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第35話:元国王のスピーチ

 ジェイルは窓に近寄った。格子越しに自分を見上げているのは間違いなくチセなのに、あまりの非現実感に、口を動かしても声が出ない。数回目のチャレンジで、ようやく喉を通った空気が言葉になった。

「こんなところで、何をしてるんだ」

 チセが呆れた顔をした。

「それ、こっちのセリフですよ。『すぐ戻る』って置き手紙があったのに、次の日になっても帰ってこないから、探しに来たんじゃないですか。ジェイルさんこそ、こんなところで何してるんですか」

「ユナル叔父の部下に拉致されて、誘拐されている」

「え、この民家で?」

 チセが一歩後ずさり、家を見回した。眠らされて連れてこられたから、ジェイルは外観を知らないが、誘拐という響きからは程遠い、ごく一般的なヴェイラの住宅だろう。

「玄関と部屋の入口に、それぞれ鍵がかかっていて、出られない」

「ひえー」と驚きつつも、チセは「幽閉だなんて、一流の王侯貴族の証じゃないですか」とうそぶいた。

「まったく嬉しくない」

 そう反論しながら、ジェイルは口元がほころびかけているのに気がついた。笑っている場合ではないのに、いったいどうしたことだろう。ひとつはっきりしているのは、沈鬱な気持ちが一気に軽くなっているということだ。

 ジェイルは表情をつくり直し、声をひそめてことの次第を説明した。クーデターという言葉に、さすがのチセも目を見開く。

「それにしても、どうして俺がここにいることがわかった」

 チセは鞄からiPadを取り出した。

「『Find My iPhone』って機能、知ってます? 登録してれば、iPhoneの位置がわかるんですよ。ジェイルさん、私のiPhoneを持ってっちゃったんでしょう? いったんホテルに戻って、置いてたiPadで調べてみたら、ここを指してたんです」

 不幸中の幸いか、ヌアークは電源を切らないまま、この家にチセのiPhoneを保管していたらしい。

「Google Mapを頼りに来てみたんですけど、GPSが微妙にずれてて、家が特定できなくて、このあたりをうろうろしてたんですよ。で、悪いかなと思いつつ庭に入ってみたら、ジェイルさんらしき人影が見えたから」

「いい判断だ。正面から来なくてよかった」

 ジェイルはドアのほうを振り返る。今は廊下にアンバムやディナラの気配はないが、いつ監視に戻ってくるかわからない。

「家にいるのは女性と子どもだけだが、見つかってヌアークに連絡されるとまずい。そのiPadは、電話は無理か」

「通話機能はないです。ネット通信だけ」

 チセはモバイルWi-Fiをポケットから取り出して、窓枠に置いた。となると、使えるのはインターネットとメールということだ。ここから脱出するために何ができるのか、考えなければいけない。

「警察にメールして、状況と住所を伝えるとか?」

「やってもいいが、いたずらだと思われる可能性が高いな……。メールは時間差もある」

 あいにくヴェイラの公共機関のウェブシステムはそれほど整備されていない。公式サイトの窓口のようなところからメールしたところで、いつ対応されるか怪しいところだ。

「日本大使館に訴えましょうか」

 チセ自身が被害を受けているなら有効だが、ジェイルの誘拐に関してはヴェイラ国内の事件だ。内政不干渉の原則で、大使館から手出しはできないだろう。

「とはいえクーデターの話だけでも、伝える価値はあるかもしれない」

「問題は、どうやって信じてもらうかですよね。私がいきなり言ったって、信ぴょう性ないですもん。なにか証拠になるようなものがあればいいんですけど……」

 クーデター計画の証拠なんてない。あるのは、ジェイルの脳内の記憶だけだ。

 ジェイルはハッと頭を上げ、チセのiPadを指差した。

「それ、動画が撮れるな?」

 言いたいことを理解したらしいチセが、ぶんぶんと頷く。

「俺が喋っている動画を警察に持っていけば、ヴェイラ語で伝えられるし、俺だということを証明できる」

「それでいきましょう」

 チセが、窓の格子の隙間にiPadを通してよこした。

「セルフィー、やったことあります?」

「ある訳がないだろう」

 自分で自分を撮るという行為には抵抗があるが、背に腹は代えられない。iPadをデスクに置き、壁に立てかけて角度を調整する。画面に、まばらに髭が生えた男の顔が映った。

 赤いボタンを押すと、録画が開始された。なるべく感情を排するように意識して、ジェイルは語りだす。軍部とムラトたち超党派が手を組んで、建国祭に合わせてクーデターを計画していること。自分はその一派に誘拐されており、助けが必要なこと。詳しい場所はこの映像を持ってきた日本人女性に従ってほしいこと。

 簡潔に、素早く語ることを心がけた。話し終えて、もう一度ボタンを押す。

必要なことはすべて言えたはずだ。一息ついてジェイルは椅子から立ち上がり、窓際に戻った。

「終わった」

「念のため、再生してもいいですか?」

 チセはiPadを手に取ると、画面の中でジェイルが話すのをじっと見た。ヴェイラ語だから内容はわからないはずだが、1分弱の動画を見終わっても、何かを考え込んでいるようで、動かない。

「いつヌアークが帰ってくるかわからない。早く――」

「なんか……足りない気がします」

 痺れを切らしたジェイルの言葉を、チセが遮った。

「これだけじゃ伝わらないと思います。私、警察の人を説得できる気がしない」

 この期に及んでチセは何を言うのか。ジェイルは声をひそめて反論した。

「言葉がわからないからそう思うだけじゃないか? 必要な情報は全部言っている」

「そういうことじゃなくて、事務的すぎるっていうか。ぐっとこないっていうか」

「情報を伝えるのに、ぐっとくる必要があるか?」

 ジェイルは失笑したが、チセは真面目な顔をしている。

「だって、クーデターを計画してるの、有名な政治家とか学者の人たちなんでしょう。その人たちと、ジェイルさんひとり、どっちの信用度が高いと思います? ジェイルさんが警察だとして、突然この映像を見せられて、すんなり信じますか。しかも、現政権のアンチだって報道されてるんですよ」

 ジェイルだって、そんなことはわかっている。だから冷静に事実を述べたのに。

「じゃあ、ユナル叔父にハメられた顛末や、ラーニア様のことまで、こと細かに説明しろというのか?」

 チセは首を横に振り、改めてジェイルを見上げて言った。

「ジェイルさんって、口が悪いけどじつは律儀じゃないですか」

 唐突な発言に、ジェイルは面食らう。

「ほかにも、チンピラみたいな見た目だけど品がいいし、悪態つきつつもやさしいし、くよくよしてるけど真面目で意志が強い」

「褒めているのか? それとも、けなしたいのか」

 話の流れが読めず、ジェイルは困惑を隠せない。

「何が言いたいかっていうと、私はジェイルさんのことが好きなんです。元国王だから、という理由じゃありません。あなたの人間性を知ったからです」

 つまり、とチセは続けた。

「ジェイルさんは自分を隠そうとする節があるけど、もっと出したほうがいい。人って、人間性に惹かれるものじゃないですか。動画だって同じ。ジェイルさんの気持ちを正直に言えば、見ている人にはきっと響きます」

「俺の話なんて……」

 そうためらいながらも、ジェイル自身、わかりかけていた。感情があふれてくるのを感じて、格子をぐっと握りしめる。

 ダメ押しで、チセが背中を押すように、いたずらを企んでいる笑みを浮かべた。

「言いたいこと、本当はいっぱいあるでしょう。言っちゃえ!」


 ジェイルには苦手なものが3つある。写真撮影、子どもの相手、そしてスピーチ。

 15年前の民主化宣言が、人生で最後のスピーチのはずだった。宮殿の大議場の中心に立ち、震えを隠しながら、国民に対して演説し終わったとき、これっきりだと胸に誓ったのに。


「iPadを、貸してくれ」

 同時にあのとき、言えなかったことが確かにあった。自分自身でもはっきりと認識できない程度の、何かの萌芽。その後の15年間のなかで、それは枯れたわけではなく、いろんなものの影響を少しずつ受けながら、ひそかに呼吸を続けていた。そしてずっと、現れるときを待っていたような気がする。

「録画している間は、窓から離れていろ」

「私、ヴェイラ語わかりませんよ」

「それでも恥ずかしいんだ」

 チセは微笑んで、ジェイルの希望通り、窓辺から離れて背を向けた。

 ジェイルは再度iPadを机にセットする。部屋は静かで、ジェイルの心も不思議と落ち着いていた。深呼吸して、画面に手を伸ばした。


***


私はジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットです。どうしても自分の言葉で伝えたいことがあり、この映像を撮っています。


まず、最近あった私に関する報道について。現政権に不満がある、政治活動をする……これらはすべてウソです。私は政治家には向いていません。権力にも興味がありません。15年前に引退した、これがすべてです。


ただ、ヴェイラの行く先に無関心というわけではありません。むしろ私はずっと、国に対してできなかったことばかりを考えて生きてきました。もっと貢献できたのではないか、国王としてあまりに無力だったのではないか……。退位後、逃げるようにヴェイラを去り、遠い国で学問に没頭しましたが、心の深い部分は祖国にありました。


そして5年前に帰国し、今は首都に住んでいます。旧市街の、築35年の古いアパートの一部屋に。素性を隠すためあまり出歩きませんが、早朝のランニングが日課です。トランティウ市場に立ち並ぶ屋台の横をすり抜けることもありますし、寺院通りの静寂を楽しむこともあります。旧市街と新市街を結ぶ大橋を、会社や学校に向かうバイクと並走することもあります。

この街の一部になれる瞬間を、私はとても心地よいと感じます。こんなことは15年前には考えられませんでした。


今、過去を美化し、武力で政治体制をくつがえそうという動きがあります。確かに民主主義は完璧な正解ではないし、改善の余地はたくさんあるでしょう。それでも、一部の人間に富や権力が集中するアンフェアな社会に戻すべきではありません。元国王だった私が保障します。


これから私は、一市民として、国に対してできることについて考え、行動したい。そしてもう、自分が何者かを隠して生きることはしません。


最後に、もしいつかあなたが、走っている私とすれ違ったとき、挨拶できたら本当に嬉しい。


以上です。聞いてくれてありがとうございました。


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