14 ダブルチャンス握手会
ベースメイクを直してからアイメイクだけ少し盛って、櫛で前髪を整え、香り立ちの弱い香水をつけ、しっかりと石鹸で手を洗ったら準備完了です。
いざ握手会へ! 待っていてください、ネロくん!
ほぼ同じ時刻に学校を出るということで、クラリス様やファンクラブの方々と一緒に握手会会場に向かうことになりました。
エナちゃんは早速他の会員さんとも仲良くなっていて、お互いの推し騎士様の魅力について語り合っています。彼女は一見して近寄りがたい美人さんなので、留学してすぐは学校に馴染めていませんでしたが、実際は喋りやすくて面白いので皆様の中心で話を牽引しています。
ただ、持ち前の気の強さも相まってトラブルに巻き込まれやすく、故郷での女子同士の湿った争いに辟易して留学してきたらしいです。
私は今でこそ頑張っていますが、人見知りで引っ込み思案な陰の者です。ほぼ初対面の方々の中にいると、自分からは上手く喋れません。失言が怖くて聞き役に徹しています。それでも今日は楽しい時間を過ごせました。
広場に着くと、既にたくさんの姫君や善意の民が集まっていました。エナちゃんはせっかくだからとトップ騎士のリナルド様の列に並ぶそうです。彼はまた南部に行かれてしまうので、王都でお目にかかれるのは今日くらいかもしれませんからね。
他のファンクラブの方々も、それぞれ推し騎士様の列に駆けて行きました。
私も意気揚々とネロくんの天幕を探したのですが、唖然としてしまいました。
「…………」
いつもだったら開始時間にはほとんど誰もいないのに、既に十人以上の女性が列を作っていたからです。同年代の学生もいれば、年上のお姉さん、はたまた若い母娘の二人組もいます。あ、男性も一名いました!
功績授与式の影響でしょうか。こんなの初めてです。
先日の討伐記念感謝の握手会の時とは違って、今回は魔力の譲渡を伴うので一人の列にしか並べないのに。しかも今日はトップ騎士様が二人も参加されるんですよ。そちらに人気が集中すると思っていたのですが……。
私はぷるぷると震えました。
推し騎士様が世間に見つかった興奮、出遅れてしまった焦り、彼が遠い存在になってしまったような寂しさ、人気が出始めたのに純粋に喜べないことに対する自己嫌悪……。
なかなか列に並びに行けず、私は立ち尽くしてしまいました。
「メリィさん、わたくし今日はネロ様の握手会に参加したいと思っているのですが、ご一緒してよろしいかしら? 紹介して下さいな」
「え!」
ふと気づくと、すぐそばにクラリス様がいらっしゃいました。白い日傘を畳み、私の手を引きます。
「ご存知でしょう? ダブルチャンス制度……二人で会えば、持ち時間が二倍になりますわ。わたくしはご挨拶と握手をしたら席を外しますので、後はお二人で交流されればいいわ」
「そんな……よろしいのですか?」
「ええ。お気になさらないで。期待の新人騎士様が気になっておりましたし、そのお力になれることは騎士団のファンとして光栄なことですもの」
本当にクラリス様が聖母に見えてきました。
列で待つ間、二人で雑談をする流れになりました。当然騎士団関係の話題になります。
「そう言えば先日、寿退団した騎士様の結婚式が執り行われて、それはもう豪華だったそうですわ。リナルド様の魂のこもった祝福の歌は、涙あり笑いありで大盛り上がりだったとか」
「そ、それはすごいですね。想像もつきません……」
リナルド様は普段は本当に格好良くて輝いているのですが、寂しいとすぐに泣いてしまうそうです。そういうところが愛される所以なのかもしれません。放っておけなくなるのも分かります。
「寿退団……本当にあるんですね」
「ええ、しかもお相手はファンの方だったそうですわ」
二人揃ってため息を吐きました。この列にいる誰かがネロくんと結婚することになったら、と考えるだけで人間の姿を保っていられなくなりそうです。
騎士団の創設から五年。
最近は結婚するために退団する騎士様も増えてきました。中には今まで応援してくれたファンへ説明するために、丁寧に会見を開かれる方もいらっしゃるくらいです。そこで語られる馴れ初めは乙女心に刺さるものが多いです。
私が印象に残ったのは、元々友人だったとあるお二人の馴れ初めです。
騎士になった彼が多くの女性たちにちやほやされるのを見て、激しく嫉妬する自分に気づいた彼女。彼もまた、たくさんの女性に好意を寄せられても、頭に思い描くのはいつも彼女のことばかりだと気づいたのです。結婚適齢期になった彼女にお見合いの話が来たと知り、その騎士様はいてもたってもいられずに求婚したのだとか。
最初からフラグの立っていた二人には勝てないよ……と姫君たちは涙したそうです。もしかしたら血の涙かもしれません。
しかし最も多いのはやはり、使い魔討伐で危険な目に遭って、愛に生きることを決意したという理由でしょうね。推し騎士様を案ずるあまり涙して送り出す姫君は多いですから。厳しい戦いの中、あの子をもう泣かせたくない、と言う気持ちが強まり、討伐後に退団して求婚する殿方が多い印象です。
恋愛絡みかどうかは分かりませんが、直近のカラスの使い魔討伐後も、何人か辞められたみたいです。命懸けのお仕事ですので、引き際を定めるのは大切なことだと思います。
推し騎士様が生きて帰ってきてくれるだけでいい。
きっと、ほとんどの姫君はそう思っています。私も一番の気持ちはそれです。
騎士を辞めて自分以外の誰かと結婚してしまっても、死に別れよりもはるかにマシな結果だと思います。
最上の結果を望んでしまったら、後はもうドロ沼です。自分の欲との戦いです。
……まぁ、ネロくんは騎士を辞める時期を明言して下さっているだけ有難いです。
約一年と数か月。
ネロくんの生存と、あわよくば少しだけ夢を見せてくれることを願って、私は握手会に通い続けるでしょう。
三十分ほど待って、ついに私たちの順番が回ってきました。
非番の騎士様がスタッフとして天幕の中へ案内して下さいます。
「あ」
私と目が合った瞬間、ネロくんが淡く微笑みました。
きっと初対面の方々と喋って気疲れしていたのでしょう。知っている顔を見ただけで安堵している様子に、心臓がきゅんと跳ねました。同時に凄まじいスピードで脳が空回ります。
ああああああ!
やっぱり無理! がっつり夢が見たい! 私と結婚して! ゆくゆくは同じお墓で眠らせて!
今日のネロくんも格好良すぎる! やっぱり騎士服が最高で至高!
あ、あ、あ、もしかして髪切ってますか? 全体的に一センチくらい短くなってますよね!?
ダメですどう頑張っても隠せないこんなのみんな好きになっちゃう私だけのネロくんでいてほしかったのにもうムリ世間が見逃すはずがない――!
この神々しさを前にしたら、そりゃ使い魔も地に墜ちますよ。ネロくんに撃ち落されたなら本望でしょう。微笑み一つで私のハートを撃ち抜いた美少年ですもの。誰も勝てません。
……ああ、生きていてくれて本当にありがとうございます。
全宇宙と母なる大地、ご両親およびご先祖様……ネロくんをこの世に産んでくださった全てに全身全霊で感謝いたします。むしろ私が産みたかったくらいです(?)。
「ど、どうしたのメリィちゃん、大丈夫?」
「メリィさん、戻ってきてくださいませ」
二人の呼びかけに私は我に返りました。入り口の辺りで十秒ほど体が硬直していたようです。
「ごめんなさい。ネロくんのあまりの尊さに意識が別次元に旅立っていました」
脳内細胞がかつてなく活性化して、この世の真理を見てしまった気分です。私は自分のおぞましいほどの欲深さを思い知り、逆に悟りました。
ネロくんの全てが私を狂わせている。謙虚で殊勝なことを頭で考えても、心と体が求めてやまない。抗うことは不可能です。
「今日も会えて嬉しいです。幸せ……っ」
ようやく彼の目の前に立ったところで感極まって泣き出してしまいました。ネロくんは慌て、クラリス様は冷静にハンカチを差し出して下さいました。高価なハンカチを汚すわけにはいきません。私は謝辞を述べて自分のハンカチで目元を押さえました。
はぁ、恥ずかしい。せっかくのメイクも崩れてしまって最悪です。でも気分は最高なので問題ありません。少し落ち着きを取り戻しました。
「大変失礼しました。もう大丈夫です」
「とても大丈夫そうには見えない……あの、何か悩んでいることがあったら言ってね。俺じゃ力になれないかもしれないけど……」
「何を仰っているのですか。ネロくんは私を動かすエネルギーの全てですよ」
生きる糧とはまさにネロくんのこと。
戸惑うネロくんに申し訳なく思いつつ、私はそこで並び立つクラリス様を紹介しました。これ以上お待たせするわけにはいきません。
「こちらは学校の先輩の……クラリス様です。ネロくんにお会いしてみたいとのことで、今日は一緒に来ていただきました」
見るからに貴族のご令嬢といった容姿のクラリス様に、ネロくんはどぎまぎしていました。
その初々しい反応を微笑ましげに眺めてから、クラリス様が淑女の礼をします。
「こんにちは、初めまして」
「こ、こんにちは」
「先日の使い魔討伐では第四戦功の授与おめでとうございます。勇敢に戦って国を守ってくださったこと、一国民としてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました」
「あ、えっと、応援して下さった皆さんのおかげです。こちらこそ、ありがとうございます」
「ふふ、これからも、頑張ってくださいませ」
クラリス様が差し出した手を、ネロくんはぎこちなく握り返しました。右手の紋章が紫色に光って、無事にクラリス様の魔力が譲渡されました。
手を離した際、クラリス様が首を傾げました。
「あら? 失礼……服に何か」
「? あ! すみません! 多分、犬の毛です。午前中に少し――」
ネロくんは袖口についていたふわふわの白い毛をつまみ、恥ずかしそうに俯きました。
私たちの動揺は凄まじかったと思います。特にクラリス様は今までのお上品な雰囲気が崩れ、前のめりにネロくんに詰め寄りました。
「それはもしや! 最近アステル様が飼い始めたという子犬様では!?」
「え、何で知ってるんですか? あ、これ言って良かったのかな……」
「ご心配には及びません! わたくし、クラリス・フレーミンと申します。ジュリアン副団長の従妹です!」
その瞬間、今度はネロくんがよろめいて、一歩下がりました。自分の髪を庇うように指で触れている様は、まるで見えない何かに怯えているようでした。
ジュリアン様は穏和な印象が強いのですが、騎士団員に対しては厳しい方なのかもしれません。副団長ですから、そういう面もあるのでしょうね。
「はっ、あ、すみません。ふ、副団長にはいつもお世話になっていて……」
「こちらこそ、いつもご迷惑をおかけしております。その子犬様のことは既にジュリアン従兄様から聞いておりましたので、情報漏洩の心配は不要です。それで? 子犬様にお会いしたのですか?」
「は、はい。今日の午前中にアステル団長が初めて本部に連れてきていて」
「どのような子犬なのですか!? どういう触れ合いを!?」
ネロくんが気圧されていたので、私はやんわりとクラリス様を制止しました。とはいえ、私も気になります。
子犬と戯れるネロくん……あまりにも見たい。
「えっと、白くてふわふわでコロコロした元気な子でした。団長がすごく可愛がっていて、犬も初めて来る場所にはしゃいでいて」
「そうでしたか、アステル様の楽しそうな顔が浮かびますわ」
「もしかしてネロくんも一緒に遊んだんですか?」
のほほんとした私たちに対し、ネロくんはそっと目を伏せました。
「ううん……俺は少し躾けた」
え。躾?
自分の行いを悔いるように、ネロくんは大きく肩を落としました。
「すごく賢い犬種なのに全然言うこと聞かないし、見境なく吠えたりじゃれついたり、人間のことを完全に下に見てるみたいだったから……」
実はネロくん、村ぐるみで狩猟犬の世話をしていた経験がありました。子犬のあまりのわんぱくぶりを黙って見ていられなかったようです。
通りがかった職員に噛みつこうとしたので、咄嗟に厳しく叱って大人しくするように教え込んでしまった、と。
よくよく話を聞けば、アステル殿下が名づけに迷っていていろいろな呼び方で子犬を混乱させていたり、欲しがるだけ餌を食べさせていたり、悪戯をしても笑って許していたり、あまりよろしくない育て方をしていたと判明したそうです。
「このままじゃ犬の健康にも良くないし、いろいろな人に迷惑をかけるって、つい団長に苦言を呈してしまって……犬と並んで一緒にしゅんとされてしまって心苦しかった」
「はうぁっ……!?」
その姿を想像したクラリス様が奇声を上げて口を押えました。しかし目が爛々と輝いています。
「えっと、出過ぎた真似をしてしまって……」
「そ、そんなことないと思いますよ。ネロくんに調教してもらえるなんてご褒美ですし。アステル殿下も怒っていらっしゃらなかったんでしょう?」
「た、多分。『ごめんな! これからはたくさん勉強する! 一緒に長生きしような!』って子犬を抱きしめてよしよししてた」
「ふっ……!」
今度は胸を押さえて蹲るクラリス様。あまりにも刺激が強くて気が遠くなったようですね。
ネロくんが本気で心配しています。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。ときめきで眩暈がして……わ、わたくしは、この辺りで失礼いたしますね。少し風に当たってこないと、爆散しそうですわ」
「爆散!?」
「よくあることです。お気になさらず」
不穏な言葉を残しながらも、どこか晴れ晴れとした表情でクラリス様が天幕から出ていかれました。予期せぬ場所で推し騎士様の萌えエピソードを摂取できたので、ご満足いただけたことでしょう。
私も可愛い生き物に厳しく接するネロくんを想像して、めちゃくちゃ悶えてしまいました。くっ、私も犬になりたい……!




