8話 涙が落ちる音
翌朝、疲れた顔で帰ってきたミルディアを、アルティたちは満面の笑みで出迎えた。それを見て修理が完了したと悟ったらしい。ミルディアは家の中に駆け込むと、兜を求めて部屋を回り始めた。
さすがにトイレの中には置いていない。放り出された荷物を玄関の隅に寄せ、ミルディアのあとを追いかける。
「落ち着いてください、ミルディアさん。兜はここです。リリアナさんが預かっています」
「すみません。離れから持ち出したあと、そのまま玄関先で待ってたので……」
「あ、あら、私ったら……。ごめんなさいね」
布で包まれた兜を見て、ミルディアが頬を赤らめる。
キッチンの椅子に誘導し、彼女の前に兜を置く。ミルディアは布を剥ごうと手を伸ばしたが――それ以上動かせずにテーブルの上に置いた。握りしめた両手は震え、顔も真っ青だ。それでいて瞳は期待に満ちている。
見たい気持ちと、怖い気持ちがせめぎ合っているのだろう。彼女は兜から目を離さず、唇を強く噛みしめ、自分の中の荒れ狂う感情を押さえ込もうと必死の様子だった。
「ミルディアさん、大丈夫ですか?」
傍らに立ったリリアナが優しく背中を撫でる。それでようやく我に返ったらしい。ミルディアは大きく肩を揺らして兜から目を逸らすと、両手を額に当てた。
「ごめんなさい。少しだけ時間をちょうだい……」
「……お茶でも淹れましょうか」
一週間も通ったのだ。勝手知ったるキッチンである。アルティが手早く紅茶を淹れる隣で、ベリー入りのクッキーを大皿に盛ったリリアナが、心配そうな目をミルディアに向ける。
頷き返して共に席につき、ミルディアにカップを差し出す。彼女は紅茶に口をつけると、兜を横目で何度か確認しながら、ふうとため息をついた。
「野外演習、いかがでしたか?」
あえて兜と関係のない話題を持ちかけたリリアナに、ミルディアの唇が少し綻ぶ。
「百年近くこの時期に同じことをしているけど、年々子供たちの忍耐力が小さくなっているわね。人工魔石が開発されて、快適な環境に慣れすぎたのかしら」
「ああ、うちのぶ……知り合いの部下も野外演習に連れ出すと不平不満が出て大変だそうです。ただ、まあ、都会暮らしでも田舎暮らしでも、平気で泥水啜るタイプのやつもいるし。要は本人の性質というか」
「まあ、そうよねえ。いかにも文系オタクみたいな子が、いきなり野生の猪を獲って食べたりするから面白いのよねえ」
彼女らは一体どんな野外演習をさせているのだろうか。気にはなるが聞くのは怖い。田舎の貧乏暮らしをしてきたアルティでも、さすがに泥水は啜らないし、猪も獲らない。
「あの……。俺の友人にレイという名のハーフエルフの魔法紋師がいるんですが、ご存知ですか? 百年前に魔法学校に通ってたみたいなんですけど」
「レイ? レイって、あのレイ・アグニス? 翡翠色の目をして、朝がとても弱い?」
「そのレイ・アグニスです」
百年前から低血圧だったらしい。頷くアルティに、ミルディアは顔を輝かせた。
「あら、懐かしい。あの子はとても優秀な子だったわ。だから首都に召集されてしまってね。そのまま学校に戻らなかったから、ずっと心配していたけど……。立派な魔法紋師になって、ヒト種のお友達ができたの。そう……」
ミルディアが空になったカップを握りしめる。今まで送り出した教え子たちの顔を思い出しているのかもしれない。中にはレイのように二度と戻らないものもいただろう。生死に関わらず、ミルディアはこれまで数多くの別れを経験しているのだ。
長命種の気持ちはヒト種のアルティにはわからない。こちらは置いていく側だからだ。もし戦争がなかったとしても、フェリクスもエドウィンも、いつかはミルディアを置いていく日がきたはずだ。
それでも、残したいものはある。だからエドウィンは、フェリクスの忘れ形見をミルディアに届けにきたのだろう。
「……百年も経つと、色々変わっていくわね。時の流れは残酷だわ」
「変わらないものもありますよ。この兜に込められた想いとか」
ミルディアは悲しみで霞んだ瞳を兜に向けたが、やはり手を伸ばそうとはしなかった。
百年前とほぼ変わらない内装。保護魔法がかけられた離れ。そして、手入れされずに戸棚に眠っていた兜。彼女は前に進むのを恐れているのだ。未来に目を向けることは、フェリクスとエドウィンがいない世界を完全に受け入れることになるから。
しかし同時に、心の奥底では希望を求めてもいるはずだとアルティは気づいていた。成り行きとはいえ、兜を預けたのがその証拠だ。彼女自身もわかっているのだ。このままではいけないと。
「ミルディアさん、この金槌を見てもらえませんか」
机の上に、エドウィンとクリフから託された金槌を置く。それを見た途端、ミルディアはわなわなと震え出した。百年の時が経ってもなお、彼女はしっかりと覚えているのだ。大事な友人の相棒を。
「これ、これはエドの……。どうして? どうして、あなたが?」
「実は俺の師のクリフは、一時期エドウィンさんに弟子入りしていました。つまり、俺はエドウィンさんの孫弟子なんです」
ミルディアの目が大きく見開かれる。
「孫弟子……? じゃあエドは首都にいたの? どうして一度も居場所を知らせてくれなかったの? い、いいえ、それより、彼は……最期まで幸せに生きたの?」
それはアルティにもわからない。首を小さく横に振る。
「旅先で出会って、二年ぐらいで別れてしまったようで……。エドウィンさんのその後はわかりません。師匠にも自分の過去は一切語らなかったそうです。でも、エドウィンさんの技術は確実に未来へ――俺に受け継がれてる」
金槌の隣へ兜を押し出す。ミルディアにもう一度歩き出してもらうために。
「もし、この兜がまた錆びてしまっても、俺の弟子や、その孫弟子が必ず直します。だからどうか、レイや、フェリクスさんや、エドウィンさんのように俺たちのことも覚えていてもらえませんか。エドウィンさんの技術がさらに未来にまで生きているか、あなたがその目で確かめてください」
ぽた、とテーブルの上に雫が落ちた。まるで水晶を溶かしたような美しい透明な雫だ。ミルディアは声もなく静かに唇を震わせながら、青い瞳でただアルティを見つめている。
「私に……生きていけというの? この世界に、たった一人で?」
「一人じゃありません。あなたの中には、これまで共に歩んできた人たちの思い出が確かに息づいているはずです。そして、これから出会う人たちの思い出も必ず、一千年を生きるあなたの糧になる。エドウィンさんがどうしてこの兜を届けにきたのか、本当はもうわかっているんでしょう?」
一つずつ兜を分解して再構築していく過程で、アルティは確かに聞いた気がした。
『フェルのことをずっと覚えていてやってくれ』
そう囁くエドウィンの声が。
「フェリクス……エド……」
涙が落ちる音が大きくなった。
アルティとリリアナが見守る中、ミルディアは震える手で布を掴んだ。
ホテルに戻ったとき、アルティとリリアナはすっかり濡れ鼠になっていた。朝は晴れていたので、うっかり傘を忘れたらこの有様である。エルフが泣くと大雨になるというのは本当だったようだ。
部屋に戻る前に、フロントマンが差し出してくれたタオルで体を拭いていると、ラウンジのソファに座っていた大小の影がこちらに近づいてきた。ラドクリフとエスメラルダだ。
「おかえり、アルティ! おねえさま!」
「ただいま、エミィ。今日も可愛いなあ」
「あっ、こら。触んないでよ、リリィ。エミィが濡れちゃうだろ」
濡れるのも躊躇せずリリアナの腕に飛び込んでいくエスメラルダを見て、ラドクリフが火の魔法で体を乾かしてくれた。
「ありがとうございます。でも、なんでラドクリフさまたちがここに?」
「なんでって、ホテルが営業再開したから迎えにきたんだよ。ここは仮の宿なんだってこと、忘れてない?」
そういえばそうだった。ここの生活に馴染んでいたので、すっかり失念していた。
「馬車を待たせてるから、早く荷物回収してきて。宿代はもう払っといたから」
「ええ、今戻ってきたばっかりなのに……」
「こいつ、案外せっかちなんだよな」
ラドクリフに追い立てられるようにホテルを後にし、馬車で坂道を下っていく。その途中でミルディアの家の前に差し掛かった。
ミルディアはキッチンにいるようだ。穏やかなオレンジ色の明かりが窓から漏れている。
「あっ、ほら、アルティ」
「っ!」
涙が滲みそうになって、ぐっと唇を噛む。アルティは確かに見た。リリアナが指差す先、鮮やかなコバルトブルーのカーテンの向こうで、兜と向かい合うミルディアの姿を。
「……希望は持てた?」
静かに問うエスメラルダに、微笑みを返す。
「どうだろう。俺たちは未来まで一緒に行けないからね。でも、きっと……俺の弟子や孫弟子が、あの家の扉を叩くはずだよ」
未来を思い描くように目を細める。ドアを開けて彼らを出迎えるミルディアは、去り際と同じ表情を浮かべているはずだ。
弟子たちにはレモンタルトが絶品だったと伝えておいてやろう。ああ、もしかしたら甘いものに釣られないやつかもしれないから、もう一言添えておこうか。
目尻に皺を寄せて笑う姿は、まるで澄み渡った青空のように美しかったと。
「……そう、よかったね。君、初めて会ったときよりもいい職人になったんじゃない? 今度は俺も作ってもらおうかな」
「あっ! 何を抜け駆けしてるんだ! 次に作ってもらうのは私だぞ!」
「リリィは作ってもらったばっかりでしょ。そもそも、今着てないじゃん」
「これは……! 鎧を着ていると、ミルディアさんが辛いと思ったから……!」
「あ、あの、喧嘩しないでください。首都に戻ったらなんでも作りますから……」
宥めるアルティに、エスメラルダが頬あたりの闇を膨らませた。
「二人とも、ずるい! 私もほしい! マーガレットだって、作ってもらいたいよね?」
可愛らしいおねだりに、大人たちが破顔する。
雨は通り雨だったらしい。馬車の窓を開けると、初めてシエラ・シエルに降り立ったときと同じ爽やかな風が、アルティの頬をそっと撫でていった。
過去を辿る旅はこれにて終了です。
次回、シエラ・シエルを離れて帰宅の途につきます。




