30 ハートに灯火を
【産まれたのは女の子か……がっかりだ。家を継がせたかったのに】
その声は、父のものでした。言われた覚えのない言葉。でも、心のどこかでそう思われていないかずっと心配していた言葉です。
【あんまり背が伸びなくて残念。これじゃ舞台映えしないわ。女優にするのも無理ね……つまらない】
これは母の声でした。一緒に観劇に行ったときの母の熱っぽい瞳を見て、私は舞台にいる俳優さんたちに嫉妬しました。私のお母様を奪わないでと泣いてしまったこともあります。
繰り返し繰り返し、両親がため息まじりで私を疎む声が囁かれます。
「嫌! なんですかこれ! 聞きたくないっ」
きっとこれは魔女と悪魔の嫌がらせです!
お父様もお母様も、絶対にこんなこと言わない!
そう思いながらも、私は不快な声から逃げるように、闇の中をもがくように移動しました。
……気づけば辺りは真っ暗でした。相変わらず呼吸が苦しくて体も重たく、夜の海で溺れているみたいです。
ここはどこ?
魔女の精神を苛む魔術にかかってしまったのでしょうか……。心が激しく動揺していて、あまり難しいことを考えられません。
【メリィって、本当にうざいわよね。大して可愛くもないくせに、男子に色目を使って……恥ずかしい子】
この声はイリーネちゃん?
他にも仲の良かった子たちが集まって、私の悪口を言って盛り上がっています。私がコンプレックスに思っていることや、品性の欠片もないようなことを楽しそうに……。
ぜ、全然平気です。
だって今の私には素敵なお友達が――。
【最初は仲良くしてあげたけど、もう用済み。あなたよりも面白いお友達ができたから。じゃあね、メリィ】
エナちゃん! どうしてそんなこと言うの!?
軽やかな足取りで去っていくエナちゃんを追いかけたくても、足がもつれて倒れ込んでしまいました。
……いつも、少しだけ不安でした。活発で明朗なエナちゃんには、私よりもふさわしいお友達がいるんじゃないかって。
【わたくしに取り入ろうとしているのかしら? 残念。没落した家の方に構っている時間はありませんの。弁えて? ごめんあそばせ】
クラリス様が私を一瞥して苦笑しました。
違います、そんなつもりはなくて……でも、華やかな社交界にいる方々を眩しく思うことはあって……。
二人とも、こんなことは言わない。たとえ心の中で思っていても、私に直接言うようなことは……。
「……っ」
嗚咽を漏らした途端、私の体は闇の中に沈んでいきました。
学校に入学した頃から、私の心はずっと不安定でした。
どんなに可愛くなろうと頑張っても、明るく元気に振舞っても、いつまでも自信が持てなくて、自分を冷静に見つめ直すことができない。その場をやり過ごす愛想笑いを覚えてしまったら、どれが本当の自分で、本当は何がしたいのか、全く分からなくなってしまいました。
十年後の自分がどんな大人になっているか、想像するだけで涙が出るほど怖い。
だって私には、特別なものが何もない。キラキラした同級生たちを見て、そう思ってしまったんです。
だから、ネロくんに出会ってからは、生まれた熱に身を任せて脇目もせずに追いかけました。まとわりつく不安は見て見ぬふりをして。
自分を揺るがせるような怖いことを考えるよりも、ネロくんのことを考えていた方が平和で安全で幸せだったから。
きっと私は、推し活で現実逃避をしていたんです。
「ネロくん……?」
ぼんやりと浮かぶ愛しい彼の姿。淡い微笑み。いえ、もしかしてまた悪魔が化けているのかも……。
【メリィちゃんは本当に俺のこと好き? 俺なら傷つけることを言わないからって、依存しているだけじゃないかな……本当はすごく迷惑だった。魔力をもらわなくちゃいけないから付き合ってあげていたけど、俺がきみみたいな臆病な子を好きになるわけないのに】
心臓を握りつぶされるような痛みを感じました。
息ができない。
【清々する。いなくなってくれてありがとう。さようなら】
私に背を向けて去っていくネロくんに、何も言えませんでした。
さすがの私も、彼の新しい一面を見ても今は喜ぶことができません。
分かっています。ネロくんはこんなひどいこと言わない。
悪魔が化けた偽物? それとも私の弱い心が作り出した幻?
だけど言われた言葉には、本物の痛みを伴う鋭さがあって、無視できません。
ネロくんが私なんかを好きになるわけがないって、自分が一番よく分かっています。
「もう一息じゃな。なんじゃ、愛だの恋だの恐れることはなかったな! こうも脆いとは――」
闇が蠢いて、私から力を奪っていきます。苦しくて寒くて寂しくて、早く楽になりたいという気持ちが芽生えました。
そうです、私なんか、いなくなっても誰も困りません。
騎士団の忠告を無視するような悪い子、助けに来てもらえるわけがない。
我が身のことよりも、ネロくんを危険に晒さないことの方が大切でしょう?
もう諦めて、このまま――。
「……っ」
私は無意識に自分の心臓の上に両手を重ねていました。
お守り石の感触に縋りつきます。
私はどうしたらいいんでしょうか?
教えて、ネロくん……。
『一つだけ確かなことがある。握手会で魔力をもらっているから分かるんだ。メリィちゃんが、どれだけ俺のことを大切に想ってくれているか。軽い気持ちなんかじゃないよ』
昨日の彼の言葉を思い出して、私は一つ頷きました。
何が本物で、何が嘘か分からない。自分を見失ってしまいそう。
でも、たった一つだけ、偽りなく答えられることがあります。さすがの私もこれだけは自信を持って言えます。それだけの想いを、時間を、シャレにならない額のお金だってつぎ込んできたんですから!
「私は、ネロくんが好きです。優しいあなたに甘えていたところもありますけど、でも、本当に大好きなんです……許されている限り、何度でもあなたに会いたい!」
冷たい指先に灯がともるように、お守り石から熱を感じました。
【メリィちゃんは俺のものだ! 魔女なんかに渡してたまるか!】
それは、嘘みたいに都合の良い言葉でした。ネロくんが必死さを滲ませた声で、私のことを呼んで……。
「ふふっ」
体が少し軽くなって、私は思い切り息を吸い込みました。
もしかしたら最初は辛い現実から目を逸らすために、ネロくんに夢中になっていったのかもしれません。
でも、キッカケはなんであれ、ここにはもう確かに愛があります。
「もちろんです。心も体も魂も、ネロくんにしか渡しません!」
推し活が現実逃避?
良いじゃないですか、たまには逃げたって。ずっと逃げ続けていたらツケを払わないといけないかもしれませんけど、ほとんどの時間は歯を食いしばって頑張っているつもりです。
現実を真面目に生きていると疲れるんです。頑張っても何もかもが上手くいくわけじゃなくて、自分にがっかりすることもたくさんあります。
それでも、推し騎士様がいるからまた頑張ろうって思えます。自分のためのご褒美です。
好きなものを好きなだけ摂取して何が悪いんです? もし推し騎士様にのめり込みすぎてなんらかの弊害があっても、自己責任で何とかしますよ。無気力で退屈な毎日を送るより、私にとっては何百倍も健康にいいんです!
誰かに咎められる謂われはありません。私は害悪ファンになった覚えはないので、誰にも迷惑をかけていないはずです。
たとえファンの一人に過ぎなくても構わない。報われなくても、ネロくんに大切に想ってもらえる姫君であり続けます!
「開き直りおった! 理解できぬ! さっきから心を覗いていたが、ほとんど一方的に恋い慕っているだけではないか! しかも異様に重い! 見返りもなく、なぜこんな無駄なことを!?」
「はぁ? 無駄なことなんか一つもありませんけど!?」
十年後、今の日々を馬鹿馬鹿しく思うようなつまらない大人にだけはなりたくない。私には、何一つ後悔しない自信があります。
ネロくんのことを考えてドキドキするこの楽しい毎日は、私だけの特別です!
絶対帰ります! 私の大好きな人たちがいる、あの素敵な日常に!
全てが吹っ切れて、すっきりしました。
まだ大丈夫、限界まで粘りますよ!
魔女の思い通りになんてならない。きっと私の大好きな騎士様が助けに来てくれるって信じています。ずっとずっと、世界が終わるまで諦めません!
待つのは得意です。
ネロくんのことを考えるだけで行列は苦ではなく、妄想しているだけで気づけば休日が終わっているなんていつものことです!
「はん、抵抗する気か? 本当に馬鹿な小娘じゃ! 誰も助けには来ない! 来られるわけがない!」
魔女の高笑いが聞こえます。
私は再び絡みついてくる闇を睨みつけました。
正直に言えば、怖いです。いつ殺されるのか、いつ心が折れるのか、考えると身がすくみます。
せめてもの抵抗に、心がむき出しになって恥も外聞もなくなった今、聞き分けのない女児のように精一杯の駄々をこねることにします。
「助けに来てくれるもん! 絶対、絶対に騎士様たちが守ってくれます!」
☆
仄かに光り出した石に、会議室が慌ただしくなる。
「石がメリィを探しています! やった! 石の魔力量的に、そうですね、ネロくんの他に五名程度でしたら同行が可能かと――」
「俺が行く。誰に止められても、絶対に行くからな!」
アステル団長が一番に手を挙げた。先ほどまで纏っていた団長としての威厳を放り投げて、子どもみたいな張り切りようだった。当然周りは止めたが、断固として拒否している。女王陛下の名前を出されても、引き下がることはなかった。
百五十年にも亘る魔女の呪いを解く絶好の機会だ。なりふり構っていられないのだろう。
こんな不確実な方法での転移にこの国の王子殿下を巻き込むなんて……と腹の底が冷えたが、正直俺は心強かった。だって、アステル団長は最強で最高の騎士だから。
「なら私も同行します。ええ、もちろん、地の底だろうが、宇宙の果てだろうが、アステル様とともに」
「……仕方ねぇな。俺も行く。あの悪魔には借りがある」
「じゃあ僕も。全部、ものすごく興味がある。それに元ファンのしでかした不始末を片付けなくちゃ」
ジュリアン様、トーラさん、ミューマさんが続いて名乗りを上げた。今王都にいる最強の騎士たちだ。誰一人として怯えてない。なんて頼もしいんだろう。
「ボクも! メリィちゃんはカフェの大切なお客様で、お友達で、親友のお姫様だもん!」
最後にリリンが元気よく俺の背中を叩いた。骨が砕けるかと思った。
「リリンくんは魔力を吸い取られてもある程度は戦えますから、この人選で問題ないかと」
ジュリアン様からは許可が出たけど、人数的にマクシムさんが同行することできなくなってしまった。
「いえ、私はこちらに残らないといけません。これをお持ちください」
マクシムさんは、俺に深紅の宝石を渡した。その宝石も二つあって、一つはマクシムさんが持つようだ。
「母の、悪魔の力が宿った結晶です。メリィに渡してください。帰還の時は、同じ悪魔の血が引き合う力でこちらに戻します」
恐ろしいことに、多分マクシムさん以外誰も帰りのことなんて考えてなかった。一抹の不安がよぎる。
転移が始まるまでまだ少しだけ猶予がある、とマクシムさんが告げると、アステル団長とトーラさんは本部に残っている騎士たちに魔力をもらいに行って、ジュリアン様とミューマさんは対魔女・悪魔用の試作品があると研究室に向かい、リリンも自分の大斧と俺の武器を取りに行ってくれた。
俺は待機だ。お守り石を光らせたまま本部の中を走り回れないから……。
「急展開過ぎないか!? 女王陛下への伝令がまだ帰ってきてないのに!」
「追加で行け! いっそ本人をお連れしろ! ああ、でも多分間に合わない……」
「我々でもっと強くアステル殿下を引き留めるべきではないか? あまりにも危険だろう」
「では貴様がやれ! 私は殿下に嫌われたくない! 後方で腕組みして理解者面していたい!」
騎士団の独断に対し、軍人たちが頭を抱えてしまっている。不憫だ。
周囲が慌ただしくなる中、残された俺はマクシムさんと少し気まずい時間を過ごした。
こういうとき、なんていうべきなのか分からない。将来義父になってもらいたい人に変な印象を持たれたくないし……。
「必ず連れて帰ります」
結局、それしか言えなかった。
マクシムさんは何度も礼を言ってから、俺に躊躇いがちに手を差し出した。魔力譲渡をしてくれるらしい。
有難く魔力を頂戴する。悪魔のハーフと言っても、魔力自体は本当に普通の人と変わらないみたいだ。なんともない。
「ネロくんは、元は狩人だったと聞きましたが……本当に?」
「あ、はい。そうです」
田舎の狩人なんかに娘はやれないと言われたらどうしよう。しかしマクシムさんは思わずと言ったように肩を揺らした。声を殺して笑っている。
悪い感じはしないけど、どうしたんだろう?
「父娘揃って狩人に心を奪われるなんて、血は争えないな」
「え?」
どういう意味かと問う前に、お守り石の光で視界が虹色に輝き出した。石がメリィちゃんの居場所を見つけてくれたみたいだ。
「みんな! 行くぞ!」
慌てて呼び戻された団長たちが俺の体に触れる。なんとか準備は間に合った。
「どうかご無事で! 娘をよろしくお願いします!」
「アステル様! ご武運を! あなたが戻られないとここにいる全員の首が危ういことをお忘れなく!」
マクシムさんや軍人たちに見送りの言葉をかけられてすぐ、体が浮遊感に包まれた。
石の力に引っ張られ、あっという間にいくつもの壁をすり抜けていくような感覚がした。
「!」
視界には、暗い色合いのマーブル模様が広がる。これが次元の狭間なのだろうか。想像以上に異様な空間だった。
一人だったら叫び出してしまうくらい怖かったけど、仲間が一緒だったからなんとか耐えられる。
待っていてメリィちゃん。もうすぐきみを迎えに行くから!
「――助けに来てくれるもん! 絶対、絶対に騎士様たちが守ってくれます!」
遠くでメリィちゃんの声が聞こえた。涙交じりの叫びが、どんどん近づいてくる。
俺たちのことを信じて待っている彼女の声が、石の力を加速させた。
「たとえ間に合わなくても、絶対に私の仇を取ってあなたと悪魔を八つ裂きにしてくれるもん!」
怖いことも言っている!
これはメリィちゃんの心からの声みたいだ。魔女と言い争っている?
「ていうか世界征服? そんなの絶対に無理ですっ! エストレーヤに星灯騎士団がある限り、あなたたちの負け確定です! ウチの国民は全員そう思ってますから! むしろ、世界中全部――」
メリィちゃんは全力で叫んだ。
「推し騎士様しか勝たないもん!!!」
その言葉が俺たちの心に火をつけた。
アステル団長が瞳を輝かせ、心底嬉しそうに笑った後、表情を引き締める。
「絶っ対助ける」
全員が視線を合わせて頷いた。
きっとみんな同じ気持ちだったと思う。
「――我らが姫君に、必ずや勝利を!」




