第83話
影とは何処まで振り払おうとピタリと着いてくる、厄介な追跡者であり。心に巣食う鬱陶しい同居人である。
今、そのことを取り囲まれた男は嫌という程に実感していた。炎を振りまき、牙を打ち鳴らし、咆哮を洩らす。それでも、緩やかに距離をとる目の前の陽炎は着いてくる。
「それで終いかい? 狩人様も随分とお優しくなられたようだね。」
「戯言を!」
「苛立っているのなら、頭を冷やすといいよ。そんな暑そうな毛皮は削いでやるからさ!」
無造作に振るわれた妖刀がこの世界の空間を這って何重にも振るわれる。目に見えるものは錯覚、この世界において触れえている影そのものがアルスィアの刀だ。
影の世界にもっとも馴染み、慣れているのはアルスィアだ。炎を振りまき全てを燃やしていく獣は、しかして世界を喰らう事はない。
「いつまで耐えられるかな? この絶望の世界に。」
「絶望? こんなものがか? 地獄とは全てが過ぎ去った後にある! 焦がれるものがあるのなら折れることは無い!」
「……そこだけは理解できるかもね。まぁ、そこだけだけ、ど!」
天を仰ぐ刀が振り落とされ、天蓋に穴が空いたように影が漏れる。暴刃となって飛沫が襲う中に、避けるより飛び込んだ獣は爪を振る。
安全地帯……刃の過ぎ去った後ろの空間までの最短距離。焼き切った後に宙へ踊らせたその身に、アルスィアが腰溜めに構えた刀を一閃、横薙ぎにする。
「触れれば斬れる、足場にすら出来んとは鬱陶しい棒切れよ。」
「足蹴にしといて、よく言うよ。」
「刃でしか斬れぬと思い込む、脆弱な己の魔法を呪えば良かろう。」
「なるほどね、なんて簡単に認識を変えられるなら苦労はないけどさ!」
刀を蹴って地上に達した獣が、影の地を駆ける。吹き出す暴刃さえ、アルスィアの僅かな敵意と殺意を聴き分け、嗅ぎとり、回避してみせる。
ソルの戦陣よりも、遥かに高度に織り成し支配するこの世界で、アルスィアが仕留めきれない存在がいるとは。ケントロンで三人分の命と決意を固めてきたあの悪魔の域に、この獣はたった一人で辿り着いたというのか。
「この火に焼けぬものなどない! そこにある物を、敵意を、害意を! 全て焼き払い我が身だけが戦場に立つ。この身ある場こそ戦場よ!」
「一人で踊りたキャ路地裏で缶でも置くんだね。殺し合いをするなら獲物くらい放ちなよ、噛まれても知らないけどね!」
「息絶えた肉を勘定に入れる趣味は無いのでな!」
肉薄した瞬間、炎が沸き上がり視界が塞がる。熱と発光を伴って自己主張をするその喪失のエネルギーは、アルスィアから影という感覚器官さえも奪い去る。
当たらず、離れられず、見えず。これほどの男が生き物として存在する事に悪態さえ漏れそうになる。皮膚神経へと全集中力を向け、痛んだ瞬間にその場所へ妖刀を振り下ろす。
「苦し紛れの一撃にしては筋がいい。肘より先で振る練習でもしておけば、我が首を落とせたやもしれんな。」
「噛み潰しといてよく言うよ。肩の動きを、外套越しの腹を見て理解したとでも言うのかい?」
「裾だな。」
「聞いてないよ。」
切り上げられた腹と胸が、夥しい異臭と煙を鼻腔へと届けてくれる。ここにあるのは肉体ではないとはいえ、このダメージは大きい。一緒に取り込んだシュンは緩慢せずと、我が身ばかり守っている。もっとも、アルスィアに味方をする理由など彼女に無いのは百も承知だ、邪魔にならなければそれでいい。
あれを取り込んだのは、敗北した瞬間の為だ。開放されるタイミングが分かっていれば、あの獣人の動きだすタイミングが分かる。この距離だ、巻き込まれない為にはアルスィアも一緒に守ることになるだろう。
「くく、滾るな。いつまで続けてくれる?」
「そんな質問が飛ぶってことは、不都合でもあるのかい?」
「悦楽のみを追っている訳にもいくまい。我にも約束を守る義理ぐらいは残っている。」
「へぇ……その割には焦りがないけど。」
「この牙でも喰えぬものが控えているのだ、そう易く羽ばたきが止むことは無い。故にまだ楽しませてくれても良いが?」
アルスィアの限界が近いことを分かって言っているのだろう、落ち着き払った中に嘲るような見下しを感じ、思わず舌打ちが唇からはみ出す。本当に不愉快な男だ、と。
コレに対するために、既に肉体の方の五感は断ち、全神経で持って目の前の獣に集中している。その上でついに届いたその爪は、深くない一撃を与えてくれた。詰まるところ、アルスィアにはこれ以上の余力が無い。この世界は彼の心象であり夢想。そこに立つ彼もまた、心象であり偶像。それに届いた一撃は、この世界そのものに大きな隔たりを生む。
この世界が崩れるのも時間の問題であり、勝手に自戒するよりはアルスィアから閉じて締め出した方がマシだ。それを見抜いて、こう煽っているのである。
「ふん……まだ閉じさせて貰うよ。」
「ふん、外よりここで死合う事を望むか……悪くない。」
「死ぬのは君だけどね!」
影にその身を溶かせば、アルスィアの姿は見えなくなる。視覚、嗅覚、聴覚、全てが届かない「光のないモノ」という概念に潜る技法。アルスィアの道とは、それである。
そこまで遮断されては、目の前の獣もどうにも出来ない。攻撃の一瞬前に敵意を悟り、経験に培われた直勘で持って避けてくるが、反撃までは間に合わない。
アルスィアの息が続く限り、溶けては斬りかかり、再び溶ける。虚像や分身も交えながら、影の世界の利を極限まで活かす不可視のヒットアンドアウェイ。この獲物には刃まで届くことは無いが、意識の大部分を対応に割くことは出来る。
「いつまで続くかね?」
余力のある問いには返答せず、炎以外での迎撃の癖を測る。反撃の際には必要最小限の回避で行うだろう、その一瞬を狙う。
分身の虚像を手足へと差し向け、背後から首を狙う。狩り取れれば上場、無いのなら……分かりやすい狙いはアルスィアの位置を予測させる。その誘いを知ってか知らずか、獣の男はほんの僅かに身体を沈めて通り過ぎるアルスィアの背後を狙った。それを待っていた。
「深く沈め、【躊躇いの影】。」
「なんだ、この魔法は……?」
すれ違いざまに広がった外套が、深い影を落とす。反撃の為の姿勢は離脱を難しくし、意識外からの攻撃ではない魔法に対処が遅れた。
呑まれた瞬間に深い眠気が彼を襲う。日光も月光も関係なく戦場に生き続けたケモノに、抗う術は無かった。
ガクリと項垂れたが、ここにあるのは肉体でも魂でもない。というか、魂は今、離れた。強欲の悪魔がこれを使う時、食事に行きつかないように。目の前にあるのは生きているだけの屍であり抜け殻だ。そして影の世界に物体は入れない。
「さて、少し休めるか……」
「何をしたのですか?」
「対象の過去を夢の事象として檻にする魔法さ。もっとも、この世界でかけたんだから、この世界を閉じれば起きるだろうけど。」
「ではこの間に肉体を壊すことも不可能と。何のために?」
「一つは、そろそろ僕の肉体の状況を把握したかったから。もう一つは、不意打ちの為。」
「仕切り直せばいいと? 避けられると思いますが。彼の危機察知能力は異様です。」
「僕がそんな甘ったれた事を考えると思うかい?」
「はい。」
「あぁ、そう……」
説明する前に消沈しそうだが、それより確認すべきである。
「アレが君の鎖に捕まった時、僕の刀を使って逃れてた。悪魔の契約の力も使わせないと見て良いのかい?」
「対象に触れていればそうなりますね。何をさせる気でしょうか?」
「水の中でどれだけ持つ?」
「光ですから、特に問題は……」
「いや、君が。」
「……潜れるような水を得たことが無いので何とも。」
「気絶しても鎖は残るかい?」
「掛け直さなければ、時間とともに弱ります。抵抗され続ければ、そう長くは無いかと。数十秒でしょうか?」
「なるほどね、十分だ……おっと、モナクのやつ、また厄介なのと……彼と居ると退屈しないね。」
虚空を眺める彼の目線は、おそらく現実の何かに向いているのだろう。厄介、と一目で評されるなら悪魔だろうか、シュンは一人で納得した。
「嫌味ですか?」
「聞く必要あるかい? まぁいいや、モナクには……コレで伝わるでしょ。あとは……」
「独り言の癖でも?」
「人の心の中にズケズケ入り込んどいて、そんなことを気にするのかい?」
「攫われただけですから。」
「……我慢しなよ、ここは僕の心象世界だ。隠そうとしないと僕の思考が伝わって当たり前だろ、君が会話という手段で認識してるから声として聞こえるだけだよ。」
「隠してください。」
「疲れるからヤダね。思考を締め出すなんてのは、そうそうやる事でも無いんだ。」
そこまで言うと、彼は妖刀を握り直して獣人の男の前に立つ。
「少しやり合ってくるよ、僕も拾い物があるからね。二段階も潜れば、魂の片鱗を拾うくらいなら届くはずだし。」
「私は何をすれば?」
「この世界から追い出されたら水中だ。だからコイツを縛ってくれればいい。その後は水上に弾き出してあげるから好きにすればいいよ。」
「そうですか。」
「存外、素直に協力するんだね。」
「この方が動かない方が、悪魔達には不都合なのでしょう? でしたら、私はそちらを選びますよ。ウーリもそうしたでしょうから。」
「へぇ……そういう訳か。なんとなく君の事が分かってきたよ。僕は意外に好きかもね、そういうの。」
「不服ですね。」
「嫌われたものだね。」
抜け殻となった獣人の像に刀を突き立て、姿を消したアルスィア。彼の零した言葉を忌々しそうに振り払いながら、シュンは目覚めの時を待った。
大丈夫、待つのは慣れている。ただ薄暗く、仄暖かく、しかし冷たいこの空虚な世界で、一人立ち尽くす彼女は静かに目を閉じることにした。




