でけっこうですので」

「それだけで、よいのか」

「それと、もしお許し願えますニャら、一晩だけ猫の姿にニャって、シュニンのおふとんの足元で、ごろごろさせていただきたく存じます」

「わかった。許す」

「ありがたき幸せ」

「ただし、雪羽に近づいて寝顔をながめるのは、絶対に禁止だからな」

「も……、もちろんです」

 従者は、しょんぼりと肩を落とした。



 ゼファーは月が煌々と輝く夜半の空を見上げた。

 これで確かに、とりあえず会社は永らえた。だが、あくまでも、とりあえずだ。

 五十二人もの社員を雇っている会社が、機械を一台や二台売ったからと言って、喜んではいられないのだ。相模会長はああ言ったが、この『全自動高速乱切り機』を会社の主力商品とするまでには、まだまだ時間が必要になる。

 明日からまたリンガイグループを相手に、生き残りのための戦いが始まる。今は、小さな覗き窓がうがたれて、そこから何かが垣間見えたに過ぎない。

 だが、それは、ほんのわずかではあるが、窓の向こうに確実にある希望だった。




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