7.西の砦へは戻りたくありません(1)
リリィは今日も日課である畑の水やりに精を出す。
倉庫の隅に置かれた桶と柄杓を手に取り、井戸までいって水を汲み上げる。
桶いっぱいになったら、少しふらつきながら畑へと運んだ。
彼女のエプロンに縫い付けられたポケットはふっくらと膨らんでいて、右にはターニア、左にはロビンが入っている。
「我が主、もし危険を察知したら物陰まで走ってくださいまし。すぐに執務室へ移動いたしますわ」
ポケットの口から顔を覗かせたターニアが、リリィに向かってアドバイスをくれる。
「大丈夫よ。水やりの時間帯も変えたし。誰も来ないはずだもの」
昨日会ったフレディとポピィとは他愛無い話をしただけで、それ以上はなにもなかった。
ただ、気を遣うという点でリリィは二人を避けようとしていた。
パシャパシャと根元に水をかけ畑の土を湿らせていき、何度か井戸まで往復して戻ってくると、そこにはフレディとポピィがいた。
「「こんにちは、リリィちゃん」」
「こんにちは。フレディ様、ポピィ様」
水がたっぷり入った桶を持っているリリィは走り出すことができない。いや走る理由も特別ないのだけれど。
そうこうしているうちにフレディとポピィはリリィの両脇に移動してきたので、仕方なしにベンチへと向かった。
昨日の続きの始まりである。
「――それでね、みんな困ってしまったんだ」
フレディは西の砦の状況――いかに困って大変かを語りつくした。
その話を聞いてリリィは西の砦のことを思い、心がずんと重たくなる。
もうリリィが一緒に働いていた兵士のおじちゃんたちも救護班のおばちゃんたちも居ないはずなのだが。
過酷な状況で苦しんでいる人々の様子が、大好きな人たちの苦しむ顔で浮かび上がる。
同時に西の砦で争っていた相手方が、記憶から這い出してきた。
ある者は、徒党を組んで攻め入ってきた。
ある者は、命乞いをして西の砦に入り込み、盗みを働いた。
ある者は、単身乗り込んできたところを捕らえたら、恨み言を叫び続けていた。
山賊、義賊、強盗、流民。呼び名こそ違うが、全て大陸の西にある国の抗争で、命からがら西の砦付近まで逃げてきた者たちだ。
西の砦は、彼らになにかをした訳ではない。
なのに彼らは自分たちの不幸な境遇を、刃を交える正義として主張し向かってくるのだ。
それを相手にすることが、どれだけ大変かはリリィも知っている。
卑怯で姑息な手を繰り出すことに、なんの抵抗もない連中なのだ。
「新しく来た兵士は貴族出の優秀な者ばかりでね。ただ戦い慣れていないから苦戦しているだけなんだ。ずっと戦い続けられれば成長できる。でも、そのためには怪我を治す人がいなくてね」
だから、ちっとも上手くいかないのだとフレディは言った。
「リリィちゃんなら分かってくれるよね。それに君は優しくていい子だから、大変な目に合っている人たちを見捨てることなんてできないだろう?」
「本当に西の砦って大変なのね。こんなに必要とされるなんて、リリィちゃんは優秀だったのね」
「とても優秀だよ。来てくれたら、きっとみんな大喜びだ」
「これで行かなかったら、西の砦の人たちが可哀想だわ」
膝の上に置いたリリィの手にギュッと力が入って、エプロンを握りしめた。
ポケットに入っていた、ターニアとロビンは、その手に近寄って何とか気づいてもらおうと、突いたり叩いたりと必死で合図を送っていた。
けれど、大変な惨劇が頭の中を駆け巡っていたリリィは、その刺激に気付けない。
「リリィちゃん、同じ聖女候補生になったよしみでアドバイスするけど、人から求められることって、とっても凄いことだし尊いことなのよ。力を出し惜しみしていると見向きもされなくなってしまうわ。そうなってから後悔しても取り返しがつかないものよ」
「僕を助けると思って協力してほしい。リリィちゃんしかいないんだ」
懇願されてもリリィが中々頷かないでいると、話の流れが、まるで我儘を説得するかのような方向へと変わっていった。
「悩むほど難しいことかな? リリィちゃんがいつもしてくれていたことなのに」
「前までやっていたお仕事なら、出来ることをやるだけなんだし。悩む必要はないと思うんだけど」
状況に耐えられなくなり、でも、ここで頷くのも違う気がして、リリィはなんとか言葉を絞り出した
「あ、の。私、ひとりでは、決められないので……。相談、してみま、す」
決して、行くとも行かないとも言ってはいない。
「ああ、ありがとう。良い答えが聞けることを期待しているよ」
「困ったら、あたしに言って。ノア君を説得するなら一緒に行ってあげる!」
(そんなつもりじゃないのに。どうして――)
とにかくリリィを頷かせたいフレディとポピィの言葉は、巧妙であった。
気が済んだ二人に解放されて、リリィがなんとか執務室まで戻ると、今度はポケットで一部始終を聞いていたターニアがブチギレた。
「もおおおおお。なんなのです、あの者たちは! ノア、大変ですわ。西の砦の者たちが我が主を言いくるめて連れ去ろうとしています!」
さっそくノアに告げ口し、事情を察したノアも、その件は笑って過ごせないので過剰に反応する。
「はあ?! コープル辺境伯の子息と会っていたってどういうこと! 畑に水やりに行っていたんじゃなかったの?」
「あの、会っていたんじゃなくて、向こうから、来ただけで」
「今日、初めて来たの?」
「昨日も来ました」
「どうして昨日言わなかったの。そもそもこの前会った時も様子がおかしかったよね。大丈夫だって言っていたのに、どういうことなの?」
きつめの口調で責められて、リリィは下唇を噛んだ。
ノアもターニアもリリィの周辺をうろつくフレディに激怒しているのだが、その内容はリリィを責め立てるような言葉になっていた。
「だって、悪い人じゃないし。昨日までは普通だったから」
ああ、そうやって油断させて仕掛けてきたのか、とノアはギリっと奥歯をかんだ。
「で、どうして直ぐに帰れるようにターニア様を頼らなかったの? そのために一緒に行ってもらっているんだろう」
「それはポピィ様とフレディ様が両側にいて、ずっと話しかけてきたから」
「そういう時は、相手に不審に思われても走って物陰に隠れるように、あらかじめ決めてあったよね!」
「そう、だけど――」
フレディとポピィの話にショックを受けて気付けなかったといったら、ノアはもっと怒るだろうか。
ノアとターニアが怒ってしまったことがつらくて、リリィは話を続けるのが怖くなってしまった。
「ごめんなさい」
「次から気を付けてくれるならいいんだ」
謝罪を聞いたノアはリリィが理解してくれたのだと受け取ったのだが、彼女はつらい状況から逃れたくて謝っただけである。
結局リリィはフレディやポピィに困っていることを話そうとはしなかった。
再びつらい状況に戻りたくなくて相談できなくなってしまったのだった。
黙って成り行きを見ていたロビンは、アーサーのところに飛んでいくと今日の出来事を耳打ちした。
頭に血が上ったターニアや過剰に反応しがちなノアでは、リリィの話を聞きだすのは難しいと考えたのだ。
リリィだけでフレディやポピィを退けるのは難しい。彼女に逃げ方や上手い返し方を教えたところで、太刀打ちできるようには思えなかった。
ポピィとフレディは聞こえの良い言葉で下手に出ながら、話す内容は自分たちの要求を通そうとするものばかりであった。
断れば、まるでそれが悪いことように話を持っていったので、相手方も簡単には諦める気はないのだろう。
ロビンから見て、フレディとポピィは中々狡猾に見えた。
話を聞いたアーサーは、俯いて何かにじっと耐えて下唇を噛むリリィを目にし、思わず彼女の名前を呼んだのだった。




